見出し画像

暮らしの記憶集

2023年の4月30日にわたしの運営するコーヒースタンド兼レンタルスペースはオープンした。
正確にはその数日前から無告知でオープンしていたが、4月30日にオープニングパーティーを開いたのでその日を周年としている。

それから1年後の先日。
1周年の節目として「暮らしの記憶集」を企画した。

この日見た光景は、毎朝コーヒースタンドに立つための心の糧になっている。
この日を作ったいくつかの要素に分けて書き留めておきたい。


タイトル


「暮らしの記憶集」と題したが、決めたのはもうあまり日がないときだった。
そのタイミングで知人たちが「◯◯の記憶集め」や「◯◯の記録集」といったイベントや本の収録をしていたので、もろに影響された。

しかし、言い得て妙というか、振り返るとまさにその日を表したタイトルとなったので、満足している。

黒い画用紙にチョークで書いた不恰好な文字はなんだか浮いて見えた。
「記憶は薄れてしまうよねえ、だからこそ」とチョークで書いた文字を手で擦ってぼやかしたら、しっくりきた。
まったくの偶然だが、この日のために友だちが書いてくれたうたの一節とすこし似ていた。いや、逆なのか。


写真

日々、Instagramのストーリーズに出来事を載せている。
その際に撮り溜めた膨大な写真たち。
わたし自身が記憶を探るときに写真フォルダを見返す癖がある。
建物全体をギャラリーにして、この場所に関わったひとや日常の光景を展示できたら壮観だろうなと思い立ち、すぐに現像した。
届いた写真は400枚以上。
茶の間も写真で埋め尽くそうと考えていたが、時間が足りず廊下のみとなった。
しかしそのおかげでイベント後も展示期間を数日間延長できたので、写真を見に足を運んでくれた友だちもいた。嬉しかった。

展示しきれなかった写真はコーヒースタンドのテーブルにしばらく積んでいた。
それを眺めていた友だちが、「これ、また見返したいなあ」と呟いた。
そう、わたしたちはすぐに忘れてしまうから。それくらい日々を積み重ねているから。
また、手にとってもらえる形にしておこうと思う。

いつも通りのコーヒースタンド

この場所がかつてのコミュニティスペース兼ポップアップストアを参考にして作ったように、近隣にはいくつもレンタルスペースやシェアスペースがある。
それぞれの施設が周年にどんなことを企画していたか傾向を見てみると、今までの出店者に声をかけていたり、運営者総出のおまつりみたいな企画が多かった。
参加して楽しかったし、真似しようかとも思ったが、この場所にあてはめると、なんだかしっくりこない。

おまつりというと、日本酒が合計5升寄贈され、50人以上が訪れ朝から夜まで囲炉裏で餅を焼いた新年の会。
個人的にはその企画がパワーがあり過ぎて、宴をするにもあれを超えるものはないと尻込んでいたのもある。

通りにひとが溢れる新年の会


この場所が1年間拓きつづけていたのは、日常だ。目的地にはなり得ないが、欠くことのできない日常。訪れるひとは、通りを眺めてのんびりコーヒーを飲んだり、たまたま隣り合っただれかと話す時間を楽しんでいる。
ならば特別なことはしなくていい。
コーヒースタンドに、いつも通りに立とうと思った。

ひとが撮ってくれた写真を見ると
コーヒーを淹れるわたしはだいたいうすら笑っている


いつも通りのコーヒースタンドには、
友だちやいわるゆるまちのひとだけではなく、近所のおじいちゃんや、常連のお客さんもいつも通りに来てくれた。
1周年なんです、ありがとうございますと伝えると、祝いの言葉をかけてくれたり、廊下の写真展示見たり、ライブも楽しんでいってくれた。

ライブ

いつものコーヒースタンド、日常とはいえ。
それでも力を借りたのは、借りたかったのは。
ここでの「いつもの日常」の空気感を知り、そして誰よりもコーヒースタンドに立つわたしの背中を見守ってくれているふたり。
彼と、彼女。
わたしが、この場所が、なにを大切にしているかを理解してくれているふたりだからこそお願いできた、うた。
いつもの日常に、決して派手でなくていい、優しい祝いの空気を添えてくれるうた。

