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宇都宮借家横丁の昭和史(その4):おとめさんの話

我が家の西隣に、おとめさんという人が、三人の幼い子どもたちと住んでいた。
おとめさんは九人兄弟姉妹の下から二番目で、すぐ上のお姉さんは末子という名で、妹は余根子という名前だそうだ。上の方の六人の名前は聞いていないが、おとめさんの言うには、両親は山奥の貧しい百姓であったから、もうこの辺で子どもはおしまいにしようと、末子と名付けたが、二年ほど経って女の子が産まれた。今度こそ止めようと、とめ子と名付けたが、それでも止まらず、又妹が産まれてしまったので、余りの子という意味で余根子と名付けたとか。
上の方の兄弟姉妹たちは、どうやら小学校に通っていたが、四年生までしか行かない子や、五年生までの子もいて、六年生まで行かせてもらったのは、長男と長女ぐらいだったという。下の方のおとめさんに至っては、小学校にも行かずに育ってしまったのだ。昔は義務教育とは名ばかりで、無理強いはしなかったようだ。

おとめさんは十二歳で、(現在の那須塩原市の)或る温泉旅館のお手伝いさんになった。いわゆる口減らしである。お手伝いさんといってもまだ子どもだから、廊下掃除や庭の草取り等の簡単な仕事なので、お手当は頂けず、只食べさせてもらうだけだった。
それでもおとめさんは、白い御飯がお腹一杯食べられるので嬉しかったのだ。だから子どもながらも一生懸命働いたのである。

おとめさんは、体の小さな痩せた人であった。十五歳の春、やっと女の子になったのだそうだが、現代の子のような生理用具も買えないので、T字帯に油紙を敷き、黒漉という晒さない黒い塵紙を当てただけだったという。だからお腰巻を汚してしまい、それを隠れて谷川まで洗いに行くのが大変だったという。
「昔は辛いことが沢山あったよ」と述懐する。

十六歳になった時、やっとお小遣い程度のお手当がもらえるようになった。それがとても嬉しかったのだそうだ。そして、仕事もお掃除だけではなく、野菜洗いや食器洗いなど、厨房の下働きになったのだ。これは温泉の湯と水を合わせて生暖かい水で洗うので、気持ちよく働けたという。これもワンステップの出世だったのだ。
「鬼も十八、番茶も出花」というけれど、おとめさんも十八歳になった頃から、いかにも娘らしくなったので、厨房の仕事から、次のステップのお膳運びになって、今度は客室係の先輩と同じ赤い綺麗な着物を与えられた時は、天にも昇る嬉しさだったという。
お手当も給料になって、ぐんとアップし、二月の旧正月には、故郷への外泊も許可されるようになったのだから、夢のようだったろうと思う。
綺麗な着物を着てお土産を持って、初めて帰省した時、両親は大喜びで迎えてくれたし、兄弟姉妹の中には、結婚をした者もいたが、皆集まってきて喜んでくれたとか。おとめさんの最高の思い出話である。

子どもの頃から真面目に働いてきたので、女将さんに可愛がられていた。その後も二十歳になり、二十五歳になっても働き続けていた。そのおとめさんが、なぜ我が家の西隣に、幼い三人の子どもたちと住むようになったのか、それには運命的な深いわけがあったのだ。

奉公していた旅館には、美代子さんというお嬢さんが居り、女学校に通っていた。一人っ子だったから、ゆくゆくは母親である今の女将さんの跡を継いで、若女将さんになる筈の人なのだ。毎日フロントに出て、お客様の接待を見習っていた。
日本は当時、昭和二年、陸軍大将・田中義一内閣が成立した頃から、軍国主義華やかな時代になっていった。それからの十年、資源のない日本は、海外に目を向けていった。そして、ずっと軍人の政治が続いていた。
ここ那須塩原の原野は広大な原っぱだったので、宇都宮にあった関東軍第十四師団第四十一師団の演習場であった。
大隊長、中隊長、小隊長など、位を持った職業軍人や一兵卒に至るまでの兵隊たちが、演習を終えた後、この温泉地一帯の旅館に分散して宿泊する習わしだったのだ。旅館の方は大勢の兵隊たちを受け入れるのは大変な仕事だったが、軍の申し入れを断ることはできないので、受け入れていたのだ。兵隊たちは大喜びで、演習は辛いが、その後は旅館に宿泊し、温泉に入れてご馳走が食べられることを楽しんだのだ。
楽しむ方は良いが、旅館の方は大忙しだったから、美代子さんも他のお女中にまじって、大広間にお料理運びや、お膳の用意を手伝っていた。そんな時、若い青年将校でハンサムな杉山少尉が度々宿泊した。美人の若女将とハンサムな青年将校の出会いは、当然の成り行きで恋に落ち、そして結婚した。

その頃はまだ昭和初期で、満州事変(昭和六年)や上海事件(昭和七年)はあったが、昭和十二年の日中戦争までは平和であった。
杉山少尉、美代子さん夫婦は、男の子二人、女の子一人の子宝に恵まれ、幸せ一杯であった。

