心配より信頼
どーんと構えているねと言われたら、それは褒め言葉ではないと思っている。
と言い返した。私は嫌味だと思っていると。
その言葉が、
素直に称賛の気持ち限定なこともあれば、
意地悪な気持ちを含んでいることもある。
言葉とは不思議だ。心の底から思って言えば人を力づけるが、他の気持ちが混ざれば違う風に響く。
私は、言われるたびに心にささくれができていた。
捲れた皮は、出血するほどではないが
違和感はある。
子供が成人してもなお、親としての子供への関わりに対して人様は口を出してくることがあるなんて、23歳の私が知ったら絶望する。
23歳の頃の私は、自分の子供に対して何一つ思うようにできなかったという悔しさがあった。
助言やアドバイスは槍のように降り注ぎ、23歳の私の意見を差し込む隙などなかった。
絶対に戻りたくない。
若くなれる魔法ほどいらないものはない。
自信がある。23歳の私は何回やっても周りの人に自分の意見など言えないのだ。
46歳になって、随分と図々しく逞しくはなったが、それでも子供のことを人から何か言われると、23歳の私が蘇る。
子育てに自信なんてひとつもなかった。
何がよくて、何がいけないのか。
泣いたら抱っこはしていいのか、悪いのか。
ごはんをこぼしたら口に運ぶのを手伝えばいいのか、やらせるべきか。
自分の選んだ方に文句を言われたり、
今の親は甘いからと言われると震え上がった。
今、時代、そのワードが出て投げかけられる言葉で、肯定されていると感じたことはない。
いつも不安だった。
私は、自分の息子達のそれぞれの今をリスペクトしている。
私はいつも怯えていたが。周りの人に育ててもらい、自分達の力で成長して、今を生きている。
私が誇りだと感じていても、そうではなく感じる人もいることは理解している。
長男は経済的に自立して、自分の夢を追いかけている。
誰に文句を言われる筋合いもないが、いつまで夢を追いかけることを許すのか?と言われる。
うるせえな、関係ないだろう?とは言えない。
そんな付き合いをしていない。
丁寧にこちらの考えを述べるまで。だが、そうすると、どーんと構えていることになる。
若い時に十分怯えて萎縮して抑圧した反動か、
一生分怯えて、怯えの残量がないのかわからないが、どーんとしてみえても仕方ない。
私が心配して疲弊して身体を壊せばいいのか?と思う。眉間に皺を寄せときゃいいのか?とも
思う。
勘弁してほしい。
息子のことで、自分を消耗するほどの母親ではないのだ。
私は私の幸せと元気こそが、子供孝行と思って生きている。
息子の課題を自分の課題にするような、横取りはしないのだ。
そう決めている。
心配こそ母の愛という呪縛。
随分と心配が下手くそな私は、それに苦しめられてきた。
長男が自分の意思をはっきりと告げた。
俺は自分の思う道を諦めるつもりはない。
いつも周りの人を慮り何も言わない子。
いつも最後に残って、それでいいという子。
誰かの気持ちに合わせてばかりのその子が
これほどまでに強い言葉を口にして表現したことを、23歳の私にも、30歳の私にも、今までの私みんなに教えてやりたい。
未来なんてわからない。
なんの約束も保証もない。
だからこそ、母の心配なぞ余計な荷物だ。
お母はもうお前への信頼と新幹線代だけやるから思うようにやりなさい。
お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。