見出し画像

国際女性デー

3月8日は国際女性デー。
1904年3月8日にアメリカ・ニューヨークで婦人参政権を求めたデモが起源となり、1910年のコペンハーゲンでの国際社会主義会議にて「女性の政治的自由と平等のために戦う日」と提唱されたそう。その後、国連が1975年の国際婦人年に、3月8日を『国際女性デー(International Women’s Day)』と制定したそうだ。   (https://happywoman.online/festa/iwd/ より)

私が知ったのは、つい数年前だけども…。テーマカラーがイエローなのは、イタリアでは、この日にミモザの花を女性に贈るお祭りがあるからかな。

画像1

「女性だから」「女の子だから」とカテゴライズされるのは大嫌いだけど、これまで自分の背中を押してくれたのは、日本や世界で出逢ったいろんな女性たちだった。

コロナウイルスの影響もあって、どこか最近ゆったりしていて、物思いにふけるような時間がある今日この頃。国際女性デーを機に、改めて影響を受けた女性たちのことを振り返ってまとめておきたいと思う。

まず、MAITEを始めるきっかけになった、
鏑木玲子(かぶらきれいこ)さん

画像2

ペルーの首都リマの郊外、カラバイヨという貧困地域の女性達に編み物の指導をしていた玲子さんとは、大学のゼミのプロジェクトを通じて知り合った。小柄で華奢な玲子さんは、第6代世界保健機関(WHO)事務局長を務めた故 李鍾郁さんの奥さんだった。スイスジュネーブでの不自由ない暮らしを手放し、ペルーでのボランティア活動をしていた。夫婦離れ離れの生活になっても、李さんは玲子さんの活動を応援していた。2006年に李さんが突然の病で亡くなられ、その後玲子さんはペルーを拠点として暮らすことに決め、妹さんのいる日本や、息子さんの住むアメリカを行ったり来たりしながら、今もカラバイヨの女性達の支援を続けている。

画像3

日本でも何度か会っていたが、卒業旅行でペルーを訪れた時は、李さんが亡くなられた翌々年だった。治安がよくない地域でも、編み物をする時の女性達の穏やかな姿に見えた希望や、「世界の不平等」という理不尽さを突き付けられたカラバイヨの光景は、今も心に残っている。

画像4

でもそれよりも、胸が苦しくなったのは、カフェで玲子さんが話してくれた、李さんを失った悲しさや、その後の気持ちを整理させる葛藤の日々のことだった。

一緒にいられなかった時間、自分がいれば何か変わっていたのかもしれないというやりきれない思い、玲子さんを責める親戚もいたという。
運転の荒いドライバーの車が次々に走り抜けるリマの道路を、目を閉じて渡ってみたり、カラバイヨの女性の故郷であるアンデス山奥の村へ一緒に行ってみたりと、時間をかけてボロボロになった心をなんとかケアし、カラバイヨの女性たちのためにできることをして生きようと決めたという話。

当時23歳だった私は、結婚したってやりたいことはやりたい、そうした女性だって認められていいはず。なぜ女性だけが我慢しなければならないのか、玲子さんだってもちろん辛い思いをしているのに、その上責められなければならないのか…という憤りと同時に「なぜ人はもっとやさしくなれないのか」という想いでいっぱいになって、涙が出た。

この時に、「もっとやさしく、寛容な社会をつくりたい」というマイテのミッションが、私の中に根付いたのだと思う。


それから二人目は、もう少しさかのぼり、20歳の頃に出逢った、フェアトレードでテキスタイルのものづくりをしていたインドの女性達

画像5

People Treeのスタディーツアーで訪れた、女性達が働く工房で一日を共にした女性達。幼い子どもを連れながら仕事をしている姿や、忍耐強く手仕事に取り組んでいる姿、理不尽な社会構造や、過酷な経験の話、そして今に感謝し、やさしく、明るく陽気に日本から来た私たちを歓迎してくれた行動に、生きるたくましさを見た。お別れに手をふる女性達の姿を眺めていた時に、ふと「ありのままの姿がなんて美しいんだろう」と思った。

インドでの約10日間は、幸せとは何かを考えるような時間だった。現地でガイドをしてくれたランジットの、「喜怒哀楽を感じながら、大切な人たちと共に生きることが幸せだ」という言葉は、その後もずっと私の中でひとつの指針になっている。正確には、「喜怒哀楽を感じながら、子どもをもち生きること」と彼は言ったのだが、そこは私の中では、子どもがいてもいなくても、夫婦関係でもそうでなくても、「大切な人とのつながり」のことだと捉えている。それは家族かもしれないし、パートナーかもしれないし、友人かもしれない。

単純な20歳だった私は、インドから帰国後すぐに、栗色だった髪を黒に染め直し、それから今でもずっと黒髪のままだ。


画像6

3人目は、またさらに遡り、人生を自分流で楽しむ高校時代の友人と先生たち。それまで狭い世界に閉じこもっていた私の視界を、グーンと広げてくれた。まるで30度しか見えてなかった世界が、180度見えるようになったように。

小学校、中学校時代は、外見や体型のコンプレックスからの緊張で身を包まれ、外では自信がなく、家では卑屈でかんしゃく持ちだった。そんな私が入学したのは、自由な校風の女子高だった。理由がわからない校則に縛られることなく、好きな恰好ができる環境。子供のように無邪気に、楽しそうに授業を教える先生たち。そして自分の好きなことについて夢中で話をしたり、アクションをする同級生に囲まれて過ごすうちに、重く体にのしかかっていた鎧が脱げていき、笑顔と自然体でいられる時間が増えていった。

日々は自分で楽しくするもの。やるなら思いっきりやること。自由と共にある責任。活き活きした人たちに囲まれて過ごす心地よさと刺激に溢れていた青春時代だ。

画像7

そして最後に、なんだかんだいって、の存在。

子どもの頃は、放っておいて!と思うほど、干渉されるのが苦痛だったこともあったけれど、

バスケの試合で失敗をした後、くやしさや恥ずかしさを発散できなかった私を抱きしめて思いっきり泣かせてくれたこと、
ダイエットで早朝ウォーキングをしていた時、私よりも早く起きていてくれたこと、
重度の生理痛で、保健室から帰れなくなる度に迎えに来てくれたこと、
海外を旅して戻ってくる度、あんなことがあって、こんなことがあってという永遠に終わらなそうな私の話を、いつまでもちゃんと耳を傾けて聞いてくれたこと、

そんな母がいたからこそ、私は私の道を進んでこれたのだろう。

帰る場所があるからこそ、つらいときに支えてくれる人がいるからこそ、
人は何かにチャレンジし続けたり、先の見えない旅にも出たりすることができるのだと思う。

「女性は」とカテゴライズされるのは大嫌いだけど、
女性は強い。女性はもっと自由になっていい。

一人でも多くの女性が(男性もだけど)、
鎧を脱いで、ありのままの自分の姿で、
才能や能力を発揮できる
フラットで寛容な世界になりますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?