「私は焔である」ミケランジェロに想いを馳せる
前回書いたカテゴリーからすると「その他」にいきなりなってしまうのですが、今回はイタリア関連の本について。
”Io sono fuoco"
Io sono fuoco という本です(タイトルについてはのちほど)。
イタリアルネサンス期の芸術家 ミケランジェロの話。ミケランジェロ本人が口述筆記で甥っ子に自分の生涯について語って聞かせているという形をとっています(実際にそういう書簡があるわけではなく作家がそういうスタイルをとったというもの)。
イタリア語の本を買うということ
イタリアに旅行すると、街で本屋によく入ります。どんなタイトルのものが平積みになっているのか、どんな「おすすめ」がされているのか、日本人作家の作品の翻訳はどんな位置づけで売られているのか…などを見るのが楽しくて。あと、本屋に来ているお客さんたちをさりげなく観察するのも好きです。
たまには、そうしているうちに本を買うこともあります。読み始めて難しくて後悔し、中断し、再開しても前の話を忘れていて、でも読み返すのもキツいのでわからないまま読み進めて、ほとんど義務感で最後のページまで行った…ということもありました(作家さんに申し訳ない)。
軽めのストーリーで会話も多くて、割と速く読めた!と思ったら、オリジナル版は英語だったということを後から知って、よくわからないけど、なんとなく損した気分になったこともあります。
これなら行けるか、と、よしもとばななの「つぐみ」のイタリア語版を買ったこともあります。途中わからなくてオリジナル版を見返したら、そもそも日本語の表現も詩的だということに改めて気づき、自分の選択の間違いを反省しました。
Io sono fuoco はイタリア語学習者向けのコンテンツを作っているイタリア人YouTuberが紹介しているのを見て興味を持って、オンラインで日本から買いました。
読了までの経緯
買ったのは2020年の終わりごろ。手に入れてすぐ読み始めましたが、いつものように(笑)途中で何度か挫折しました。内容に興味は続いていたものの、何しろイタリア語文法でも最難関に位置する(個人の見解です)「遠過去 (passato remote)形」だらけで、ごく基本的な動詞ですら辞書を検索して「ーーーああああーーー、そういえばこの動詞ってこんな変化するんだったぁ」と気づくことを繰り返してしまって。
そんな中断が続くと、挫折しちゃうんですよね。
しばらく放置してあったこの本を再び手に取るきっかけになったのは、昨年末ごろ、書店でこの本の表紙が目に飛び込んできたことでした。
なんだか似たようなタイトルの本だな、と思ったら、なんと Io sono fuoco の翻訳本でした!!
本屋でこれを見つけた瞬間、買って読みたい衝動にかられましたが、その衝動をモチベーションにしてイタリア語オリジナル版を読むのを再開しました。
再開したら(まだ真ん中あたりだったのですが)、(バチカンのサンピエトロ寺院にある)ピエタ像の制作、(フィレンツェのアカデミア美術館にある)ダヴィデ像の制作、(バチカンのシスティーナ礼拝堂の)天井画の制作…と馴染みのある作品の話になってきて面白さが増し、勢いを取り戻して読了できました。
難しい単語もたくさん出てきましたが、翻訳アプリを駆使して出先でも読んだり、作品の画像を検索して細部を文章に合わせて確認したりしていたら後半は挫折しませんでした。相変わらず遠過去形だらけでしたが、だんだん元の動詞の形を想像するコツがわかってきたのも収穫でした。
辞書を使ってもどうしても文章の意味が理解しきれず、前後の流れからの想像で理解することも難しかった数か所には付箋を貼って、後で翻訳版で確かめることにしました。
オリジナル版を読み終わったあと、いよいよ翻訳版を購入して読み始めました。いや、日本語で読むと速い速い(当たり前!)。ただ、いろいろ気になって何度もオリジナル版の同じ個所を見直しました。「あれ?ここイタリア語ではどう書いてあったんだろう?」っていう興味が出てきてしまうのです。翻訳に違和感があったわけではなく、単純な興味です。翻訳はすごく自然で、するっと読めました。
あと、翻訳版でありがたかったのは、固有名詞やラテン語の表現に時々小さな解説が追加されていることです。辞書では調べきれない部分が解明されて助かりました。
感想
と、周辺の話を散々かいて、やっとの感想です。
とにかく、ミケランジェロという天才の性格に圧倒されました。社交性には欠けていて(そういうところがうまいラファエロのことは嫌っているし、レオナルドダヴィンチとも対立するし)、相手が教皇でも従わないときは断固として従わない。人に任せるより自分でやる方が間違いがないと、人を信用しない。やっかいな人です。天才ってこういうタイプが多いのかもしれませんが。
情熱の人という意味で "fuoco(焔)" なのだと思いますが、読んでいると、カッとなってXXした…ってところも多くて、そういう意味でも "fuoco" だったみたいです。
作品についての意図や細かい調整についての記述はとても面白かったです。上にも書いたように作品の画像を見ながら記述を読むと、以前作品を鑑賞した時には気づかなかった点が見えてきて、もう一度見てみたくなりました。
特に興味深いと思ったのはこんな記述の部分。
ブロンズ像は、最後の出来栄えが鋳造職人の技術に左右されてしまうので、大理石の彫刻より好きではない
ほんの少しの光がかすめただけで生き生きとした陰影が生まれる彫像は、絵画にはない魅力がある
彫像はすでに大理石の塊の中に眠っていて、彫ることによってその姿を塊の中から浮かび上がらせているだけだ
最後の部分は特に興味深かったです。彼には3Dで透視のように見えている。だから、あんなに生々しく、今にも動き出しそうな像が生まれるのですね。
この本は自伝ではないのですが、すっかり自伝を読んだ気持ちになりました。
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