本格派のコピー機 | 子どもの範疇 第11回
いまにもおほんと咳払いでもしそうな態度で「すぐだからね」と言うおりっぺについてみんな歩いていた。朝から霧のような雨が続く日だった。服がわずかに湿る程度の雨だったけれど、みんな律儀に傘を差して歩いた。ランドセルはいったん家に置いてきた。翠子の手提げバッグの中には原稿の封筒が入っていて、濡れないようにしっかりと抱えていた。
住宅地の道路をしばらく進んでから細い道路に折れて、ふだん歩いたことのない長い坂道を上る。道の両側がうっそうとした笹薮になっていて、雨の日なので薄暗かった。なんだか怖い、と思った矢先、前からカッパ姿の中学生が乗った自転車が猛スピードで下ってきて、みんなはさっと脇によけた。翠子は原稿を守ろうと道路の端に寄りすぎて、背中にちくちくと笹の葉を感じた。
坂を上りきると笹藪が消えて、道沿いに平屋の古そうな木造家屋が見えた。おりっぺが「ここでーす。私のおばさんち」とその家の前で立ち止まる。「尾辻」と書かれた表札の下に「中学生対象・高校受験対策 尾辻学習塾」という小さな看板があった。それを見て、たしかここは兄が中学生のときに通っていた塾だと翠子は気がついた。よく覚えていなかったけれど、中学一年のときに大手の塾が合わずにここに乗り換えて、結局三年生の最後まで通っていたと聞いたことがある気がする。
おりっぺが呼び鈴を押すと、カラカラと音を立てて引き戸が開き、中から女の人があらわれた。
「いらっしゃい。待ってたよ」
「あきえちゃん久しぶり」
おりっぺが少しはにかんで笑った。皆で「おじゃまします」と口々に言いながら、靴をそろえて玄関に上がった。古い家屋特有のほこりっぽい匂いに翠子は祖父母の家を思い出していた。生き物がきゅうきゅうと鳴くような音をさせる薄暗い廊下を歩き、広い畳の部屋に通された。部屋には公民館にあるような長机が十台ほどと座布団が並び、前方にはホワイトボードが置いてある。
「どうぞ座って」と言われると、みんなは犬のようにうろうろと迷ってから座布団にぺたんと腰を下ろした。
中学生だった兄が塾の先生のことを「生徒の弱点をみつけてつぶすのがうまい」と評していたことを翠子は思い出した。「つぶす」という言葉から、ブルドーザーのようにたくましくがっしりとした人を勝手に想像していたけれど、目の前のあきえさんは髪が長くてすらりとした女の人だった。「お姉さん」と呼ぶようなふんわりとした感じではないけれど、「おばさん」と呼ぶにはまだまだ若い、という見た目だった。
「それでさー、あきえちゃん。電話で言ってたコピー機なんだけど」
小さなグラスに麦茶を出してくれたあきえさんに、おりっぺが切り出す。
「うん。使いたいんでしょ」
「一人いくらくらい払ったらいい?」
あきえさんはお盆を持って膝立ちになったまま、眉間にしわを寄せて、うーん、と唸り声をあげた。
「いやね、うちのコピー機は塾のテストとか課題を印刷するのに使ってて、仕事の道具だから自由に使いたい放題にされてしまうとあまりよろしくないと。だからインク代とかそういうことじゃなくて、けじめとして一応お金をもらうって話を香織にしたよね」
「うん」
「でもあなたたちを見たら、小学生からお金を巻き上げるみたいでちょっと気が咎めてきたわ」
「いいじゃん。使わせてもらうのに小学生も何もないよ。けじめだよ」
「いやまあ、そうなんだけど……香織って何年生になったんだっけ?」
「五年生」
「五年生か……うーん、じゃあ一人百円……いや、五十円ってことで」
苦渋の決断といった体であきえさんは手のひらを差し出した。駄菓子のような金額に申し訳なくなりながら、翠子たちは順番にぺこりぺこりと頭を下げて十円玉や五十円玉をあきえさんの手に載せていった。
あきえさんは服のポケットに小銭をざらざらと入れると、「こっち」とふすまを開けてふたたび廊下に出た。翠子はあわてて手提げを持って立ち上がる。コピー機は長い廊下の突き当りにひっそりと置いてあった。あきえさんがボタンを押すと、盛大に音を立てて動き出した。
「普段はスリープ状態にしてあるんだけど、ちょっと古い機種だから起動までに時間がかかるのよ。でも本格派の機械だよ」
本格派のコピー機を取り囲んで、完全に起き上がるのを待った。使い方を教えてもらい目次のページで試してみると、きれいなコピーが出てきて「おおっ」と声が上がる。
「紙も補充してあるし、何かあったら呼んで。私はあっちの部屋にいるから。トイレはあそこだから、どうぞご自由に」と言ってあきえさんは姿を消した。
そうしてしばらくはみんなでコピー機が動くのを眺めていたが、なぜか途中で機械が休んだりして、一枚一枚に時間がかかるのだった。いらいらしてきたおりっぺがコピー機の横腹を叩こうとしたのをこずちゃんが止めた。
「コピー機なら私が見てようか。みんなはさっきの部屋に戻ってたら。全員でここにいてもしょうがないし」
翠子がそう提案した。「スイちゃんにだけまかせたら悪いよ」と遠慮するこずちゃんに「平気だよ」と返す。実際、コピー機の設定をしたり、作動する様子を見たりするのは嫌いではなかった。
「じゃあ、またしばらくしたら様子を見にくるからね」と南さんが言って、三人はもとの部屋に戻っていった。
一人きりになると、廊下の薄暗さが急に意識された。コピー機の蓋の下を大げさな音を立てながら光の帯が移動する。コピーされた紙を手に取ると温かかった。不思議なもので、原稿そのものよりもコピーされたもののほうがよりマンガらしく見えて嬉しくなった。外は勢いを少し増した雨が降り続いているようだった。
「順調?」
背後から声がして飛び上がった。あきえさんだった。足音がコピー機の音にかき消されて、すぐ近くにいたのにわからなかった。
「見てもいい?」
あきえさんが聞くので翠子はこくりとうなずき、手にしていたコピーを手渡した。
「これ、すごいね。ほんとにプロのマンガ家みたい」
いえ、私は描いてないんですけど……と翠子はもごもご言った。あきえさんは聞いてないようで、ほかのコピーも見ながら、いやー最近の小学生はほんとすごいね、私も昔ポーの一族とか好きだったけど、ただ読むだけだったな、と感心し、「これだと印刷がもうちょっと濃いほうがいいんじゃない?」とパネルを操作して調整してくれた。
「コピー機使わせてもらってありがとうございます」
翠子があらためてお礼を述べると、あー、いやいや、そんな、とあきえさんが言った。
「いやね、香織からコピーさせてほしいって聞いたときには、遊びで使うのはダメって最初に言って。でも遊びじゃないからってあんまり真剣に言われたからOKしたんだよね。これ見たら香織の言う通りだって納得したわ」
遊びじゃない、という言葉に翠子はどきりとした。実のところ、自分のやっていることが遊びなのかそうではないのかはよくわかっていなかった。真剣なのは本当だった。でも勉強とか仕事ではないし……と考えると、遊びじゃないという主張は成り立たないんじゃないかと思えてきて、なんだか後ろめたくなってくる。
「あの、私、兄がいるんですけど、こちらの塾に通ってて。橋本卓朗っていうんですけど」
翠子が話題を変えると、あきえさんが「あー!」と言った。
(つづく)
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