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河合隼雄を学ぶ・18「中空構造日本の深層③」

【中空構造日本の危機】

前回まで、古事記を題材に日本における中空性、中空構造について学んできた。今回は、中空構造がうまく機能しなくなったとき、私たちはどう対処すればいいのかを、河合隼雄の論をなぞりながら、考えていきたい。

中空構造の中心が、文字通りの「虚」、あるいは「無」として作用するとき、この構造は極めて危険である。何事もないときには気づかないが、いざ、災害・事故などの有事となったとき、日本特有の「無責任体制」が暴露され、権力者たちの無能ぶりが一挙に露呈するのである。

また、若者たちの間で「無気力・無力感」が蔓延することがある。中心の喪失というよりも、もともと無かったものが急激に「無」であると意識されているような感じがする、と河合隼雄は分析している。彼らは、自分の存在の中核部分が空虚である、という虚しさを強く感じている。アルバイトや趣味などには精を出すが、人生の中核になるような活動はないか、または精を出せずにいる。「何をしても意味がない」という底のない空虚感に常に囚われているという。

中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば無であって有である状態のときには、中空構造は有効であるが、中空が文字通りの無になるときには、その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。後者のような状態に気づくと、人々は強力な中心による統合(リーダーシップ)を求めだすし、中空構造それ自身が、何者かによる中心への侵入を許しやすい状態になってしまう。ここに、中空構造を維持することの難しさがあると、河合隼雄はいう。

ここにきて河合隼雄が強く警告しているのは、だからといって、戦前・戦中のときのような安易な「父権復興」の声に乗せられてはならぬ、ということである。

「今どきの弱い若者・身勝手な若者」を徴兵制度のようなものによって「鍛えてもらおう」などと考える人は、自らが個として父親の強さをもつことを放棄し、何かしらの集団、誰かしらの他人にまかせようとしている。それは日本が誇る中空性の中央に、低劣な父性、あるいは母性に奉仕する父性の侵入を許すことになり、戦時中の愚を繰り返すことになるのみ、と河合隼雄は強く述べている。

真の父性というものは、自己と対象を切断し、対象を部分として把握し、把握した対象に対して合理的・論理的に思考し、自らの責任のもとに判断を下し、それを明確に主張する。こういった父性的な強さについては、確かに強化すべき側面が日本にはあるだろう。子どもや若者たちも、時にはこうした強力な、本当の意味での父性を欲することがある。

中空構造は中心への侵入を許しやすいのが欠点であるが、欠点を補う方法のひとつとして、中心となるものは存在するが、それはまったく力を持たない、というシステムが考えられる。つまり、中心、あるいは第一人者は空性の体現者として存在し、無用な侵入に対しては、周囲の者がその中心を擁して戦うのである。このとき、中心は極めて強力なように見えるが、それ自身は力を持たないというところが特徴である。日本の天皇制をこのような存在として見ると、その在り方を日本人の心性と結びつけてよく理解することができる。天皇は第一人者であるが、権力者ではない、という不思議な在り様が、日本全体の平和の維持にうまく作用していることが認められると河合隼雄は分析している。ただし、天皇制擁護を強く主張する人のなかには、天皇の中心性をうまく利用して、自らは影の権力者として存在したいと願う人がいることに注意しなくてはならない。これも、一種の中心への侵入現象であると河合隼雄は述べている。

いま、日本は自らの特徴である中空構造をうまく体現している状況といえるだろうか。

中心の「空」を「虚無」と感じて、そこはかとない不安を感じてはいないだろうか。

河合隼雄はこの章の中で、日本人はこれから、「意識化への努力」が必要なのではないか、と述べている。言語によって事象を明確に把握し、意識化すること。日本人がこれまで、比較的苦手としてきたことである。

河合隼雄がいう「意識化への努力」とは、西洋的父性原理へとジャンプすることではない。「日本人としてのわれわれの全存在をかけた生き方から生み出されてきたものを、明確に把握してゆこうとすることである」と述べている。「個々人が、自分の状態を明確に意識化する努力をこそ積み上げるべきであろう」、と。




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