ポニーテールは振り向かず、レプリカントは傷つかない(のか)。

わたしは「ブレードランナー」という映画に特別大きな思い入れがあるわけじゃない。すべてのバージョンを見て「あのカットはリドリー・スコットの想いとは違ってさ〜」などと語るほど見倒したわけでもないし、原作もちゃんと読んでない。が、この映画がわたしに残したテーマはそれなりに重たい。
それは「個人を形作るのは記憶だ」というテーマだ。
この映画に登場する「レプリカント」はたくさんの写真を持っている。しかしそれらはすべて製造主から与えられたフェイクの想い出であり、作り物のツールだ。とはいえ彼らは個体差があり感情もあり恋もする。なのに「レプリカントだ」というだけで過酷な労働を課せられ、短い命を全うするしかない。
記憶とひとくちに言っても機材の操作方法から感情を揺さぶられた想い出まですべて「記憶」と呼べるが、私のいう「記憶」はどちらかというと「ノスタルジー」と呼ばれるものだ。そこには必ず「相手」がいる。
このわたしの頭のどこかにいつもある「個人を形作るのは記憶だ」というテーマにいみじくも重なったのが「カズオ・イシグロ」ノーベル賞受賞の報だった。彼の作品は2作しか知らないし、もはや本の印象か映画の印象かも曖昧模糊としているが一つ言えるのはどちらも「回顧録」というスタイルが取られていた。忘れたくない想い出の記述だ。
だが果たしてここに書かれている記憶は正確なものなのか。もちろんその記憶力には個人差があるけれど、個体を作るのは記憶とはいえ人間は「忘れる」こともできる生き物だ。記憶が曖昧であるからこそ、不愉快なことはすり替えたり、誇張したりすることも可能。人に言いたくないことは「なかった」ことにしたり、覚えていることも「忘れた」と嘯くこともできる。
芥川龍之介の藪の中を読めばわかるが、目撃者と当事者7人が同じ出来事を語っているはずなのに、全員がバラバラなことを言っている。記憶なんてそんなものだ。
それでいいのだ。真実を知りたくば自分の望むその情報が真実だ。
レプリカントはどうなのだろう?相手に知られなくない都合の悪い過去はごまかしたり、忘れられない嫌な記憶も相手への優しさから「忘れた」ということはできるのだろうか?
記憶を脳内で書き換える行為というのは結局、自分や相手への「赦し」みたいな感情なのではないだろうか、とカズオ・イシグロのインタビューを聞いて感じた。
つまるところ自分も他人も赦すことができるのかどうかが人間とレプリカントとの違いかなと納得しようとしてみたけれど、ブレードランナーのラストシーンでロイはデッカードを助けた。
ロイはプリスへの愛情から優しさを装備してしまったのだろうか。
ロイがその短い寿命を全うするときの台詞がルドガー・ハウアーの即興だと知ってとても驚いたので、覚えているところだけ書き記しておきたい。
「想い出はやがて消える
 時が来れば
 涙のように
 雨のように
 その時がきた」
ラストシーン、ロイが息絶え(息をしてたかどうかわからないが)鳩が飛びたつ雨のシーンで泣きました。
リンク先は10月28日に公開される「ブレードランナー2049」を製作するにあたってヴィルヌーブ監督が発注した前作の西暦2019年から2049年を穴埋めする3つの短編映画のうちの一つ、リドリー・スコットの息子が製作したもの。なかなかですよ。(あと2作あります、関連動画で出てきますからご覧ください)


アヤコフスキー@札幌。ディレクター・デザイナー。Salon de Ayakovskyやってます。クロエとモワレの下僕。なるようになる。リトルプレス「北海道と京都とその界隈」で連載中 http://switch-off-on.co.jp