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こばなし

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みじかいおはなしのようなものを
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すきなひとをすきだった世界

ふ、と気がついたら 暗がりのなかに突っ立っていた。 足元に薄い影が落ちている。 ふりかえると、窓の向こう、なんとも月のいい夜だった。 すきなひとが眠っている。 もう何年も話していない、 どんな町に住んでいるかも知らない、そのひとの 寝室に今、自分は立っている。 すきなひとの寝息だけが聞こえる。 (もう会えないのだろうか) ゆっくりと踏み出してゆく。 いつもの自分の足なのに、なにひとつ音がない。 (もう会えないと思っていたのに) (会えなくなったとして、今となにも変わらない

輪っかをつくる

ある村にとても長い腕をもつ男がいた。 名は日乃彦といいおだやかでやさしい心根の持ち主であった。 水汲みへゆくにも兎を追うにも日乃彦がいれば百人力というように、村の皆から頼り慕われていた。 その長い腕は人の5倍の水を汲み、 兎は呆気に取られつつ腕の中にたやすく収まり、 木の天辺で悠々と日を浴びる果実を捥いでゆき、 往来でよろける人が見えれば声が届くより先に肩を支えた。 その中でも日乃彦の元にたびたびやってくる頼まれごとは、子どもらの遊びに混ざることだった。 「日乃兄ちゃん、輪っ

胸をあたためる

しんしんと泣いていると、ふと部屋が揺れている気がした。 その、ふと、の一瞬間、呼吸を止めて わたしはわたし以外の揺れを探そうとする。 涙が流れたあとの頬はつっぱってしかたない。 揺れている。 ゆっくりと。 船のように、ただ夜風に凪いでいるのだろうか。 うちは、古いアパートだから。 褪せた桃色のカーテンのむこうを覗こうか迷ったけれどやめておいた。 ねむりたい。 うまくねむれるか、ふあんだな。 そんなときは、胸をあたためるといいと、いつか、朝子さんは言っていた。 「胸が熱くな

生老病死にパンを

生老病死に、パンをふるまいたいと言ったら 「ありがとう。いただきます」 「やわらかいのを、小さくちぎってね」 「今は、いいにおいだけで十分だ」 「もうおなかいっぱいです。ありがとう」 そう、言うので結局パンは半分とすこし、余ってしまった。 次の日、 生の皿には、死の分のも合わせてふたきれのパンを。 老の皿には、塩と砂糖の少ないこまぎれのパンを。 病の皿には、焼きたてのパンをひときれのせて、冷めるたびに取り替えてやった。 ときどき、パンはなくなっていて そのときはいつもより

みずうみのはなし

波がないからここはみずうみなんだろうか。 辺りを見渡すと、ひととひとや、ひととことや、ものとことが 見つめ合ったり話しあっていたり抱き合っていたりしていた。 (そうか、わたしたちは一個ずつだからちがう一個のこともわかる。大事にできる) 空には薄日が射していて遠くの山のてっぺんが照らされている。 水をかきわけ、平泳ぎで進む。 驚嘆や感動がそこかしこから立ち上り、水はどんどんやわらかくなる。 どうやら、そういう心の揺れがこのみずうみにとっては「よいもの」であるらしい。水に浸ってい