温かい空気とともに茶の間からコーヒースタンドへ、ゆるやかに通り抜けるギターの弾き語りと歌声。
音で感じる淀みのない空気の流れ。

初めは、茶の間にひとが滞留してしまうから、入れ替えるための3部制のつもりではあったけど、要らぬ心配だった。澱と感じるものは一切なかった。

彼には、「ライブをしたらいいと思うの」
とオファーだかなんだかわからないお願いを、
彼女には「あなたはここでライブをします」ともはや選択肢は与えないお願いをした。

それでも二つ返事で快く応えてくれたふたりには感謝しかない。

1部と2部は、わたしはコーヒースタンドでコーヒーを淹れながらときおり聞こえてくる歌声に耳を澄ませて、ときに玄関からその姿を見ていた。ここが特等席だった。

この日も彼らが関わる若者支援NPOに勤める友だちが、いつも通りコーヒーを飲みがてらミーティングをしに訪れた。
とは言いつつも、仲間の姿を見に来たのだろう。廊下から覗いてごらんと促した。
うたを歌っていた彼は予期せぬ同僚たちの姿に動揺して一瞬止まったがなんとか持ち直していた。微笑ましい瞬間だった。

彼らとは友だちベースで関わっているので、和若者支援のNPOと施設として連携パートナーでもないし、契約もなにもない。
彼らにとってこの場所が「いちばん近くていちばん優しい社会でありたい」とわたしが勝手に謳うのみだ。
ただ近所というだけで育まれた関係性だろうか、きっとそうじゃない。
ここに至るまで確かな意志があったはず、そうよねえ。


うたを歌ってくれた彼女はだれに連れられることなく、この場所には自分の意志で訪れた。
その前に、別の場所のイベントの手伝いをしていた彼女を見かけていた。
あなた〇〇ちゃんでしょう、と声をかけると驚いた姿を今も覚えている。
それが、彼女とこの場所の出会いだった。

そんなことを思い出しながら、周年の後日、お礼のメッセージを送った。
返信に彼女の想いが込められていて、すこし泣いた。そうしたらあなたも1歳になったんだねえ。
甘過ぎずすこし低音で優しく伸びやかな歌声は彼女そのものだと思った。

花を贈られていた。
彼女もよく花を贈る。


3部はコーヒースタンドをしめて、わたしも観客としてうたを聞いた。
最初は正面を陣取っていたが、あとから増えるお客さんに席を譲っていたらいつの間にか廊下にいた。


講演などでこの場所について話すとき、冒頭でこうに言っている。

「玄関からすっと長く伸びるつやつやな廊下を見たときに、ここはひとが集まる場所だなと思ったんです。だからこの場所を開こうと思いました」

あのとき頭に思い浮かんでいた景色は今日だったんだなと思った。思い出した?

彼は手作りのうたを贈ってくれた。
わたしと、わたしの背中越しに見たこの場所に。
きっとあのときのわたしの顔は人に見せられたものではないから、廊下にいてよかった。
うただけではなく、忙しい日々のなかでうたを作ってくれた時間も、後日綴ってくれた言葉も、かけがえのない宝物だ。

饗宴、狂宴

最後のライブが終わったあと。
場所だけ空けておいて、サプライズで打ち上げするから、と友だちに伝えられていた。
もはやサプライズだかなんだかわからないが、だれが来るかはわからないので、楽しみにしていた。

なんだか、すごかった。
食べ物、お酒、お酒。


日常を彩るいつもの顔、見守ってくれているひと、なにもなかったときに、この場所を作ってくれたひと。
嬉しかったなあ。報告もできた。立ち続けてよかった。

狂宴と言っても過言ではないぐっちゃぐちゃさだったけども!!笑

おはようから始まる朝、穏やかな昼下がり、カオスな夜の宴。
どれもここでは日常だけど、それを詰め込んだ1日はまたとない。

翌日も、いつも通りコーヒースタンドに立ち、2年めが始まった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?