見出し画像

兄に会いたい

 父が母と結婚する前に所帯を持っていたことがあると、父の死後に知った。
 血縁関係にある女性で、親戚の勧めで結婚したが、わずか1年と少しで関係が破綻したらしい。
 男の子を授かったが、その幼子が生まれてすぐに、父は女性の元を去ったという。
 
 父は六人兄弟の長男で、高校二年生の時に父親(私の祖父に当たる人)を癌で亡くしている。
 祖母は家政婦や内職などしながら必死に家を守り、子供たちを育てたと聞いている。
 父がどんな気持ちでその結婚を受け入れたのか、この世を去った人の胸の内など知る由もないが、傍には計り知れない不可抗力があったのかもしれない。

 父は子煩悩な人だった。
アルバムを開くと、生まれて間もない私を満面の笑みで見つめる父の顔がある。
 私が初めての子を出産した時には「カケルの面倒をみてやるから、近くに引っ越しておいでよ」と、孫の世話を買って出てくれた。
 そして保育園の送り迎えから遊びの相手まで、近所の人が驚くほどに、本当によく面倒を見てくれたのだ。

「ほら、もう一人ちいさいのがいただろう」
父がしきりに言い出したのは、亡くなる2,3週間ほど前だっただろうか。
 脊髄小脳変性症という難病に犯されて日に日に弱っていった父は、最後は寝たきりとなり、自分で寝返りを打つことすらできないほど衰弱していた。
「ちいさいのって、カケルのこと?カケルならそこにいるけど」
「いや、カケルじゃなくて、もっとちいさい男の子がいただろう」
何度押し問答をしても話が通じないので、いつも父は黙って目を閉じた。
とうとう頭までおかしくなってしまったと、私は度々絶望したものだ。

 父の葬儀が済んで1カ月ほどたったころ、「実はね、これこれしかじかで、お父さんにはもう一人子供がいるから、相続の関係をきちんとしておいた方がいいと思ってね」
母がそう切り出したとき、「あ、お父さんがしきりに言ってた『ちいさいの』ってもしかしたら・・」
 その時全てがつながった。
父は血を分けた我が子を自分の手で育てられなかったこと、日々成長していく姿が見られなかったことが、心のどこかにずっと引っかかっていたのだろう。
 彼の姿を重ねていたんだ。私の誕生を誰より喜んだのも、初孫を目に入れても痛くないほど可愛いがったのは、とりわけカケルが男の子だったからなんだね。
 
 母は意を決して出かけて行った。
彼は、東京近郊の都市でお母さんと美容室を営み、奥さんと可愛らしい女の子と三人で幸せに暮らしていたという。
 父の話をどんなふうに聞いて育ったのかわからないが、全く記憶にない人のことなど赤の他人も同然で、彼は母が用意していったお金を受け取ろうとしなかった。
 それが、死期が迫った父の口から繰り返し出てきた話に及んだ時に、
「父は確かにそう言ったのですか」
彼は初めて呼んだそうだ。自分にとって一番遠い存在であったであろう、その人の事を「父」と。
 
 無事に目的を果たした母は、心底安堵した様相で帰宅した。
 私を連れていくのを拒んだ母は、「そんなに会いたいのなら、いつか私の死後にでもね」と冗談めかして言った。

 父の面影を宿した人は、どんな声をしているのだろう。
どんな背格好で、どんな風に笑うのだろうか。
 
 私と半分血のつながった人、兄に会いたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?