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未発表自伝原稿より

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母が自伝として書いた原稿のうち、出版されたのは約半分。残りの原稿をここに未発表エッセイとしてまとめる。そこには、戦前の田舎の暮らし、思春期の娘時代に体験した大戦、復興の担い手とし…
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記事一覧

肥料に手を出し解放した田畑を売り飛ばす従兄弟(昭和20年~)

「下手な考え休むに似たり」という諺があるが、これより酷い「稚拙な考え破滅に似たり」と言い…

従兄弟の復員と祖母の死(昭和20年)

昭和二十年八月、日本は広島と長崎に原爆を投下され、ポツダム宣言の受諾を余儀なくされた。 …

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宇都宮大空襲(昭和20年)

昭和二十年、私は十八歳になんなんとしていた。 勉強もろくにしなかったのであるが、本科一年…

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宇都宮借家横丁の昭和史(その4):おとめさんの話

我が家の西隣に、おとめさんという人が、三人の幼い子どもたちと住んでいた。 おとめさんは九…

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宇都宮借家横丁の昭和史(その3):言葉の丁寧な奥様の話

私の家の三軒先に、○山さんという一家が住んでいた。ご夫婦と女の子二人、男の子三人の七人家…

宇都宮借家横丁の昭和史(その2):納豆家族

「なっと、なっとー、ナット」 毎朝六時頃、朝食に間に合うように、納豆屋さんが藁苞に入った…

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宇都宮借家横丁の昭和史(その1):離婚家族の話

■宇都宮借家横丁私が小学生の頃に住んでいた町は、四条町といって、かつて釣り天井で有名な宇都宮城の城下町であった。 お城を中心にして、南北に通じた道が東から西の方向へ、一条通り、二条通り、三条通り、四条通りと、京都に倣って道をつけたのである。 その名残りが町名として残っているのである。 四条町の横道を入った所に、十軒の貸家があった。この貸家は中村源兵衛という味噌問屋の金持ちが建てたものである。この十軒の貸家には、いろいろな人が出たり入ったりして、借家住まいをしていた。 靴屋の番

学徒動員(中島飛行場)昭和19年

昭和十九年、私は十七歳、予科三年になっていた。 国内は、日一日と不安な緊張感が高まってい…

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勤労動員(農家の手伝い)昭和18年

昭和十八年、私は十六歳、師範学校予科二年生だった。 日本の戦局は厳しくなり、二月二日、ガ…

三猿主義と父の標語(昭和17年)

日光東照宮の陽明門に、「見猿、聞か猿、言わ猿」という三匹の猿の彫刻がある。 「私は何も見…

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ジフテリアに罹患した私(昭和17年)

昭和十七年二月十五日、日本の戦果はシンガポール占領で頂点に達し、大東亜戦争第一次祝賀国民…

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食糧不足と伯母の家(昭和16年)

昭和十六年、日本は日中戦争開始以来四年目である。 長引く戦争で、生活必需物資が欠乏し、配…

万燈祭と提灯行列(昭和12年前後)

小学生の頃、楽しかったことと言えば、遠足や運動会など、学校行事は勿論のこと、地域では、私…

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二・二六事件の頃(昭和11年)

二・二六事件の頃(昭和11年) 昭和十一年、私が小学校三年生の二月二十六日の事である。 父がいつもより真剣な顔で、学校から帰ってきた私に、「F子、今日は子どもは外で遊ばないで、家の中で静かに遊びなさい」と言うのである。 「どうして?」と言うと、「若い兵隊さんが暴れているから」と言うのだ。 「どこで暴れているの?」「どうして暴れているの?」 次々に聞き返す私に、父は困ったように「東京で暴れているのだけれど、宇都宮の兵隊さんも、これから暴れるかもしれないから」と言うのである。