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ママが1週間旅してきても平気な家族

私はこれから、『ママが1週間旅してきても平気な家族』を作ろうと思う。唐突だが、どうか最後まで読んでみて欲しい。

この秋、私は軽井沢に一泊で旅してきた。

なーんだそんなこと、と思われただろうか。ではその後ろに、こう続いていたらどうだろうか。

この秋、私は軽井沢に一泊で旅してきた。
観光ではなくて。このアートが見たい、という直感だけで。大阪市内から、片道約5時間もかけて。夫に、9歳と3歳の息子たちを預けて。
Go to キャンペーンにも助けられたけど、それなりにお金もかけて。

その結果、私は『ママが1週間旅してきても平気な家族』を作る、と思うに至った。その決意に至るまでを記したいと思う。


自己紹介と、私の一日と

私はイラストレーターとして活動している。
それも、2011年に出産した息子がきっかけで。初めての子育て、幼い彼との日々を描きとめるうちに、私は絵を描くことを一生の「なりわい」にしたいと思うようになり、2016年7月に開業届を出して、個人事業主となった。

やる気に満ち溢れて駆け出して早々に、妊娠→悪阻→入院という事態に陥ったものの、翌年ぶじ出産し、現在は9歳と3歳の男子の母親をやっている。子どもに向き合う毎日から、人間味あふれて、遊び心もたっぷり、あたたかくてやわらかい「ひと」の表現が得意となった。

私はこの「ひと」の表現で、お客様の価値を分かりやすく伝えるお手伝いをしている。


私の平日は、イラストレーターと主婦とが半分ずつといった感じだ。

夕方で仕事を切り上げて、3歳の次男を保育園に迎えに行く。冷蔵庫に何もなければ、買い物にも行く。大量の荷物を抱えて、部屋に帰る。手を洗う。次男のトイレに付き合う。手を洗わせる。洗濯物を取り込む。浴槽の栓を抜く。食事の用意をする。合間に、小学校3年生になった長男の宿題を見る。ここで夫が帰ってきたらいい。風呂を洗う。湯をためる。息子たちを、風呂に入らせる。etc、etc…

その間、ひっきりなしに…ひっきりなしに私は息子たちから話しかけられ(ロボット三大原則って知ってる?このおやちゅ食べて良い?)、そして私もひっきりなしに息子たちに話しかけている(知らないなぁ、ご飯のときに聞かせて。ダメだよ、今からごはんだからね。ねぇ連絡帳出した?明日の準備はしたの?)。

漁師が網に魚を追い込むのって、こんな感じなんじゃないだろうか。やったことないけど。
てんやわんやでいっぱいいっぱい、それが私の日常だ。


旅から帰った私は、ひとつの発見をした

大阪市内から、軽井沢までの一泊旅行。移動に約5時間かかるけど、現地で過ごす時間も確保したくて、ものすごい早起きをして出発をした。そして、一緒に行った友人と、道中からそれはそれは沢山、おしゃべりをした。現地では、移動手段の自転車をこぎまくった。

そんな旅から帰って、私はあることに気づいた。
あまり、というか全然疲れていないのだ。

非日常がもたらす興奮状態、すなわち「旅行ハイ」だったのかもしれない。だが私には、この旅が疲れなかったのは当たり前だ、という確信もあった。だって私は、軽井沢で自分本位で過ごしていたからだ。

お腹が空いたら、食べる。次の予定も考えながら、決してせかせかせず今を楽しむ。そしてこれは友人のおかげなのだが、「喋りたかったら、喋る」「自分の考えに浸りたかったら、そっとしておいてもらえる」つまり自分のペースを、とことん大事に過ごせた。大げさな言い方かもしれないが、自分のために生きるって、こういうことなんだと思う。

そして、私が会いに行ったインスタレーション・アート。ただただ、素晴らしかった。
自分の心が感動するもの、大好きだと叫んでいるものに、じっくり浸ること。
何にも邪魔されず、何のジャッジもしないで、そのままの素晴らしさを、そのまま受け取ること。その場にいると、どんどん感性が研ぎ澄まされていく、また自分のことが好きになるとも思った。

思えば私は、息子たちを連れて外出すると、げっそり疲れていた。
電車、スーパー、公園、レストラン、それぞれで、いったんはしゃぎ出すと注意しても聞かず、自分が振る舞いたいように振る舞う息子たち(というか主に長男)に、心底疲れていた。

①危険なことをしない
②他人が嫌がることをしない(騒音など)

怒るときはこの2つを柱に、繰り返し教えてきた。また、食事するならテーブルを遊具にしないなど、その場にふさわしい振る舞いも、大事だと思って教えてきた。だけど私は本当は、そうしてまでやらないなら、やりたくないのと同じこと、子どもたちは家で留守番しといた方がいいと思っている。

