アスペルガー&ADHD疑いの19歳が、ほぼ疑われずに擬態していた経緯【幼少期の教育って大事?】

瑆です。お久しぶりです。すごく久々に記事を上げる気がしてる。
今回は、私の過去(と言うとたいそうに聞こえるけど)について振り返って、どこでどんなことがあったかなって言うのを思い出してみたいと思います。

なお、専門的知識がゼロの人間が好き勝手言っているだけなので、苦手な方はそっと画面を閉じて頂きたく。お願いします。


幼稚園

地元の幼稚園に通っていた。
この頃から、福祉センターの集団療育に行き始める。ちなみにうちの母は、そこでできたママ友と今でも仲良くしている。
幼稚園年長では、教室に行ってすぐにカバンをロッカーに入れないといけないのに、早く来ている子たちがしている楽しそうなことに気を取られてた。母に何度「先に片づけなさい」と叱られたことか。
母親の勧めで、体操教室に3歳ごろから通っている。

小学校

療育は一旦終わり、地元の公立小学校の通常級に入学する。小1でいじめを受ける。「ランドセルが1人だけ赤(同じ班の子は青とか水色とか)」「ディズニーのスペースマウンテンに乗ったことがない」「サッカーをしていない」などなど、今から考えるとかなりくだらない内容。
小2〜3あたりで、再度療育(個人面談系)に行き始める。何かのテストを受けたりとか、先生と遊んでた覚えが。これは5回くらいで終わった気がする。
小1から習字、小4からボーイスカウトを始める。小5で体操教室を辞める(小6以上のクラスがなかったため)。
物事の捉え方が白か黒しかなかった。グレーというのがなかった。あんたは極端すぎると母に言われていた。
「○○ちゃんトイレ行こう」が理解できなかった(なお、現在もあれは意味がわからない。トイレに行きたいなら勝手に1人で行けばいいと思う)。
小学校高学年から、友達と遊ぶことが減る。小学生によくある女子グループには所属していなかった。オールラウンドに友達と付き合っていた。
小4から反抗期。これは何だかんだで高校まで続く。ここで再び個人療育に通い始める(〜小5)。
ボーイスカウトは、小5から1つ上のグループ(隊)に進級し、同時に同期がかなり減る。小5〜中2のグループの中では女子1人だったけど、周りの大人と先輩が優しかったのでやっていけた。

中学校

そのまま地元の公立中の通常級に。ソフトテニス部に入部。月1で休みがあるかないかだったので、ボーイスカウトにはなかなかいけなくなる。
中1でクラスの男子からいじめを受ける。
冗談がほぼ通じない。当時は、『それが冗談か本気か分からないから、全て本気で捉えておけば間違いない』と思っていた。これは冗談だとか、顔を見たらいいなどと説明されても理解できなかった。
中2で担任とトラブルになる(この件に関しては担任が全て悪い。頭おかしい人だった)。
9月で、人間関係が理由で部活を退部。その後は『不登校のための支援施設(実際は学校に行きづらい子のための発達支援施設)』に行き始め、個人面談と集団療育が始まる。これは中学卒業まで続く。友達がいたため、受験勉強の息抜きだった。集団療育で、女の子は私しかいなかった。当時のその施設の印象は、「発達障害っぽい子が多いな」。私のカルテの『障害等』の欄に何か文字が書いてあり、先生がさっと隠したが、特に気にも留めていなかった。
高校受験のために、塾に2月から通い始める。
中3で美術部に入部(なお、絵はほぼ描かず引退)。
高校受験は、推薦で私立一校、公立一般の前後期、私立一般を受ける。公立は前後期共に落ち、一般で受けた私立に進学することになる。
クラスメイトにアスペルガーの子がいるが、自分とは違いすぎたため、自分がそうだとは1ミリも思わなかった。
教室移動などは基本的に1人。集団で移動する意味がわからなかった。
受験のため、ボーイスカウトを休隊。

高校

公立を受験したものの落ち、第2志望の私立の女子校に進学。小中高一貫校の、内部進学と高校組との混合クラス。かるた部(百人一首)と茶道部に入部。
高1ではクラスに馴染めず(小中高一貫校に高校から入学したのもあると思う)、後半は授業以外のほとんどの時間を他クラスで過ごす。担任は私の行動に理解を示してくれ、基本的に教室以外で食べていけない昼食を、別の教室で食べることを許可してくれた。
合わない人とは距離を取ればいいということを覚え始める。
高2、3はクラスにいる時間も増えたけど、他クラスにいることも多かった。この辺りで初めて、友達と一緒に行動するようになる(グループ的)。他クラスの友人はとても多かった。8クラスあって、どこのクラスにも絶対に誰かしら知り合いがいた。他クラスの担任も、一度も出ていけとは言わなかった。職員室に行っても仲良い先生が多かったから、受験期は学年とか中高問わずいろいろな先生に質問していた。
クラスでは、基本的に怒らない温厚で人畜無害な人というものだと思う。一度だけ本気で怒った時は恐怖の目を向けられた(そらそうや)。
何か迷った時にやるかやらないかの基準が『おもしろそうかどうか』になっていく。委員会から何から、興味のあるものは割となんでもやっていた。
高2で『境界のRINNE』のED&OPからパスピエを知り、高3で初めてライブに行く。漫画とかアニメも趣味になっていく。女子校だったからか、同じ趣味の子も多く、みんなオープンにしていた気がする。
高1から数学の個別指導塾、高3の後半から友人の勧めで医療看護系予備校(英語と小論文)に通い始める。
高2から、関西圏の大学の受験を考え始め、1人でオープンキャンパスや学祭に行くことが多くなる。担任はそこらへんに詳しい人ではなかったけど(生徒のほとんどが東京の大学に行くんだから当然)、応援してくれた。
宗教校だったこともあって、哲学的な話題が好きだった。好きな科目は倫理政経(先生が推しだった)。
ちなみに受験勉強は、家では全くできず、大体は高校のカフェテリアとか、ショッピングモールのフリースペースとかでやってた。

