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about me|幼少期に駐在に帯同して③<日本(本帰国)編>

こんにちは、claraです。

自己紹介でさらっと書いてしまった私の子供時代についてもう少し掘り下げて3本の記事(香港編・イギリス編・日本(本帰国)編)に分けて書いていこうと思います。

今回は日本(本帰国)編。

2歳のときに日本を離れてから早12年。
私の高校受験・妹の中学受験を機に母子で先に本帰国しました。
日本のドラマ・映画の中で見ていた憧れの高校生活を夢見て「やっと日本に帰ることができる!」と私はうれしくてたまらなかったのに対して妹は本帰国をすごく嫌がっていたことを今でもよく覚えています。

私のうれしくたまらなかった時期も束の間、日本に帰国して高校・大学・就職を経験してものすごいカルチャーショックを受けました。「私は日本人として育ったはずなのに私は日本人ではない…?」「私は何者なのだろう?」という質問を何回も何回も自分に投げかけ、長い間アイデンティティー・クライシス(Identity Crisis)に悩まされました。

少し大げさかもしれないですが、大学時代のゼミの仲間との出会い、そして社会人になってからの夫との出会いが後の私を救ってくれました。

ここから先は4つのトピックを掻い摘んで書いていきます:



高校受験

地元中学への編入

帰国してから私と妹はそれぞれ地元の区立中学校と小学校に「転校生」として編入しました。

私も妹も一時帰国をしている間に「体験入学」をしたことはありましたが、しっかりと日本の学校に通うことはもちろんはじめてでした。私は中学3年生、妹は小学6年生のクラスに編入したので受験前ですでに部活動は終盤を迎え、クラスのお友達グループは出来上がっており、編入するには複雑な時期でした。

当時私は「学校のいじめによる自殺」に関する日本のニュースをたくさん見ていたので、私はいじめられるのが怖くてしょうがなかったです。このころから私はいじめられないように、出る杭と思われないように、変わっていると思われないように「自分の本音」を隠すようになりました。そしていつしか「自分」がよくわからなくなってしまいました。

私も妹が編入した学校は帰国子女を受け入れる実績があったため、その近くに住むことを決めたと後に両親から聞いています。編入当初「イギリスから来たの?」「イギリスってどんなところ?」「何か英語しゃべって!」とクラスの子から私の経験に興味を持っていただけたのはすでに「帰国子女」が学年に何人かいた環境に恵まれたからだろうと今ではわかります。

私は受験の時期的に部活には所属しませんでしたが、クラスの学級委員の子やクラスの子たちにいろいろと教えてもらいながら、おかげさまで楽しい中学校生活を送ることができました。

だいぶ仲良くなってから学級委員の子に「最初に会ったとき日本語のイントネーションがちょっと変わってるなって思ったよ」と言われて驚いた記憶が鮮明に残っています。ずっと「日本人」として生きてきた・ずっと「日本語」を話してきたはずなのになぜ…?このころから「自分は何者なのか?」ということを考えはじめた気がします。

受験勉強(国語・数学)

帰国してから私は急に「帰国子女」と呼ばれるようになりました。
高校も「帰国子女枠」で受験しました。

某受験塾に通い、怒涛の受験勉強がはじまり、周りとの遅れを取り戻すために必死に勉強し、本当に大変な1年間でした。

入塾テストが終わってから臨んだ数学の授業のはじめのテストで出題されていたルート(√)の計算問題が未習のためわからず、手を挙げて「ルートの計算がわかりません」という質問をしたら先生に「そんなこともわからないのか」と鼻で笑われ、クラス中からクスクスを笑いが起こっていたこと、今でも忘れません。ものすごく恥ずかしくて、ものすごく悲しかったです。そのとき、「先生も周りの生徒も全員ぎゃふんと言わせるくらいの学校に絶対に合格してやる!」、と私の闘志に火がつきました。

受験勉強(英語)

日本に帰国すると英語を話す機会がぐっと減り、油断しているとみるみる英語力が落ちていくことが分かりました。洋書を読んだり、妹との会話を英語にしてみたり、少しでも維持できるように努めていました。

