私を好きな母のこと
私の母は、私のことがとても好きだ。
それは当たり前ではなく、恵まれたことだと知ったのは、随分と大人になってからだ。
私の母は、我が家の嫁姑のいざこざについて、
私が弱音や愚痴をこぼすと、烈火の如く怒る。
私の憤りを軽く越えるために、あまり口にしないようになったし、笑いに加工してから提供するようになった。
今になって、義母がぽろっと本音をこぼした。
「たまに会うと、お母さんに睨まれて怖かった…。お母さんは、そりゃ、自分の娘を取られたみたいで、さぞ面白くなかっただろうね。」と。
義母は、私を呼び捨てで呼ぶ。
母は、私をちゃん付けで呼ぶ。
義母には義母の考えがあり、母には母の想いがあるのだろう。
嫁いだばかりの頃。
母が私のためにかけていた保険を、結婚を機に解約するようにこちらの両親に言われた。
母としては、その時の解約は、私にとって何にもならないからそっと続けようとしていたが、私は双方の板挟みに居た堪れず、母に懇願して解約してもらった。
あの時の母の落胆した声を忘れられない。
母には母の、義母には義母の、私には私の、忘れられないがある。
みんながそれぞれに痛みや葛藤を抱えて通り過ぎた時間が、今に繋がっている。
三男が帰省の途中に次男の家と、私の実家に立ち寄ると言った。
ならばと、迎えに行きがてら私と夫も実家に泊まることにした。
父は、夫のことが好きで、先日私1人が帰省したら物足りない様子であり、親孝行の婿見せでもある。
私たちがたらふく食べて飲ませてもらい、翌日。
母は、週に一回の透析治療の日だった。
外出着にしてはラフすぎるのではないか。と感じる出で立ちをしていた。
Tシャツに7分丈のベージュのズボンを履いていた。
白いTシャツに猫の顔面があり
英語で時間を無駄にしない。と書いてあった。
透析にふさわしいね。と三男が言った。
可愛いし、似合う。と孫に言われて喜んでいた。
私たちが寝た布団を2階のベランダに干す時に、
ベランダにある蛇口を捻り威勢よくホースから直にじゃばじゃばと、植物の鉢に水をやった。
1階の玄関外に出た父がつめてぇなあ。と言っている。
ごめんごめん、あはははと愉快に笑う母。
反省が1ミリもないのは同じだが、どこかの社長と違い憎めないのは、人柄か。
そして、暑いなあ。と言いながらおもむろに歌い出す。
なーつはこかんがーかーゆくなるー。
えっ?今なんつった?
私と三男は耳を疑う。
夏といえばさ、この歌かと。と答える母。
もっとあるよね、童謡でも唱歌でもサザンでもTUBEでも。夏の歌あるよね!?
デリケートゾーンの痒みに効くCMソングが1番に頭に浮かぶとか、どんだけ幸せ脳なの!
父に冷や水をかけ、ベランダの手すりに斜めに布団を干し、朝の7時半に、股間というワードが含まれる歌を高らかに歌い上げる。
最近、スイカがめちゃくちゃ好きらしい。
新潟のスイカをむしゃむしゃ食べていた。
母が透析治療に行くので、私と妹で駅まで送る。
我が家は徒歩5分で最寄駅に着く。
少し歩くと、パスモケースがないと叫ぶ。
妹に、走って持ってきて!と命じる。
太り気味のケアマネと、スポーツジムのインストラクターならば、走らせる方を選ぶ時に迷う必要はない。
妹がいない間に、誕生日のお祝いを用意してこなかったから、剥き出しの10000円を、母の手提げにねじこむ。
いらないって。というが、
私には、自分がいらないってと言いながら、帰省のたびに母がねじこんでくれた1万円の記憶がある。
いらなくなかったもん。
なんでもできる1万円。その1万円はそう呼ばれていた。
1万円あれば、大抵のことはできる。という金銭感覚で育ってきた。
妹がパスモケースを持って、かけてきた。
母はパスモが入った小さなポシェットを肩にかけた。
駅までのエスカレーターを上がり、改札で母を見送る。
最近は透析の後はしんどくて、死んだようになる。とは父の弁。
帰りは父が車で迎えに行ってくれる。
可愛く見える、お母さん。と本当のことを言う。
まあね、透析患者だけどね。とドヤ顔。
私と妹を改札の外に残して、母は行く。
一度だけ少し振り返り片手を上げた。
私たちは、もしかしてもう一回振り返るかも知れないと、階段を降りるまで見送った。
母は振り返らない。振り返らない人だ。
私が先日、電車に乗る時には、私が改札を抜けて振り返ると母はもういなかった。
妹が実家から帰る時も、玄関から出た瞬間に、素早く鍵を閉めるそうだ。
別れに意味を持たせないし、余韻を嫌う。
小さくなった母の背中を、お茶目なTシャツで
ふざける姿を、私はあと何回見られるのだろう。
そんなことを思いながら、土用の丑の日には鰻でも送ろうかな。と考える。
私を好きな母のこと。
私が好きな母のこと。
お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。