小説『シャングリ・ラ』における鉄と炭素繊維の比較に読む、本質的ということ
「本質」という言葉が信憑性に欠けるという見方はいつ頃から出てきたのだろう、と思う。
具体的な言及を避け、「本質」や「覚悟」などと連呼しているひとは、その響きに酔っているだけで見せかけの虚栄として言葉を軽率に使っている可能性が充分ある。
ただそれでも、本質的であること、それを目指すことを諦めてはいけないのだと思う。それらしさを纏っていればいいと開き直ってしまえば、その姿には面白みも楽しさも美しさも感じられない。
『シャングリ・ラ』という小説がある。
池上 永一の長編小説で、コミカライズされ、アニメ化もされた。(私は小説だけ読んだ)
気候変動後の未来の東京を描いたSF小説で、自然環境は過酷に激変しており、温室効果ガス排出に重税が課せられるために経済の様相も一変、政府及び富裕層は巨大な天空都市を建設し、そこで暮らしている設定である。
この物語が面白いのは、主人公にあたる勇敢な女性、國子(くにこ)は反政府ゲリラを統率するリーダーであり、温室効果ガスを排出する側に立つ人間ということ。
そして政府と反政府ゲリラとの戦いにおいて、重要な鍵となるのが「炭素繊維」ということだ。この辺りの設定には唸る。
環境保護思想を前面に出すのではなく、厳しい環境下で精一杯に生きている人々の人生を感じる。キーとなる炭素繊維は、現代の社会では高価なために普及していないが、実際に軽さと強さで注目されている素材で、これが経済の構造が変わるのを機に世を席巻するという設定の妙には舌を巻いた。
鉄と炭素繊維を本質的に比較しているところが本当に素晴らしいと思う。
鉄は重く、炭素繊維は軽い。今の経済構造では圧倒的に鉄は安価で、炭素繊維は高価だ。
しかし二酸化炭素に重い課税がされたら、話は変わる。この思考実験は、脱炭素の動きが今なお続く情勢のなかで興味深いし、素材の本質に迫ろうとした試みだと感じる。
本質的であろうとすること。それらしいという虚飾ではなく、芯を食った表現であること。
『シャングリ・ラ』を読んで受けた衝撃に学び、本質を改めて重要視したいと思った。