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人間が生きることを肯定したい・26「意味と無意味」

『人は、何を成したかではなく、どう生きたかである』

映画「スタートレック」より
                     


シジフォスの神話というのをご存知だろうか。
フランスの哲学者アルベール・カミュの有名な作品である。

シジフォスは神から刑罰を与えられる。
巨岩を山頂まで担ぎ上げる。
すると岩はふもとまで転げ落ちる。
シジフォスはまた担ぎ上げる。
岩はまた落ちる。
シジフォスは死ぬことができず、
永遠にこの作業を繰り返す・・・という話だ。

これにならった拷問も聞いたことがある。
囚人に穴を掘らせ、掘り終わったらその穴を埋めさせる。
それをずっと繰り返させるという拷問だ。

意味の無い作業の繰り返しが人間にとってどれほどの苦痛か、
シジフォスの神話を自分の身に置き換えてみれば、
ゾッとする人は多いと思う。

しかしここで、前回もご紹介した山尾三省さんの言葉を引用したい。


『この刑罰を
刑罰から逃れさせているものが 
いくつかはある
シジフォスが
身にあまる巨岩を山頂までかつぎ上げ終えた
その時の喜びであり
巨岩が山を転がり落ちて行くのを眺める時の 
一瞬の休息であり
さらには
ふたたびその岩をかつぎ上げるために
ゆっくりと山を下って行く時の 
あたりの風景が与えてくれるしばしの深い慰めである
刑罰とは
ひとつの切り口である
刑罰とは 
ひとつの切り口の風景である
刑罰は永遠に続き 
喜びと慰めもまた永遠に続く』

『世界を不条理という視線から見るのではなく、
生命に与えられる小さな喜びの相から見ていくならば、
今度は大岩を担ぎ上げて登っていくという行為そのものが、
喜びのためのひとつの労働として転換されてきます。
それはまったく百八十度変わってくるわけですね。
同じ労働でありながら、
心のありようを変えただけで
無意味性から喜びへと、
逆の方向に転換することが出来るんですね』


人は産まれ落ちてから、
食べて、食べたエネルギーを消費して、寝て、また食べる・・・
という繰り返しを何万回も繰り返し、
やがて死ぬだけの生き物に過ぎない。
このことに、無意味性を追求すれば、
拷問に近い無意味性をなんなく見出すことができるだろう。

しかし、山尾さんは言う。


『自己が強く美しく生きようと願えば、
世界は千年変わらずに、
生きるに値する世界として立ち現われてくる』と。


さて。
今、あなたはどんな仕事をしているのだろう。
毎日、何をして生きているだろうか。
自分の仕事に対して、
「こんな仕事は無意味だ。もううんざりだ」
と、一度も思わない人というのは少ないのではないだろうか。

それが仕事でなくて、勉強にしろ、家事にしろ、
「こんな毎日は無意味だ」
と、突然、虚無感と焦燥感に襲われたりしないだろうか。

しかしそこで問題なのは、
「無意味だ」とあなたに思わしめているその原因はどこにあるか、
ということだと思う。

人はたいがい、ある「集団」に属している。
家族という集団、
会社という集団、
社会という集団、
国という集団・・・、
そして自分の仕事を「無意味だ」と思ってしまうその気持ちは、
「その集団の中で認めてもらえないから」という事実に
起因してはいないだろうか。
評価される、
誉められる、
感謝される、
表彰される、
昇進する、
お金が儲かる、
後々までカタチが残る・・・
当然それらは人のモチベーションを上げるが、
それ自体は「意味」ではない。
逆に言えば、
それがないからといって「無意味」ではない、ということになる。

シジフォスは永遠に何をも成さない。
しかしシジフォスはどう生きるかは自分で選べる。
シジフォスが自分の境遇を「刑罰」という切り口で見るか、
喜びや慰めを伴う「労働」という切り口で見るかは、
シジフォスの自由だ。
神は、シジフォスの心のありようまで枷をはめることはしなかった。

山尾さんの作品に「カワバタさん」という詩がある。
カワバタさんは一湊林道専門の林道人夫で、
くる日もくる日も林道の悪所を直したり、
林道の草刈りをしている。
大雨が降れば林道はたちまち荒むし、
草は刈っても刈ってもまた伸びる。
それでもカワバタさんは、
くる日もくる日もものも言わず、仕事に励む。
カワバタさんの顔に、
意味のない仕事をしている人の苦しみは宿っていない。

『やがて死すべき人の 
何処にでもある日に焼けた
少し不機嫌な静かな皺があるだけである』とある。

私にはカワバタさんの、
達観した頑固そうな顔が目に浮かぶようである。
一見して無意味と思われる作業を、
生涯の仕事としてどんどん掘り下げて行った先に辿り着いた
「深み」と「静けさ」が、
カワバタさんの顔に見えるようである。

人は、何を成したかではなく、どう生きたか・・・。

どうせいつかは死んでしまうのに、
どうせいつかは地球も燃え尽きるのに、
他人から下される評価がいかほどのものであろう。

大切なのは、
今、自分はそのことに対して誠実なのか。
今、自分はそのことを楽しんでいるのか。
今、自分はそのことが好きなのか。
今、自分はそのことに対して精一杯なのか。

いつか地球が燃え尽きたとしても、
今、自分はこの瞬間を後悔しないのか。

それらの問いに自分の心の中でうなずけたなら、
世界は美しく、
生きる意味のある場所として立ち現われてくるだろう。

私は思う。
世界は意味があるものでも、
無意味なものでもない。
生きることは意味があることでも、
無意味なことでもない。

世界も、生も、ただ美しくそこに「在る」だけなのだ。

そこに意味性を見出すか、
無意味性を見出すかは、
人間ひとりひとりの心にかかっている。

自分の心を鏡のように映し返しているのが、
今、自分が見ている「世界」なのだ。


=====DEAR読者のみなさま=====


私は現在、会社という組織に所属しています。
私だってそこでやはり、
誉められたいし、認められたいし、失敗したくないし、
人に感謝される仕事がしたいんです。

でも、いくら誉められて認められても、
仮にその組織の中で「どう生きるか」が見えなくなったとき、
やはり私はその組織の中にいることをやめると思います。

何かを成すことが目的じゃない。
今、目の前にある自分の仕事を、
自分の心の声に従って精一杯やることを続け、
つらくても続け、
その結果、何かが成せていたとすれば、
神様の「YES」がもらえると思うのです。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。


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