大学(〜現在)

第1志望の大学に合格、家を出て祖父母の家で暮らし始める。
自分のクラス(看護学科)でも友人とグループ的行動を取るようになるが、部活に入ることで医学科の友人や先輩も増え、そこも大事な居場所になる。高校時代は他クラスに依存気味だったが、現在は両方バランスを取っている(看護の子といるのも楽しいから!)。学内を歩いているとほぼ必ず知っている人に会うので、看護の友人からは、「瑆って友達とか知り合いの先輩多いよね」とよく言われる。
学内の部室に入り浸るようになる。大勢の人がいたり、『ザ・大学生』という感じの人がいるところが苦手で、部室なら訪問者も限られるため。部員ははほとんどが医学科の先輩か、穏やかな感じの同期か。集団より1人、もしくは2人を好む人が多かった。みなさん勉強をしているか寝ているかで、私もそのひとり。
洋服に興味を持ち始める。音楽も、パスピエももちろん好きだが、『悲撃のヒロイン症候群』などのアイドルも好きになる。
2年で、自分の中の違和感に気づき、やっと自分に障害がある可能性があることに気づく。その後、アスペルガーとADHDという障害があるかもしれないと知る(詳細はもうちょい前の記事見てほしい。マガジンにまとめてます)。


私が割と擬態できていたと考えられる要因

・幼い頃から療育に通っていた。親が異変に気づくのが早かった。
普通、3歳の女の子の行動がおかしいと気づくだろうか?私なら、まあそんなもんでしょと気付かず見逃したりしてしまうかもしれない。特に母親が早くから何かに気づき、福祉センターに連れて行ったのが大きかった。
中学で部活に馴染めなかったのも、何か障害が関係しているのかもしれないと思っていた可能性がある(退部後から療育が始まったため)。母の察知能力にはびっくりする。

・親は何かあった時に、私のせいにしなかった。
いじめられていた時に、「あんたのせい」とは一言も言われなかった。周りはもちろん、私がコントロールできないところに関係があると思っていたのだろう。とにかく、特に母は問題解決のためにいつも全力で動いてくれた。先生に手紙書いたり、こう言ってみたら?と言ってくれたり。

・体操教室に通っていた。
『運動ができれば、クラスで下手な扱いを受けることは少なくなる』と母は考えており、マット、跳び箱、鉄棒、その他ボール系を扱う体操教室に通っていた。他にも、市が無料でやっている水泳、バドミントンなどの教室に行っていた。多分、母の一種の哲学というか価値観だったと思う。そのおかげか、運動神経だけはそこそこ(得意科目に体育と書けるくらいには)あった。
普段はおとなしい印象なのに、体育になるとアクティブになるのが、クラスメイトにとっては意外だったらしい。高校に入ってからは、クラスの中でも運動神経がいい方だった。シャトルランで最後まで残った時、応援してくれたのは嬉しかったし、今でも自信になっている。

・普通の子ならこうするということを、『普通は』というワードなしに親に嫌というほど教え込まれた。
「話をする時は人の顔を見なさい」とか、簡単なことができなかった。でもそれをかなり根気よく教えられた。ちなみにこれはまだ苦手なこと。あとこれは関係あるかわからんけど、鼻濁音が苦手で、これも教え込まれた。関東に住んでいるんやから、関西弁は使わないようにとも言われていた。

・一歩引き、普通の子を見て学習することを覚えた。
「普通はこうするんや」というのを学んだ。その結果、流行になかなかついていけないことに関しては(障害の有無関係なしに)、『聞いたことあるんやけど何やったっけ』などと、その場の話題を終わらせないように返答していた。他にも、『こういう言葉の時はほぼほぼ冗談』『この表情の時はあんまり話しかけない方がいい』『この場ではみんなこうしているし、これが暗黙の了解なんだろう』などと、本能ではなかなかわからないから、人を見て学習して合わせた。まあもちろんワンテンポ遅れるんやけど、それはそれで私らしいと思われてるっぽい。

・両親に、障害があるということを言われなかった。
最初は、何で教えてくれなかったのと思ったけど、言われてたら言われてたで、それを意識しすぎていた気がする。それが思春期真っ只中とかやったらモロに影響受けてた。ある程度自我が形成されて安定してきた今知れたことは良かったんじゃないかと思う。


結論:早期からの療育などが大切

今回は、発達障害を持つ可能性のある人が、持つ人目線で自分について振り返ってみました。
自我が安定する前に、どれだけ学習できるかとか、支援を受けられるかはかなり大事だと思う。
両親は、幼少期に私がしたいと思ったこととかを割と何でもやらせてくれた記憶があるし、母も専業主婦だったからこそ、私が学校とかで問題に直面している時に全力で動いてくれた。
元が軽かったっていうのもあるけど、療育とかである程度訓練を受けたからこそ、比較的白に近いところ(=普通の人に近いところ)で何とか生きられているのかな、とも思う。

次回は、地元に帰っていろいろ調べてみた結果を、備忘録がてらまとめてみたいと思います。

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