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人間が生きることを肯定したい・28「I feel complete」

『 Music is my life, my passion,
I feel complete when I perform 』

デヴィッド・ヘルフゴッド
Shine Tour2003プログラムより


奇跡だと思った。
このピアノは奇跡だと。

天才的なピアニストの演奏ならば、
これまでも聴いたことがある。
コンサートの最後の曲、
その超絶技巧と圧倒的な迫力に興奮して
拍手とともに立ち上がりそうになったことは何度もある。

けれども、こんなピアノは初めてだった。
コンサートの最初の曲で、涙がぽろぽろ出てきた。

デヴィッド・ヘルフゴッド。

スピルバーグが「10年に1本の映画だ」と絶賛したという、
「シャイン」のモデルとなったピアニストである。

10代で国際的なコンペティションで6回優勝し、
若くしてその天才的な才能を認められ、
英国王立音楽院に留学している。
しかし、厳格な父との葛藤が原因なのか、
「天才」と呼ばれる人の運命なのか、
ヘルフゴッドは精神的な病に冒され、
10年間演奏から離れることになる。
しかし、妻となるギリアンに出会い、
その愛に支えられて、
奇跡的にコンサート・ステージに復帰したのが84年のことである。

そして、彼の演奏を初めて聴いた。

ヘルフゴッドのピアノは、
彼の透明な魂そのものに思えた。
存在の純粋さがそのまま音楽となって流れていた。

彼より「上手い」ピアニストは沢山いるだろう。
でも彼のようにピアノを弾ける人は誰もいないだろう。
そこにあるのは単に音楽ではなく、
彼という人間のきらめきそのものだからだ。
彼の人間性と合わさって、
初めて生まれるピアノだからだ。
よく知っているはずの曲なのに、
紛れもなく初めて聴く音楽だった。

彼は演奏しながら、歌う、笑う、顔をしかめる、指揮するように手を振る。
10本の指は目にも止まらぬ早さで鍵盤を叩きながら(実際ぶれて見えた)、
顔は客席に向けてうなずいてみせたりする。
一曲終るごとに両手でガッツポーズをし、
満面の笑みで客席に何度も何度もお辞儀をする。
彼のウキウキが伝わってくる。
彼の喜びが伝わってくる。
ヘルフゴッドはピアノを弾くことを心から楽しんでいた。
生まれ来る音を愛しんでいた。

ピアノを弾くことは、
彼にとって息をすることと同じように見える。
「ピアノを弾いている」のではなく、
ピアノという楽器が、彼に弾かれるために存在しているみたいだ。
不思議だ。
ピアノは人間が発明したもののはずなのに、
空気が人間に不可欠なように、
ピアノが彼に不可欠なのだ。
ピアノを作った人も、
そのピアノを空気のように弾きこなす人も、
両方凄い。
人間って凄い。


「演奏活動を続ける心の支えは何でしょうか?」という質問に対して、
ヘルフゴッドは冒頭のように答えている。

『音楽は私の人生であり、情熱であり、
私は演奏しているとき、満足を感じます』

プログラムでは「I feel complete」という言葉の訳を、
「本当の自分になる」「満足する」としているが、
私は、直訳するのが一番彼の真意を表しているように思う。

「ピアノを弾いているとき、私は完全を感じる」

完全なるもの。
完璧なもの。
全て。
それを一番端的に言い表した言葉は「神」だ。

「ピアノを弾いているとき、彼は神さまになる」

実際に彼のピアノを聞いた私は、
そう言ってしまうことに何の違和感もない。
彼を狂気に導くほどの、彼の中の純粋さ、無垢さ、
それを乗り越えてきたからこそ、今生まれる輝き。

私は、人知を超えた輝き、
奇跡のようなあの一瞬のきらめきを
神と呼びたいのである。

ヘルフゴッドはまたこんなふうにも言っている。

『演奏会の度に、
ひとつひとつがユニークな経験であると
いつも思います。
つまり、どこかへ自分自身が移動し、
天国へ昇っているような心地になるのです。
そこで私は天使に出会い、
川や木々、可愛い動物たちに囲まれるのです』

私が彼に神さまを見ているとき、
彼もまた、神さまを感じているのかもしれない。

第20号の話とも非常に繋がってくる。

『想像を絶する無限の可能性を、
ひとりの人間は内包している』

『人間としての生を通じてのみ、
神が顕現される』

第12号・13号で紹介した佐藤初女さんも、
森のイスキアのドアが叩かれたとき、
そのドアの向こうに立っているのは神さまなのだと言った。
ひとりひとりの中に神が宿っていて、
だからどういう人と出会う場合でも、
その人の中にいる神さまとの出会いなのだ、と。