「一緒に楽しい時間を過ごしたい」「子どもたちの喜ぶ顔が見たい」、この期待を捨てきれないから、いつも外出時にモヤモヤしている。

旅を終えて、そうして気を使うって、こんなにも体力気力をゴッソリ奪うことだったんだ、ということに心から驚いた。

だから、このプロジェクト―『ママが1週間旅してきても平気な家族を作るプロジェクト(略称考え中)』では、自分本位に生きることを大事にする、これを1つ目の主眼とする。


「お土産は買わなくていい」と送り出されたけど

さて、時間を旅の出発前夜に戻すと、夫が私に言っている。
「お土産は買わなくていいからね。自分たちだって、楽しんでるんだから」

夫は私が旅に出ている間、たまった有休を使い、息子たちをどこかに連れて行くのだという。
気を使わないで楽しんできて、と送り出してくれたのだ。

このことを話せば、10人中10人が『素敵なだんなさんねぇ』とため息をつくことだろう。それは、私も大いに思うところだ。彼は、本当に素敵な夫だ。

でも、私の心はちょっぴり複雑。ありがとう素敵なひと!という気持ちと、少しのモヤモヤが仲良く同居している。それを今から掘り下げる。

私が不在にすると、夫は仕事をセーブする。そして食事も外で済ませたり、今回のように子どもたちを遊びに連れ出したり、する。仕事を切り上げて、大変なこと、手間のかかること(例えば食事)は、上手に外にも頼る。
ではなぜそれを、私は家族と一緒にいるときに享受できないんだろう?

自分は外出「させてもらっている」んだから、その間、夫が上手に子どもも家庭も守って、何の不満があるというのか。でも…でもそれってさ、つまり「私が家にいる時は、任せるね」というのと同義じゃないんだろうか。
私も夫と同じようにして、自分の余力を残せばいい?
そうじゃなくて。
私は家のこと、子どものこと、家族と一緒に持ち合いたいのだ。


ここで、私が常々疑問に思っていることを

①↖上に書いたこと。どうしたら、夫婦2馬力で家のこと子どものことを回せるようになるだろう?役割分担みたいに、切り離した形じゃなくて。

②家事育児の大変さを語るとき、触れられない子どもたちの自主性と社会性
今年の一斉休校の時にも思ったことなのだが。子どもは一方的にケアを受ける側の人間で、十分なケアを受けられなかったら、「かわいそう」なのだろうか?

子どもが子どもらしくいられることと、家族という最小単位の社会での振る舞いを学ぶことは、別物だと思う。

例えば、私たちはマンション住まいで、長男が部屋の中で飛んだり跳ねたりするので、部屋中にクッションマットを敷き詰めた。しかし、本当に大事なことは、部屋では部屋の過ごし方をすると教え続けることで、息子の騒音を私は一緒にいて快適じゃない、とハッキリ伝えることでもあった。だから、息子の飛んだり跳ねたりしたい欲求には、日中公園に連れて行くなどして、そうできる「時」と「場所」があるのだと教えることだった。

私も子どもも家族の一員なのだから、一緒にいるときは心地よくいられる「あり方」を整えていきたい。

③ケアを愛情と同一視していたら、終わりがない。だから家事育児の内容を再度見つめ直す
例えば私は食事の支度で、割と品数を作る方だと思う(品数の呪い、みたいなものに囚われているような気もする)。そして、長男を小さく生んでしまって、『とにかく食べさせなきゃ』という呪いも加わった。

だけど、そうすることで、自分が疲弊しているのだとしたら。それに、私は軽井沢で、「お腹が空いたら食べる」ことで調子が良くなるのを実感した。だから、食事のあり方から見直した方がいいのだ。
そうして、ひとつひとつ、身の回りのことを見つめ直していきたいと思う。


ママが一週間旅してきても、平気な家族になる

まとめる。
それは、母親である私が「必要とあらば、一週間でも旅に出る」という選択肢を当たり前に持っていること(実際、軽井沢は行ってみて、一週間かけて滞在する場所だと分かった)。
そして、家族が、私を平気で旅に送り出せる生活力を持っていること。
そしてそして、その生活力を、私もいる普段の生活から発揮していること。

これは、私の人生をかけた実験だ。大げさな言い方をしちゃったけど、大概のことは実験じゃんね。失敗がこわいから実験を嫌がるんだよ。

はじまりはじまり。


※ちなみに、私がどうしても行きたい!と思ったインスタレーションアートがこちら。このKの家で体験したことの素晴らしさについては、これから先、何度も語ることと思う。



ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!