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人間が生きることを肯定したい・33「なぜ、児童文学なのか」

『そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、
 わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。
 おとなは、だれも、はじめは子どもだった』

サン=テグジュぺリ
「星の王子さま」前書きより


小さな頃から漠然と作家になりたいとは思っていた。
でもあの日、大学の図書室で手帳に何か書きつけていたら、
突然、輝いて降って来たんだ。
「私は児童文学を書くんだ」ってことが。

疑う余地なんてなかった。
産まれたときから胸にあった刻印が、
あのとき初めて光に照らされたんだ。


「でも、なぜ児童文学?」

たまに聞かれることがある。
なんでだろう。
口でうまく説明できたことはなかった。

でもここに書いてみようと思う。
なぜ、児童文学なのか。


小学生の頃、図書室で何度も何度も同じ本を読み返した。
背表紙を見つけるたびに心がときめいた。
おなかの底からわーっと嬉しさがこみあげきて、足が軽くなる感じ。
あの原体験は強烈だった。

あの、わーっとこみあげてくる嬉しさが、
第30号で書いた「金色の温かいかたまり」だったのだと思う。


直感として、子どもたちが幸せな体験を持てば持つほど、
世界はいい方に動いていく気がする。
世界の根本を動かすことだと思う。

子どもの頃に幸せいっぱいな体験をした人が
大人になったとき、残虐な人間になるだろうか。


だから、子どもに幸せな体験を残す良質な児童文学を書くってことは、
世界を幸せな方向に動かすことなんだ。


では、児童文学を読むことで得られる幸せな体験って何なのだろう。


シンプルな言葉で、
真っ直ぐな言葉で、
飾り気のない言葉で、
生きるという深遠な淵に近づく。

物語の果ての、一番深いところで、何かに触れる。


私にとって「生きる力」というのは大きなテーマだ。
このコラムを通しても、ずいぶん考えてきた。
悲しいことは、ある。
やりきれないことも、ある。
だけど、生まれてきたことを肯定したい。
その、思い。

良質な児童文学を読むと、
その物語体験を通して、読む前よりもちょっぴり、生きる力を取り戻している。

作者が物語を通して自分を生きなおしているから、
読者の魂もそれに乗って旅をし、自分を生きなおすことができるのだ。

良質な児童文学には、作者の透明な魂が宿っている。


子どもを愛して、抱きしめるような物語。
優しいとか、甘いとかいう意味ではない。

児童文学は、生きることを肯定する文学だ。
子どもがそこにいること肯定する。
肯定して抱きしめる。

冒険をしても、
危ない目にあっても、
悲しみに出会っても、
だまされても、
誰かを失っても、
ひとりになっても、
私がここにいることを肯定してくれる。

それが児童文学だし、
児童文学とはそうあるべきだと思う。


「書ける。ぜったいに書ける」と、
毎晩自分に向かって念じてから眠っている。


書ける。ぜったいに書ける。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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