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だいこんくるみさといも


私が、義母にキレてからしばらくして。

私はそのことをなかったことのようにして、

日々を過ごして、都合よく半分忘れていた。

その日、夕飯の後片付けをしている私に、

風呂へ向かう準備をしていた母がおもむろに

「こないだ、あんたにもうよくわかんないと
言われてた時より、私、ちょっといいよね。」


と言い出した。


なぬ?と思って一瞬怯んだが、こういうことは

想定内なので、ボディブローをすかして


「そうだね。そう思う。」と答えた。


義父の療養が始まってから、義母は

自分だけが頑張っている。

自分ばかりが可哀想で、自分がしていることが

報われないと毎日毎日話している。


これみよがしなため息に、暗い表情。

あまり見ないようにしている。

声をかけなければ、自分から話し出す。

聞いているこちらがどう思うか?よりは、

こんなに頑張っている私の話を

仕事に行ってうちのことも私に任せているのだから

聞かないなんてあり得ないという力強い

スタンスが崩れることはない。

仕事に行ける方が楽でいいよねと言われたら

そうだね、うちにいる方が大変だよねと相槌をうち


あんたみたいに突き放せるような考えができればいいけど、私は情に厚いからできない。と言われたら


そうだね、お母さんは優しいからねとフォローする。


いろいろ思うところはあるが、介護を20年近くやってきたのは無駄ではない。


心を無にして言葉を打ち返すことは、詐欺師並みに得意なのだ。


いくら話を聞いても聞いても区切りはあれども、終わりはない。



夜、解放されて夫とビールを飲んで、話をする。


パートナーがいて心底幸せだと思う。


寝ることが唯一の安らぎで、朝になればためいきがでる。


そんな毎日でも、いいことを一つずつ数えて
自分は幸せだと言い聞かせる。


深呼吸して気持ちを取り繕う。

わたしの人生だぞ。楽しく生きようぜ。と自分を
鼓舞する。


楽しいnoteを書いていても、温かいnoteを書こうと志す時も、


日常はそんな風に感情の混沌にまみれている。


いいことばかりはないけど、わるいことばかりではない。


書くことがなければ、自分はどうなっていたかな?と思う。


このnoteの世界の発信ややりとりが、


私が生きる意味や生きる張り合いに繋がり、


にこにこできる力を与えてくれている。


義母にもnoteがあればいいのに。


そう思う。noteをされたら困るのだけど。


何か夢中になり、無心になれる何か。


そう思っていた頃、ちょうど私がキレた後。


義母は、おもむろに痛みはじめた大根を


ジャンジャン切って、干しはじめた。


貴重面で根気がよいので、切っては、干し


また切っては、干しを繰り返して10本以上を


切り干し大根にした。


ペットを誉めるが如く、わあ、いい感じに干せてるね、ムラがないねとか

思いつく限りの切り干しの出来の素晴らしさを
伝えたりした。


その後は米袋にいっぱいの胡桃を、夫が


炒って、割ってくれたものを3人でせっせと


実をくり出す作業に没頭した。


できるだけ綺麗に、実がくるりんと出ると


でかい耳垢をお年寄りの耳から発掘した時のような

なんとも言えない喜びに満ち溢れる。

米袋一袋のくるみは、保存瓶大に5本分になった。

胡桃を掘る間は、何も考えない。


余計なことを考えたら、千枚通しが、指にぷすりと突き刺さる。


胡桃が片付いて、肩こりは最高潮になると、


今度は里芋の芽が出たという。


皮を剥いてカットしてジップロックに入れて


冷凍庫へ。


シンクがいっぱいになる里芋、ドン引き。


義母と並んでひたすら剥く。


当たり前だが、一つとて同じ里芋はない。


固くて剥きにくいのも、長くてすべっこいのも。


カピバラみたいだな。とか、同僚のあの人に


似てるなとか。どうでもいいことを思いながら


温泉に浸かるカピバラを思い出したりして


せっせと剥いていく。


不器用で包丁も下手くそだから、ただ手を切らない。


そのことだけに意識を向ける。


昔は、綺麗に早く、なるべく皮を薄くと


隣に義母がいたら、考えることが沢山で


手が追いつかず、結局時間がかかることばかり


だった。


あの頃のいつも泣き出しそうで、情けないと


自分を責めてばかりいた私が、頑張ったから


こんな風に気楽になれたよ。と、20代の私を


労ったりもする。


里芋を剥きながら考えることはとりとめもない。


野菜の処理。


それは、義母を少し癒したように感じる。


ゆくゆくは私達の健康や活力に繋がるものを


こしらえているという義母の大義があり、


その作業に心を傾けることで調整されたものが


あるのだろう。


きっと単純作業により、結果が見えやすいものが


もたらす心の安寧がある。


わかりやすいゴールは心を穏やかにする。


目に見えないゴールに向かうこと。


療養や介護は、まさにそれである。


心がくたびれた時には、小さな達成が効果がある。


解決などしない。本当の安らぎなどは易々と手に入らない。


だから、自分を誤魔化すことが上手くなることも
一つの才だと思う。


義母は、私をうんざりさせる。

これからもそれは変わらない。

私は適当な返答を繰り返し、誤魔化しながらやり過ごしていく。

それでも、私にはnoteという才があるから。

だいこんや、くるみや、さといもの援護を借りて

そうやって生きていくのだと思う。

そしてそれはやっぱり、不幸なんて名前では

絶対にない。

#日常
#野菜万歳

お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。