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月野うさぎと地場衛が中学生と大学生なのはアニメ版だけの話 | 子どもの範疇 第9回

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 記憶をたよりに角を一度か二度を曲がると、南さんの住むマンションがあらわれた。一分ほど、建物に入るかどうかを躊躇したのち、えいやとドアを押す。「押す」ではなく「引く」のドアだったと気づいて、あっと思ったときには体はもうマンションの中に入っていた。

 エントランスの奥にある自動ドアの前まで来ると、翠子は立ち止まってしまった。ドアの横に鍵穴と番号の並んだボタンがあって、鍵を使うか部屋番号で呼び出さないと開かないようだった。南さんが住んでるのは四階にあるエレベーターのすぐ隣の部屋ということしか覚えておらず、部屋の番号まではわからなかったので、どうしよう、と思いながら立ちすくむ。

「こんにちは」

 声を掛けられたので振り返ると、後ろに小さな子どもを連れた女の人がいた。ここに住んでいる人のようだった。

「こんにちは……」

 消え入るような声であいさつすると、女の人は「ちょっと待っててね」と言いながら、バッグから鍵を取り出し、ドアを開けてくれた。翠子もこのマンションの子だと思っているようだった。一緒に通らせてもらってから翠子が会釈すると、その人は子どもの手を引いて一階の通路を歩いていった。

 エレベーターに乗って四階に降りた。すぐ隣にある部屋を見ると、ちゃんと「南」と表札があった。ドアの横の呼び鈴を押すと、少ししてから「はい」という女の人の声がした。南さんのお母さんだろうか。ドア越しに話せるインターフォンに慣れていない翠子は緊張しながら、「あの、橋本です。お見舞いに来ました」と言った。

「あ、橋本さん?」という声が聞こえて、ほどなくドアが開いた。想像していたのとは違って、南さんはパジャマではなくトレーナーにジーンズという姿だった。けっこう元気そう、と思ったのもつかの間「いらっしゃい。来てくれてありがとう」という声は低くてガラガラだった。さっきのインターフォンの声も南さんだったのだ。

「大丈夫?」

「うん、もう熱はないんだけど、治りかけてくるといつものどがこんなふうになっちゃうの。さ、上がって」

 子ども部屋に通されて座っていると、南さんがまた飲み物を持ってきてくれた。

「ごめん、風邪なのに」

「平気平気。のどに残ってるだけで体は元気だから」

「南さんのお母さんは?」

「昨日までは熱があったから家にいてくれたけど、今日は会社。本当は私も学校に行きたかったんだけど、念のため休みなさいって言われちゃって」

「そうだったんだ」

 かすれた声のせいで南さんは普段よりも弱々しい感じがした。いつもしゃんとしているのに肩が少し内側に入っていて、カーペットの床にぺたんと座り込んでいる。水気を多く含んだ淡い水彩画のように、いまにもなにかが枠線からにじみ出しそうだった。

「暑くなってきたのに風邪引いちゃって変だよね。マンガがますます遅れちゃいそう」

「そんな、いつでもいいよ。しめきりがあるわけじゃないし」

 ふふふ、と下を向いて南さんが笑って、少しせき込んだ。こんなふうに具合の悪い南さんの姿を見るのははじめてで、迷惑になっているんじゃないかと翠子は落ち着かなくなった。

「あのね、私がいまマンガを描いてること、お母さんは知らないんだ」

「そうなの」

「最近ね、中学受験を考えたらって言われるようになって。どうしようかなって思ってるんだけど、そんなときにまたマンガを描きはじめたって話したら、お母さんどんな顔するかなって」

「うん」

「反対はされないと思うけどね。でも『それは本気でやることなの』って言われるかなって。だから、ほんとはよくないのかもしれないけど、ちょっと秘密にしておこうと思って」

「うん」

 翠子はグラスの飲み物に用心深く口をつけ、コーラでなく麦茶だったのでほっとする。自分から何か話そうと考えれば考えるほど、トカジさんとワカヤマさんが言っていたことが頭の中をめぐって、それ以外の話題を思いつかなくなった。

「あのさ、うちのクラスに教育実習の先生が来てたでしょ。青木先生って人」

 翠子の頭の中を見透かすように南さんが言った。途端にお茶を飲む自分ののどが大きくごくんと鳴った気がしてあせってしまう。

「教育実習が終わってからしばらくして、青木先生からうちに電話がかかってきたの。『南さんには実習中にいろいろ手伝ってもらったからお礼が言いたい』って。それで会ったんだ」

