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CRAZY GONNA CRAZY

等身大の光というものがあるならこの、年末から年明けにかけてそこにあるのかもしれないと思う。本来の色を明け渡して輝くアスファルトが眩しくて思わず手をかざす。陽を背に受ければ向こうからやってくる人たちがなにか舞台の登場人物のように見えるし、光源に対すれば彼らを乱反射の先へと見失う。十代の頃の元旦の楽しみは、特別版で普段の三、四倍も厚みを重ねた新聞各紙をじっくり読むことだった。コンビニのない時代の元日の朝、往復20分をかけて父が駅の売店まで新聞を買いに行ってくれる(何回かは一緒に行った記憶がある)。民放が三局しかない鳥取のテレビがお年玉のように正月深夜に放出する映画特集に期待したり、善き予感を湛えて筆を走らせる文化人たちの文章に目を通したりした。今でもその習慣は続けていて、出版に携わる身としては版元各社が腕を振るう自社の広告を比較検討する。今年は掲出する新聞ごとにテーマを変えた集英社のアンビグラムの広告が面白かった。毎年恒例が消えていくなかにこういう毎年恒例を作る過程は楽しそう。正月らしさは街角からもテレビの中からも新聞の上からも乏しくなって、服やレコードのセールにも行かなくなった。あるとすれば、まだ人影もまばらな東京の路地をひとり歩くときの、その横殴りの光の中にある、と感じる。地球が大きく傾いて光が真横に地表を抜けていく。TRFの流れる新春ドラマに出ていた鈴木京香が20数年ぶりに素敵なカフをつけて戻って来たのは大晦日が年二回ある不思議な年だった。光る散歩の途中で青い看板が誘う小さなワインショップに入る。ワインが好きで好きでといった感じの夫婦が小さな角打スペースへと案内してくれて、おすすめの一杯をいただくことにする。珍しそうなロゼだ。「大学受験を控えた、まだ付き合いはじめの高校生のカップルがさる田舎にいまして、年末年始の長い冬休み、お互い会いたいのだけれど家族の行事もあるし行くあてになるような華やかな場所もない。どちらからともなく出てきた口実は初詣で、合流した自転車は町はずれの高台にある神社に行きます。年一番の人だかりを避けて、うら寂れたところに。折しも年末の大雪の名残、自転車を停めた先の石段の隙間にはちろちろと新年へとまたいだ水が流れていて、その階段の先には新春の澄んだ空気が青く輝いて見えた。今年は春が早く来てしまいそうだね。そんな期待にかすかな苦味の混じる、フレッシュでミネラル感のある希少なロゼです」。注がれるパールオレンジの先にラベルが見える。CRAZY GONNA CRAZY。

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