おかあにはもう夢なんてないだろう。
ずっと本当のことは言っていなかった。
嘘ばかりついていて、だんだん嘘と本当の境目はあやふやになっていた。
その嘘は誰のため?
全て自分のためだ。
自分がこの場所で居心地良く過ごすために。
この家族の中に必要とされる私でいるために。
私は20歳で結婚してから何十年も、自分を生きているより役割を生きていた。
もともと自己肯定感が高く、プライドも高かった。
できないことはしてこなかったからだ。
苦手なことから逃げたまま大人になり、
挙句、子供ができて妻となり母親になった。
根っこの自堕落と詰めの甘さ。
どうにかなるさの根拠のない自信は、
全て新しい生活の前に崩壊した。
新しい生活には。
できないことしかなかった。
苦手なもので評価された。
その息苦しさから一度逃げ出して、また戻った私はここに根を張る選択しか残されていなかった。
正確には離婚も別居も独立もあるだろう。
がしかし、選ばなかったのは、
面倒なことと闘うことが苦手だからだ。
ちなみにその頃、愛なんて名前のつく感情はちっとも役立たずで、ひっそり姿を消していた。
家に居場所がないから、仕事をした。
子供達は、義母が面倒を見てくれた。
子供は、家族と社会が育ててくれた。そして、自らの力で育っていったのだと思う。
働いてお金を稼ぐことが、私の役割であり意味であり、私はそれに支えられてきた。
まだ子供が小さい頃も、年末年始は仕事します。と主任に頼んでいた。
仕事を言い訳に、年末年始の気忙しい自宅の喧騒をスルーしてきた。
いつもと変わったことは苦手だし、台所仕事の駆け引きも心底擦り減る。
盆と正月は暦から消えろ。何度、職場の似たような立場の仲間と念じただろう。
いろんなものを呪ったり、不満をぶつけることに
執心していた時代もあった。
休みの日に友達と出かけると話すと
リッチでいいわね。と嫌味を言われたり、
返事をしてもらえないことがあった。
どんどん、義母の機嫌ばかりをバロメーターにしていた。
臆病と作り話の卓越さは比例して大きくなっていく。
仕事のフリをして年休消化した。
映画館で、楽しみにしていた話題作を観ながら、もしバレたらどうしようと携帯ばかり気にしていたこともあった。
友達に誘われるアーティストのライブは、研修だと嘘をついたし、仲良しとの飲み会は職場の懇親会で仕方なく。などと幾つも作り話をした。
例えいい顔をされなくても、子供を預ける程のいいエピソードがないと、外出すること自体が難しいと、私が私を締め付けていたのだ。
子供のために、ライブや酒の席を全て諦めるほどには、献身的な親ではなく、かといって後ろめたさがないといいきれる潔さもなかった。
長く長く長く、私は嘘をついてきた。
嘘は私を消耗させたし、疲弊もさせたが
あんなに懇意にしてきた、嘘と私の蜜月を
なかったことにはできない。
なんなら、今でも本当のことなど話していない。
義両親に本当の気持ちなど話せば、途端に家族はぎくしゃくするだろう。
家庭で感じる閉塞感を、誰かのせいにしていた頃。
次男が、私に
おかあには、もう夢なんてないだろう。と言った。
夢?
次男の進路について話していた時だったかもしれない。
ないだろう?ではなく、ないだろう。
声のトーンは尻下がりで、それが私の何かに火をつけた。
あるよ。そう答えた。
そのあるよ。の後から、私は書くことを始めた。
若い時、本当は雑誌の編集やインタビューをする
ライターになりたかった。
それでも、自分にはそんな才能はないと決めつけて、必ず就職できる介護の世界を目指していた。
何もする前から諦めていたし、口にもしなかった。
書くことが好きだったから、それを仕事にするほどに高めて苦しくなる可能性からも逃げたのだと
思う。
書くことを意識して始めて4年が経過した。
noteをはじめてからは、1年半以上の月日が流れた。
書いて読んでもらうことを続けていく中で、私の不満や閉塞感は徐々に薄らいでいる。
外出しなくとも。許可を得なくとも。
私は指で紡ぐ言葉で、外に出て深呼吸ができるようになった。
自分の時間の中で、言葉を組み合わせ、構成をして、文章が届いてほしい誰かを思い浮かべて書くことが、私を自由にしていった。
私は役割を生きているのではなく、
今、自分を生きている。
おかあには、もう夢なんてないだろう。
あるよ。おかあはいつか本を出すよ。
見てろよ、絶対叶えてやるからな。
ちなみに、これは嘘ではないぞ。
お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。