 南さんはまた大きくせき込み、「ごめん」と言ってお茶を飲んだ。無意識に何度も口に運んだせいで、翠子のグラスはもう空になっている。

「おかしいんだよ、青木先生。私につきあってほしいんだって。年が離れてるけど、そういうのは些細なことだから関係ないし、たまたまいつ生まれたかってことで惹かれあっている人間たちが大人とか子どもとか分け隔てられるのはばかげてるって」

 そこまで言って南さんは黙ってしまった。翠子は耳を疑いつつ、南さんにはそういうことが起こるのかもしれないと考えて、なぜか打ちのめされたような気持ちになって何も言えなくなってしまった。少し遅れて「それで、つきあってるの?」という言葉が舌先まで出かかったけれど、閉じた唇にぶつかってそのまま消えた。かわりに別のことを言った。

「……お母さんにその話したの?」

「うーん……電話をもらって会ったってことだけ言った。怒られるかと思ったけど、全然だった。青木先生の大学がどこか知ったら、『あすみだけ特別に親しくしてもらってよかったじゃない。先生の卵なんでしょ。中学入試の勉強を教えてもらえば』って」

 南さんの言葉の最後のほうはかすれて消え入りそうになっていた。南さんの輪郭が内側からにじんで、いまにもぼやけてしまいそうだ。そうならないように必死に言葉を探して、自分のかたちを保とうとしているようだった。

「つきあってなんて、大人なのに子どもにそんなこと言っておかしいよね。子ども同士で言っててもおかしいけど。でも、五年生なんてほとんど中学生みたいなものだし、私だったらもう大人とも変わらないって青木先生は言うんだよ。なんかさ、セーラームーンを思い出しちゃった。ほら、月野うさぎと地場衛は中学生と大学生でつきあうじゃない」

 セーラームーンとタキシード仮面が中学生と大学生なのはアニメ版だけの話で、原作だと中学生と高校生だよ、と翠子は言おうとしてやめた。そんなこと南さんだってとっくに知っているだろう。中学生と高校生は小学生の自分の目からはそれほど違わないような気はする。でも大学生と中学生だったらどれくらい違うんだろう。それが小学生だったら……と考えはじめると翠子の頭は入り組んだ道に迷い込んでしまったようになる。

「青木先生にもセーラームーンのことちょっと言ったら、なんかそのあとアニメを見たらしくて、『エンディミオンとセレニティって呼びあおうか?』って」

「エンディミオンとセレニティ……」

「変でしょ。そんなの呼ぶわけないけど。でももっとおかしいのはさ、まだ大学生で若いのに自分をお父さんのかわりみたいにも思ってくれていい、なんて言うんだよ。ほら、橋本さんに言ったことあるかわかんないけど、うちって離婚しててお父さんがいないから。私、思わず笑っちゃった……」

 南さんの笑い顔は途中から咳のせいで苦しそうにすぼんだ。今度は咳がなかなか止まらない。翠子はどうしたらいいかわからなくなって、南さんの後ろに回り込んで背中をさすった。そうしていたら心の中に「卑怯だ」という言葉が浮かびあがって、その普段ほとんど使わない物言いの激しさに自分で驚き、背中をさする手を引っ込めそうになる。「お父さんのかわり」なんて、そんなこと……。でも、本当に心の底から思っているのなら、言ってもいいのだろうか。そういう気持ちの示し方があるのだろうか。

 顔を上げた南さんは、咳き込みすぎて目尻に溜まった涙を指の先でさっとぬぐった。

「ごめん、また少し熱がぶり返したみたい。ちょっとしゃべりすぎちゃった。いまの話はさ、当たり前だけど全部青木先生がふざけて言ってた冗談だから。おかしくてつい橋本さんに話しちゃった。だから本気にしないでね」

 そう告げられると、翠子が南さんに向けて何か言おうとしたことをすべて封じられてしまったような気がして、ただ「うん」と返事をするしかなかった。

「明日は学校に行けると思うから。マンガも頑張って描くね」

 この子は自分と同い年の同級生なのだ。玄関で手を振る南さんの姿を見て、不思議なことにはじめてそう思った。

 エレベーターに乗り込むと、翠子は壁面にもたれかかった。ランドセルでつっかえて背中と壁は触れあわない。エレベーターの四角い空間の余白、その空気に視線を泳がせた。こんな箱に閉じ込められて、エレベーターに乗っているときは一体どこを見たらいいのだろう。そのうち、いつまでたっても一階に到着しないことに気がついた。行き先のボタンを押し忘れていたのだった。
(つづく)

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