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こんなに満ち足りた気分になっていいものだろうか |子どもの範疇 第10回

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 休み時間に一組をのぞきに行くと、南さんが普段通りに学校に来ている姿が見えた。クラスの子と笑顔でなにか話していて、声も昨日のようではなく元通りになっているようだった。次の授業が迫っていたので、翠子は声を掛けずにそのまま教室に戻った。

 トカジさんやワカヤマさんが教室でしゃべっているときに翠子はそっと聞き耳を立ててみたけれど、とくに南さんや青木先生の話題は出ていないようだった。これといった新しい情報が出てこなくて、噂はあのまま立ち消えてしまったのかもしれない。胸が軽くなるのと同時に、昨日お見舞いに行って自分が耳にした南さんの話もふわふわとした夢のようなものだったんじゃないかという気がしてきた。それほど話の内容が現実離れしたことに感じられた。

 それからしばらくしても、ふたたび南さんが翠子に青木先生の話を持ち出すことはなかった。それどころか、翠子がお見舞いに行ったことすらなかったことにされているようだった。だからといって南さんがよそよそしくなったとかそういったことはなく、これまで通りのさっぱりとした調子で「遅れを取り戻さなきゃ」と言って、しょっちゅう翠子のいる三組にやってきてはマンガの進み具合を見せてくれた。南さんはマンガの腕をさらに上げつつあった。翠子はなんだか安心して、青木先生の話は聞かなかったことにしようと考えた。

 マンガ雑誌づくりは大詰めを迎えていた。土曜日に『アルマジロ』メンバーで翠子の部屋に集まり、原稿描きの会を開いた。仮称だったはずの『アルマジロ』という雑誌名はそのまま定着してしまい、まるで少女マンガらしくないというのに正式なタイトルになってしまった。

 その日の翠子はアシスタントとしてみんなの原稿のベタ塗りや消しゴムかけを手伝った。みんなが黙々と作業を進める中で、南さんの集中力はちょっと怖いくらいに抜きんでていた。思い詰めているようにも思える打ち込みようで、体の表面から薄紫色の静電気が出てぱちぱちと音を立てているようだった。

 完成した原稿が一枚ずつテーブルの上に並んでいくさまは壮観で、作業の手を止めてはほれぼれとそれを眺めた。少し開けた窓から、梅雨の谷間の空の青が見えていた。わずかな風が吹き込んで、原稿がふわっと浮き上がったので、翠子はあわてて手で押さえつけた。

 途中、翠子の母が用意してくれた昼ご飯の焼きそばをみんなで食べて、そうしてその日の夕方近くになってすべてのマンガ原稿が完成したのだった。
 おのおの順繰りにメンバーのマンガに目を通していった。翠子はマンガを読みながら、自分の頬が上気して頭の後ろ側がしびれていくのがわかった。高校生の片思いを描いたこずちゃんの作品は繊細な筆致でやわらかな余韻を残すハッピーエンドだった。執筆中にあんなにぐずぐずと弱気だったのが嘘のように、おりっぺのマンガはスピード感のあるギャグの連発で、普段クールな南さんが読みながら苦しそうに身をよじっていた。その南さんのマンガの描写や構図の冴えは前作をしのぐレベルの高さで、ストーリーはえもいわれぬ寂しい雰囲気に満ちていた。

 前作と同じ主人公がフラフープを抜けるとたどりつく〝あちら側の世界〟と現実の世界を行き来しつつ、次第に自分の本当の居場所はどちらなのかを思い悩むようになる。〝あちら側の世界〟には敵か味方かわからない魔法使いがあらわれる。その魔法使いは影をつかさどるので、主人公の身につねに寄り添い、心の中を見透かすような言葉を繰り返す。魔法使いから逃れるように現実世界に戻ることができた主人公。その足元に長い影が伸びているところで物語は終わる。

 読み終わって翠子は思わず南さんのほうを見た。南さんは真剣な顔でこずちゃんのマンガに没頭している。途中経過を見せてもらっていたけれど、これほど迫力のあるものになるとは思っていなかった。読みながら、きりきりと限界まで引き絞られた弓のイメージが浮かんだ。何を考えながらこれを描いたのだろうと思いながら、「早く早く」と急かすおりっぺにマンガを渡した。ページを繰るごとにおりっぺの目は潤みながら大きく見開かれていった。

「すごいよこれ、南さん」

 顔を上げた南さんが少しはにかんだように笑った。

「新谷さんのマンガも山田さんのマンガもすごくおもしろいじゃん」

「でも南さんのマンガは本当にびっくりするよ。大人のプロが描いたみたいだもん」

 こずちゃんも力を込めて言った。実のところ私が一番南さんのマンガのすばらしさをわかっているのだ、とでも言いたげなファンのほてったような熱がそのまなざしに籠っていた。

 『アルマジロ』のマンガの並びは一番目がこずちゃん、次にギャグのおりっぺ、最後に南さんでどうだろう、と翠子が提案すると異議なしということになり、その場で目次ページをつくった。翠子はお便り募集や奥付のページもすでに用意していた。

「あとは印刷だけだけど……」

 そう言いながら、翠子が横目で見ると、おりっぺがふんふんと含み笑いをした。

「その件なら話はつけたよ」

 おりっぺは印刷のことになるとなにかともったいぶった言い方ばかりして詳細を教えてくれないままだった。そのようなかたちで暗躍する自分というイメージを気に入っているらしかったので、翠子はあてにしていいものかわからないまま、ちょっとめんどくさく思って詳しくは聞かないでいた。

「来週、学校が終わったあとに行ってみようか。みんな何曜日なら都合がいい?」

 みんなの習い事や塾が重ならない水曜日に集まるということになった。

「タダってわけにはいかないと思うから、ちょっとだけお金用意してね。ひとり三百円とかそれくらいで済むと思うけど」

 おこづかいの範疇におさまりそうでよかったと考える反面、本当に印刷できるのか半信半疑のまま、翠子は帰るみんなを玄関から見送った。

 自分の部屋に戻ると、学習机の上にある大きなサイズの封筒を手に取った。みんなの原稿をまとめて翠子が預かることになったのだ。両手に抱えた封筒の中にある原稿の厚さと重みを感じてたまらない気持ちになる。もうすぐこれが雑誌になる。なんだか信じられなかった。自分はぜんぜんマンガを描いていないというのに、こんなに満ち足りた気分になっていいものだろうか。

 どうか雑誌を発行するまでに大雨とか洪水とか地震とか火事とか落雷みたいな災害が起こって原稿がちりぢりに無くなったりしませんように。「ごはんだから早く降りてらっしゃい」という母の声に聞こえないふりをして、墓参りや初詣でもこれほど熱心になったことはないというような熱意で、何か大きなものにむかって翠子は祈った。
(つづく)

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