入塾テストの結果、英語の勉強は受験塾の一番上のクラスで学習し、ひとまずは日本の「受験英語」に慣れることに徹してました。

その他

「帰国子女受験」はなかなか特殊な受験方法だったのではないかと思います。学校によっては現地校の成績を日本語に翻訳して提出することが求められ、現地校の成績の提出と面接で受験ができてしまう学校もありました。

現地校の成績や担任の先生からの推薦状の手配等現地側で必要な書類は当時まだイギリスにいた父に、願書の作成は母に、本当にたくさん手伝ってもらって、自分一人では絶対に乗り越えられなかったと思っています。あの頃も今も両親には本当に感謝しています。

無事高校受験が終了し、某有名女子高校に進学することになりました。最終的に私が通った学習塾の校舎で唯一、某女子高校に合格し、先生や周りには認めてもらえたのかなと思っています。

高校時代

学校生活

受験を終え、待ちに待った高校生活、楽しいときもありましたが、思っていたよりも勉強が辛かったです。全国の秀才たちが集まる某有名女子高校に通うことを決めたこともあり、ここでも私は勉強に追いつくことに苦労しました。

高校の成績で大学の進学先の学部が決まることから勉強も手を抜かないことに必死でした。途中から個別の学習塾に通っていました。私の学校は「帰国子女」を「若干名」しか募集していなかったため、学年に自分と同じ「帰国子女」も本当に数人しかいませんでした。

高校でもカルチャー・ショックを受け、自分に自信をなくすこともありました(自分の中では高校時代は暗黒期だと思っています)が、それでも大好きなオーケストラ活動を続けられたり、生涯の親友に出会えたり、悪いことばかりではなかったです。

大学時代

ゼミ仲間との出会い

大学に進学してからも私はオーケストラ部での活動を続けていました。
サークルでは1年生時に京都・福岡への国内演奏旅行があったり、3年生時にヨーロッパへの海外演奏旅行があったりと1、2年生時私は海外演奏旅行を目指してサークル活動に力を入れてしました。

私の大学の経済学部生は3年生になってからゼミ活動がはじまるのですが、そのとき転機が訪れます。

普通のゼミ(研究会)とは別に「英語で経済学を学ぶゼミ」があり、どちらにも所属したいという気持ちが芽生えます。でも週3回練習があるオーケストラと両立できる自信がない、どうしよう…と悩んでいる私に母から一言「一旦、オケを休部してみたら?」と提案されました。

最初私は「そんなこと絶対しない!」とだいぶ反発しましたが、最終的には学業を優先することを決め、3年生と4年生の途中まで休部することにしました(3年生時の海外演奏旅行にも行きませんでした)。今思うとあのときの母の一言に本当に救われたと思っています。

英語のゼミには私と同じような帰国子女がたくさんいてみんなと一緒にいて話すことが楽しくてしょうがなかったです。本帰国時から強くを思っていた「自分の本音」をもう隠す必要がないんだという解放感からか、母は英語ゼミに入ってからの私は「水を得た魚」のようだと言われていました笑

大学3、4年生は本当に英語のゼミの仲間に出会えて本当に救われました。

社会人時代

夫との出会い

社会人になってから夫と出会いました。

2つ年上の夫は私と同じ帰国子女(幼少期に10年ほどアメリカ東海岸に在住)で社会人になる前に一人で世界一周旅行をしたという経験の持ち主でした。たまたま彼とは大学も一緒で、話しはじめてすぐに私は「このひとの話面白いな」と思いました。夫自身も私が「自分と似ている」と感じたと言い、すぐに意気投合しました。

住んでいた国は違えど、私がイギリス、彼がアメリカに住んでいた時期が被っていたので「あれ知ってる?これアメリカで流行ってた?」という話のネタで会話が盛り上がったことを今でもよく覚えています。

しばらく友人関係であった夫とは後に結婚します。長男妊娠中にはじまった単身赴任期間を経て、新型コロナ感染症が落ち着いたころに私は長男を連れて夫の駐在先のアメリカ西海岸へと渡ることになります。


日本(本帰国)編いかがでしたでしょうか。

香港編・イギリス編・日本(本帰国)編を通して私のことが少しでも伝わっていたらなと思います。

みなさまにこちらの記事を少しでもお楽しみいただけたら幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございます♡




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