神さまとはこの世界の「リズム」である。
(と、第5号で仮定した)
それは目に見えない。
凡人には感じることも難しい。
リズムがあること自体を信じない人もいるだろう。
考えことすらない人も。

けれども、普段は見えない「神さまのリズム」が、
人間を通じてきらめくことがある。

神を内包している。
そのことが、人間の究極の可能性。
今の時代だからこそ、私はそれを信じていたい。


=====DEAR読者のみなさま=====


ある知り合いの女性の方が、
「新聞のニュースを読んでいると、
こんな時代に子どもとどうやって生きていけるのか、
心配で涙が出てくる」とおっしゃいました。

世の中や人間の悪い側面ばかり見せられ続けて、
そんな不安を感じている人は少なくないと思います。

けれども、人間として与えられた生を究極まで生き切っている、
ヘルフゴッドや初女さんなど、
今までメルマガで紹介してきて人々に
「神さまのカケラ」が見えることもまた事実です。

この世の中に、
他を傷つけまいとする人間と、
他を傷つけようとする人間、
どちらの方が多いんだろう、
どのくらいの比率なんだろうって、
考えたことはありませんか?

もちろん、ひとりの人間が
どちらにも揺らぐものだということは当然としても、
今、この瞬間、どちらの方が多いんだろうって。

その答えはわからなくても、
世の中の状況を俯瞰してみたその「色」が、
答えを示すのだと思います。

最近そんなことをつらつらと考えていて、
あまり脈絡なく「そういうことかもしれない!」
と考えるに至った仮説があります。

人が歩んできた道は間違えなく血塗られた道です。
もうずっとずっと長く、
人が人を殺して当然だった。
人は人を殺さないようにしよう、
というのが世界の主流になったのは、
人の歴史の中で驚くほど最近です。
それでもまだ、争いの絶えない国もある。
前世で、また前々世で、事切れるその一瞬、
憎悪に燃えていた人、
苦しみ抜いていた人、
恨みに染まっていた人が
圧倒的に多かったわけです。
もし魂が転生するものだとしたら、
そんな魂が次の肉体を得て全ての記憶をなくしていたとしても、
のん気に人間を信じるわけがないと思うのです。
のん気に神様を信じるわけがないと思うのです。
拷問されて死んでしまうシーンなんて、
映画や漫画の中でしか見たことないけれど、
しかも辛くて大体目を閉じて耳を塞いでしまうのだけれど、
事切れる瞬間の顔を見ると、直感します。
「ああ、これは無理だ。忘れろという方が無理だ。
何回生まれ変わっても復讐してやると誓うだろうな」と。
第4号でも言った通りです。
『御魂(みたま)についた傷が癒されぬまま死ぬと、
その傷を抱えたまま、また生まれてしまう』
そういう魂がたくさん転生して、
今の世を生きているんじゃないかと思います。
でも、逆に言えば、なんとかカルマを乗り切って
安らかに逝ける人が多くなればなるほど、
きれいで優しい魂が次々と転生していく。
つまり、「どう死ぬか」がとてつもなく大事なことなんじゃないかと。
(これは、第10号の象の死に方の話にも繋がるかもしれません)

まだまだ痛ましい事件、争いは絶えませんが、
人の歴史を紐解けば、
やっぱり過去を教訓として良い方向に、
少なくとも殺し合わない方向に向かってきたと思うんですね。
だから、安らかに逝くことのできた魂はだんだんに増えていると思う。

そうすると、どこかで
第8号で論じた「価値観の変革」「意識の変革」ということが
起きるんじゃないかという希望が生まれてくるわけです。

オセロゲームのようにパタパタと両隣の白が黒を白に変えて、
(周りの優しい人々が傷ついた魂を癒して、)
ふと盤を見れば黒より白が優勢になるということが、
ある時点で起きるのではないかと信じたいわけです。
(本当は白・黒という単純な言い方も好きではないのですが、イメージとして)
ヘルフゴッドや初女さんのような人は、
周りをどんどん白に変えていってるんじゃないかな。

私自身もオセロのピース。
ひとりひとりがどう生きて、どう死ぬかが、
世界の色を決めるのだと心に銘じます。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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