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パートナー

付き合って1年のパートナーがいる。
ビジネスパートナーのような、家族のような。

知人に紹介されて彼に初めて会ったとき、直感的にたくさんの可能性を感じた。
それでも暗く怖い印象だったので、日が暮れる前に別れていた。
少しずつ距離を縮め、彼の本来もつ佇まいは残したまま、磨き上げられるところは磨き、光を当てた。

始めのほうはずっとふたりで過ごした。
しかし月日が経つにつれ、そこにひとが集うようになり、いつしか、わたしは外の世界で過ごす時間が多くなった。

それでも彼は集うひとたちをずっと見守り続け、さらにはよく働いてくれた。

齢70にして老体に鞭を打つとは思わなかっただろう。




だめだめ恥ずかしい。

そう、これはわたしの職場であり住まい(一応非公表)の築70年の古民家のはなし。

最初は真っ暗で、かびてて、錆びてて、怖かった。
それが今、ここに来ればだれかがいるだろうとひとが集う、光が差し込み新鮮な空気が流れる場所になった。

と、思っている。

運営を始めてもうすぐ1年が経つ。
この場所にもログが貯まってきて、見学や初めて訪れるお客さんにストーリーを話すことがある。

見学が3件立て続いた日があった。
その3人とも言っていた。
あなたに会いにきているひとは多いでしょうね、と。

そう、わたしの運営方法はまずファン化なのだ。
だが、それでいいのだろうかと、嬉しさと同じかそれより比重の重い焦りも感じる。

この場所を作っているときから公言していること。
わたしはこの場所を離れたい。だからこの場所を育てる。
離れたい理由は、決してこの場所がいらなくなったとか、ただの不労所得として見ているとかでは決してない。


ひとと関わることで仕事や暮らしを豊かにした。まちの外へ出ることで、冒険のような日々過ごし、人生が彩られた。
縁が深くなった人と遠く離れても定期的な交流があり、ひとや物資や経済の循環が生まれている。
まちに出るように、さらにはまちの外へ出て、両腕に収まりきらないくらいのおみやげやひととの繋がりを持って帰ってくるために、離れたい。

それにわたしにはやりたいことが山のようにあってしょうがないのだ。

古道具や世界の道具のセレクトショップもやりたい。
セレクトショップでもありカフェ。小さくていい。
グラスやカップ、皿にカトラリーやクロス。
実際に料理が盛られて、その道具たちを手にして使う。
気に入ったものはそのまま購入できる。
道具は使ってこそ。
家に帰ったらその日のうちにご馳走を作りたくなる道具や、テーブルに並ぶようなお皿を。そんなコンセプトの店があったらいいなあと思う。
だから、自分で作りたい。


こども食堂もやりたい。
掬い上げるのは、こどもだけ、貧困だけではない。
孤独や、社会との繋がり。
この場所でよく見る、所狭しと並んだ料理かならぶ食卓を大勢で囲む光景。
そこに、まだ見ぬだれかが少しずつ混ざって、ゆるりと繋がっていって欲しい。


なにより、ひとつの場所に囚われるときっとわたしのパーソナリティは死んでしまう。
いろいろ書いたが、これがなによりの理由かもしれない。

今までの1年間は、この場所を拓き、命を吹き込んでいくことにとにかく邁進した。

次の1年間は、わたしが帰ってくるまで大切にしてもらえるように、この場所を開き続けられるように、どうやったらそれが叶えられるか模索して、挑戦をする。


まだまだこれから。

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