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カキモリ/インクスタンド 限定インクFujiwo Ishimoto「みかんいろ」【小説 インク物語】

 あたしは、形から入るタイプだ。
 そう言うと、ちょっとだけカッコがつくような気がするけれど……ようは、腰が重いんだ。フットワークが悪いの。
 たとえば、好きな人ができたとする。とっておきの筆記具と、選びに選びぬいた便箋で、下書きを何枚も書いて、それでやっと、ラブレターを清書をする踏ん切りがつく。――でも実際、そのころにはもう、SNSでさらっと告白した誰かさんが彼女におさまっている……というわけだ。
 さあ行動に移すぞ、と決心したときにはすでに遅し。いっつもそう。

 恋に落ちたんだ――その色に。
 みかんいろ。ガラス瓶に貼られたラベルには、そうプリントされていた。
 あたたかくて明るくて、ながめているだけで幸せな気分になれる。ミモザ、蜂蜜、ヒマワリ、炬燵でみかん――幸せはたいてい、黄色をしている気がする。
 これしかないと思った。今しかないと思った。あたしはあたしらしくない機動力を発揮して、迷うことなく、みかんいろのインクで満たされた小瓶を購入した。
 ――ああ、これでやっと書ける。
 一世一代のラブレター。告白の手紙。十年越しに、好きですとようやく告げられる。
 ゼミの男子に宛てるんじゃない。大人の男性に贈る手紙だ。うんと年上の、きっと……祖父と同年代の。だからこそ、生半可なものでは書きたくなかった。小学生のときから書きたい書きたいと思ってはいても、自分は幼すぎて、自分の持つ道具も幼すぎて、ふさわしくない気がして書けずにいた。
 ラブレターとはいっても、もちろん、付き合ってくださいとか、そういうのではなくて。
 あなたの作品が大好きです、あなたの本のおかげで何度も何度も救われました、ありがとうございます、これまでもこれからもあなたの作品を愛し続けます……。
 何度読み返したかわからない、十年来の愛読書。その物語を生み出してくださった作家の先生への手紙。このみかんいろのインクがあれば、買ったきりしまい込んであるガラスペンで、やっとのことで、先生に好きの気持ちと感謝を伝えられる。

 意気揚々と書き上げた。あとは切手を貼って投函するだけ。明日の朝、ポストに入れよう――ふにゃりと気持ちがゆるんで、つい、ネットを見てしまった。そして知ったのだ。
 心臓がおかしな跳ねかたをした。ことことと空虚な音を立てた。
 ――ああ、時すでに遅しだった。
 ご高齢の先生が、亡くなられたことを報じる記事だった。
 こんなことなら、鉛筆でも、キャラクターものの便箋でも、なんでもいいから思いのたけをつづればよかった。大好きです、ありがとうございますと、つたない一言二言でも、愛と感謝を告げればよかった。

 すっぱくて、ほんのり苦いみかんのような思い出。
 それからというもの、みかんいろのインクは、あたしのともし火。背中を押してくれる色。
「照らしていてあげるから、迷わず進みなさい」
 そう言われているような気がして、後悔しないように、勇気を奮い起こして立ち上がる。
 ふさわしい道具も、時機も、待ち続けるのではなくて、自分から歩いて探しに行くんだ。

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