ところが、ある冬の日の出来事である。
美代子さんは、子どもたちのためのちょっとした買い物だったので、気軽な気持ちで自転車に乗って街まで出かけた。買い物はいつものことであるが、この日はなかなか帰って来ないので、子どもたちは退屈していたし、女将さんもおかしいなと思い始めていた。塩原地方は、冬寒く、雪が降らなくても霜柱が立って、道が凍結して滑り易い寒冷地である。
心配していた矢先のこと、突然警察からの電話で「美代子さんが崖から落ちて大けがをし、病院に運ばれました」と言うのである。女将さんは腰を抜かすほどビックリして、茫然としてしまった。夫の杉山少尉は宇都宮の軍隊に勤務中だったので、とりあえず女将さんと一番番頭の君島さんが病院に駆けつけた。
頭を強く打っているということで、失神したままの状態であった。手や足に包帯が巻かれたり、副木があてられたりしていた。医師が申すには、「いつ気がつくかが問題で、寝たきりになるかもしれないし、何らかの後遺症は免れないでしょう」ということだった。後から駆けつけた少尉も、女将さんも、番頭さんも、変わり果てた美代子さんを見て、ただ祈るばかりだった。
美代子さんは、それから一ヵ月と三日、即ち三十四日目にやっと気づいたが、まるで記憶がなく、不思議そうに眼を開けているだけで、夫の顔を見ても言葉が出ないのである。今までの美代子さんとは別人のようになっていた。仕方なく、しばらく病院で治療することになったのだ。

その後三ヵ月で退院したが、頭痛が酷く、寝たり起きたりの生活になってしまった。
旅館は常に客を扱う商売なので、お化粧もしていない娘が、フラフラと寝巻のままで客の目に触れては困るので、北側の布団部屋を改装して寝室にし、座敷牢のようにカギをかけ、監視付きだったという。子どもたちもなるべく近づけなかったそうだ。変わり果てた母親の姿を見せたくなかったのだろうか。本当に可哀そうだ。運命のいたずらとしか言いようがない。

そこで選ばれたのが、長い間真面目に働いてきたおとめさんだった。子どもたちの世話を任されたのである。
間もなく長男が小学校に上がる時、孫の教育を宇都宮の小学校で、と女将さんが望んだので、我が家の西隣の借家に越してきたのである。父親の少尉の勤務地も宇都宮であったから、月に一回の面会日には会いに行けたのである。
しかし昭和十二年七月、日中戦争が始まり、昭和十四年九月にドイツがポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が勃発した。日本もだんだん戦時色が濃くなってきた。それに伴って物資不足で、物価統制令が施行され、白米禁止、七分付き米となり、木炭が配給制となった。
翌十五年には、米、味噌、醤油、砂糖、マッチ、塩等が切符制になった。
杉山少尉は職業軍人であったから、家庭の事情がどうであれ、中国に出兵し、次はインドシナ南部、フィリピン等に移動して戦果を挙げたので、中尉になったのである。軍人としての出世は嬉しいが、戦場で命を的にしていたのであった。おとめさんは三人の子どもの養育を任され、母親代わりであったから、戦場の父親に子どもたちの様子を知らせたいのだが、小学校にもいかなかったので、文字の読み書きが全然できなくて困っていた。

私の母がかつて小学校の教員であったことを聞きつけたおとめさんは、読み書き、計算を教えて欲しいと頼みに来た。その当時母は、小学生の勉強塾をやっていたので、快く引き受けた。でも小学生と一緒に机を並べるわけにはいかないので、特別に夜、子どもたちを寝かせてから指導してやった。おとめさんは一生懸命だったので、間もなく平仮名だけの手紙が書けるようになった。文面は皆、母が書いてやっていたのである。そのうち小学二年生ぐらいまでの漢字も書けるようになり、自信がついたのか、とても喜んで、毎日いきいきとして、三人の子どもたちを可愛がっていたので、子どもたちも良くなついて、「お母さん」と言っていた。
生活費や食料などは旅館の女将さんの仕送りだった。「お母さん」と呼ばせていたのも、女将さんの指示であったのかもしれない。

そんなある日、お正月も間近な十二月の末頃だったと記憶している。恩賜のカモだというお肉が軍隊から留守家族に贈られてきた。当時はお米でさえ統制されていたので、お肉などはどこにも売っていなかったし、何年も口にしたことは無かったのである。
おとめさんは、勉強を教えてもらっているから「半分ごっこね」と言って、持って来てくれた。この時ばかりは思いがけない御馳走に舌鼓を打ったのである。ご近所に美味しい匂いを撒き散らして申し訳ないと思いながら・・・。

その後、戦争は益々烈しくなり、昭和十七年四月、米機動部隊を乗せて空母から飛び立ったB二十五が東京と名古屋を空襲した。
宇都宮も軍都であったから、いつ空爆されるかわからない時代になったので、おとめさん一家は、女将さんが孫を心配して、塩原に帰っていった。

昭和二十年七月十二日、遂に宇都宮にB二十九・百十五機が飛来し、市街地に焼夷弾の雨を降らせて、街の五十パーセントを焼き尽くして、街は壊滅状態になった。私たちは八幡山の防空壕の中で不安に震えていた。あと一ヵ月で終戦になるところだったのに、残念な事であった。
幸い、我が家は上町だったので、焼け残ったのだが、死者五百二十一人、重軽傷者千百三十八人、被災者四万七千九百七十六人だった。

おとめさんたちは、子どもたちの危険を考えて、父親の大尉(出世していた)が帰還するまでは責任があると言って、塩原に帰っていったのは賢明だった。
昭和二十年八月六日、広島に、八月九日、長崎に原爆が投下され、何十万人の人々が亡くなった。目を覆いたくなるような悲惨な光景が新聞に報道された。
八月十五日、玉音放送があり、やっと長く苦しい戦争が終わったのである。

その後、風の便りに聞くところによると、杉山大尉は戦死を免れ、無事除隊することができたとか。
おとめさんは、子どもたちを守った功により、めでたく杉山さん(もう軍人ではなくなった)の奥さんになられたと言う。
ケガをした美代子さんは戦時中に亡くなられたそうだ。
何とも憐れな話であるが、おとめさんにとっては長年の苦労が報われ、「めでたし、めでたし」と言わせてもらいたい。

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