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《日本史》源氏の血筋とその後


こんにちは。
Ayaです。
11月半ばも過ぎ、『鎌倉殿の13人』も佳境に入りつつありますね。
大泉洋さん演じる源頼朝が死んで以降、時々見るようにしてます。
今週は公暁による実朝暗殺が放送されます。公暁は実朝の首を抱えて三浦義村のもとに向かいますが、すでに裏切りを決めていた三浦は部下に殺害させます。
こうして源頼朝の血は絶えたとされていますが、実は少しだけ続いていたのをご存じでしょうか。

源鞠子(媄子)

彼女について知ったのは、杉本苑子著の『竹ノ御所鞠子』でした。

鞠子は1202年頼家の娘として生まれます。
母については諸説あります。『尊卑分脈』には源義仲の娘と記されており、『竹ノ御所鞠子』でもこの説が取り上げられています。
しかし、近年では、彼女が住んでいた"竹の御所"があったのが比企谷だったので、比企氏の若狭局ではないかとの説が有力視されています。その場合、比企能員の変では養育係の機転によって、政子のもとに逃げ込んだのではないかと思われます。
父の失脚後、政子の庇護で生活し、実朝夫人の猶子となっていました。
さて、実朝の非業の死によって、新たな将軍の擁立をしなくてはならなくなった鎌倉幕府。交渉を担当した北条時房は当初実朝の計画通り後鳥羽上皇の皇子を擁立するつもりでしたが、拒否されたため、頼朝の妹の孫・三寅(藤原道家の子)を連れて帰ります。
いわゆる摂家将軍の始まりでしたが、三寅はわずか3歳でした。
北条政子・義時姉弟は新将軍の権威確立と頼朝の血筋をなんとしても残したいと強硬策を決めます。わずか3歳の三寅とすでに19歳になっていた鞠子の婚約を強行したのです。『竹ノ御所鞠子』ではすでに鞠子には夫と子どもがいたが、この計画のために惨殺されたという設定になっています。政子の庇護下にいたのでこの設定は現実味がありませんが、19歳の女性が3歳の婚約者を持つことの辛さははかりしれません。
1225年政子がなくなると、鞠子はその後継者として仏事などを主催し、御家人たちの崇拝を受けていたようです。
1230年三寅が元服し、藤原頼経となります。鞠子はやっと頼経の妻となりましたが、13歳の夫に29歳の妻は不自然でした。夫婦仲はよかったようですが、これは幼い時から一緒に育ってきたからでしょう。
結婚から4年後、鞠子は妊娠しました。しかし、当時としては高齢出産だったため、子どもは死産、本人も亡くなりました。享年33歳。
こうして頼朝の血筋は完全に絶えたのです。御家人たちは彼女の死に慟哭したといわれています。しかし、同世代の藤原定家は「平家をことごとく滅ぼした報いであろう」と日記『明月記』に記しています。これは承久の乱以降、公家社会にも介入し始めた鎌倉幕府への精一杯の嫌味でしょう。

北条氏内部の権力争いと執権独裁の確立

大切な頼朝の血筋を失い、宿敵三浦氏との対立をなんとかしようとしていた泰時でしたが、別の問題にも悩まされていました。
泰時の息子たちは若くして亡くなっており、泰時は自身の後継者を孫の経時や時頼にしたいと考えていました。しかし、この案に反対したのが、異母弟の朝時や政村でした。彼らにしてみれば経時や時頼は若造にすぎず、自分たちのほうが北条の嫡流だとの自負があったのです。
御家人たちを粛清してきた北条氏が内部で分裂し始めていたのです。この状況に目をつけたのが、将軍・藤原頼経でした。
頼経は成長するに従って、北条氏の横暴が許せなくなります。朝時が兄泰時と対立していることを知ると、頼経は自分の側に引き寄せようとします。
将軍の不穏な動きに勘付いた泰時でしたが、すでに死の病に瀕しており自分で対策するのは難しい状況でした。そこで孫の経時と時頼を病床に呼び寄せ、自分の死を利用するように命じ、そのまま亡くなりました。
祖父の死を受けて、経時と時頼は計画を実行します。朝時を出家させ、頼経には息子・頼嗣(後妻との子)に将軍職を譲らせたうえで引退させたのです。
こうして、なんとか内部分裂を避けた経時と時頼でしたが、頼嗣をなんとしても父頼経から隔離する必要にかられました。そのため、自分たちの妹・檜皮姫を頼嗣のもとに嫁がせることにします。頼経と鞠子よりはマシでしたが、7歳と16歳の婚儀はやはり異常でした。
日頃の過労のためか、1246年経時は23歳の若さで急死しました。彼の息子たちはまだ幼かったため、弟の時頼が執権となります。この好機を逃すまいと、大殿と呼ばれていた頼経は朝時の息子・光時と謀議を画策しますが、発覚し、京都に強制送還させられます。いわゆる『宮騒動』です。
こんな殺伐とした事件ばかりだったので、御所の中が針のむしろであったことは想像に難くありません。翌年檜皮姫は18歳の若さで亡くなりました。将軍頼嗣との繋ぎを失った時頼でしたが、檜皮姫の死の一月後、宝治合戦で宿敵の三浦氏を滅ぼします。
宝治合戦の後、頼嗣とも対立し、父頼経と同じように京都へ強制送還します。このかわりとして、後嵯峨上皇皇子の宗尊親王が下向し、実朝の計画はやっと実行されたのです。
時頼は執権の権力の確立に成功しました。時頼は出家・引退しましたが、依然として実権を握っていました。これは得宗専制政治の始まりとされています。
1263年時頼は亡くなります。享年37歳。
彼の息子・時宗がモンゴル襲来に立ち向かうこととなるのです。

頼朝は、自分の息子頼家に継がせたくて、異母弟の義経や範頼を粛清を実行したはずです。ですが、孫鞠子の運命を知ると、頼朝があそこまでの粛清をしなければ、鞠子も適齢期に結婚・出産し長生きできたのではないかと思ってしまいます。
日本史についてはじめてとりあげました。世界史に比べれば知らないことが多いですが、またとりあげたいです。



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