多様性の光と影

先日、こんなツイートをした。


このツイートの背景を書きたいと思う。
「多様性を尊重しよう」と主張する人達と関わった過程で思ったことだ。

初めに申し上げると、私は多様性の概念は支持している。

人間社会で今は低い評価を受けている人でも、環境が激変すれば生き残るのはその人かもしれない。だから多様性は重要だと考えている。

仮にもし地球が一気に暑くなれば、暑さに強い人が生き残り、寒さに強くて暑さに弱い人は死に絶えるかもしれない。今までだって、工業化した時代に農耕に向く人の仕事が減少し、農耕中心の時代に体力が少なくて鼻つまみ者にされていた人が能力を発揮する機会を得ただろうと思う。遺伝子のランダム性でヒトは多様性を獲得できて、その影響もあって繁栄したのだろう。時代が、求められるものが変わっても誰かが適応して、ヒトの命を繋いできてくれたのだろう。
私は多様性の概念は必要と思う。私のような変わり者が受け入れられる社会はありがたい限りとも思う。

しかし多様性尊重を訴える人たちの仲間に入ってみると、なぜか疑問符が浮かぶことが多かった。「違いを尊重する」「多様性を活かす」と口では繰り返し言うのだが、少しでも批判があると受け付けない。少しでも違う意見を言われると拒否する。仲間の意見を聞くふりはしてみせるが、既に決まっている何らかがあるのか、意見は宙に浮いて消えてしまう…

「人の役に立たない、人の足を引っ張って喜ぶような人間は要らない」
「法律で決まった罰を受ける覚悟さえあれば、人を殺したって構わない」

そんな発言すら聞こえてきた。

そして内部の会話は同調に終始し、とてもじゃないが違う意見を受け付けるような雰囲気がなかった。意見を募ってはみせるのだが見せかけなのか、違う意見が参考にされることは全くない。

「なぜ分からないんだ?と思う。なぜこんなに愚かなんだと思う。みんな全体が見えていないから世の中が良くならない。みんな自分の専門のことしか分かっていない。尊敬できる人はいない」

こういった発言が平然となされていた。

「なぜ分からないんだ?」は、私が言いたいセリフである。
目立たない仕事で人の役に立ちながら、ストレスを抱えてプライベートで憂さ晴らしのように人の足を引っ張る人だっているだろう。それはいいことではないかもしれないが、その人の仕事のおかげで成り立っていることだってあるはずだ。
自衛隊を退職してから、その恐ろしいほどの風貌と迫力で隣近所にクレームを継続していた人を知っている。隣近所に何らかの問題はあったのかもしれないが、直接家に押しかけて繰り返し怒鳴るのは攻撃的だと感じた。
その場面だけを見れば、その人は攻撃的で人の足を引っ張っていたという見方も可能だろう。しかし言うまでもなく自衛隊を務めていた人が人の役に立ち、社会を支えていることは間違いない。

「人の役に立つ人」と「人の足を引っ張る人」を明確に分けることなど不可能なのだ。同じ人が違う場所で、人の役に立ったり人の足を引っ張ったりするのだ。なぜそんなことも分からないのだろう。そんな簡単なことも分からないのになぜ、偉そうなことが言えるのだろう。

全体が見えるなどと言うが、何の具体例も知らないのではないか。それを「専門で視野狭窄にならずに全体を見る」という綺麗な言葉で誤魔化しているだけではないのか?

「抽象的なことは分かるんですが、具体的なことは知らないんですよ。だから知識をこうやってみんなと話して学んで、もっと人気を集められるように活かします」

こんなことを言っていた。

具体的なことを知らないで何が分かると言うのか??勉強が面倒なだけではないのか?

「東京で育ったら個性は伸ばしにくいと思いますよ。みんなすごいから、自分なんて大したことないと思っちゃうでしょう」

そういうこともあるかもしれないが、むしろ個性を伸ばしたいと思う人間は、個性がある人に囲まれた環境の方が刺激を受けられるし、何より個性を否定されない雰囲気だから生きやすいと思うのだが…


「人生の目標は、楽して爆儲けを体現し続けること」

この言葉でピンときた。

なぜ荒唐無稽なことを言い続けて憚らないのか。プライドが高すぎるからだ。
努力しなくても、具体的なことを勉強なんかしなくても、誰もの上に立てると思いたいのではないか。努力をしたくない、楽がしたい。楽をしても人の上に立てると思わなければ納得できないのだろう。
自分の個性が一番でなければ認められない。だから個性の強い人に囲まれる環境は耐えられない。
ちょっとの否定も許せない。全肯定以外は受け付けない。

多様性を尊重、と言うのは「聞こえのいいお題目」でしかなくて、
本当は人を殺してもいいと思っているし、
役に立つ人と足を引っ張る人は別だと決めつけているし、
足を引っ張る人は殺しても構わないと思っている。

極め付けはこれだった。

「安楽死の基準などは、しっかり細かく決めて提示してあげることが必要だと思っています。決められたら日本人は従いますよ。日本ではどうせ暴動とか起きないから」

人を軽蔑して肥大化したプライドは、ここまでいきついてしまう。人を裁くことへの欲望。裁くとは、基準を決めることでもある。

私が関わった経験は、いささか極端な事例かもしれない。しかし外からは立派にも見えたし、関わり始めた頃は礼儀正しく、話していると楽しかったし、実際「よく見せる」ことを極めるポリシーがそこには明確に存在していた。

「そういう風に“見せる”っていうのが得意なんで」

目立つ実績を見せゴリ押しして、人を思考停止させ、権力を握りたい。それはすべて、高すぎる自分のプライドのために。人の上に立たないと我慢ならないから。支配したいから。

それに気づいた時、私は冒頭のツイートをした。


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