ぴちょぴちょ神社
とても神秘的な体験ができる神社がある。
新潟県の弥彦山に鎮座する彌彦神社をご存知だろうか。古くは万葉集にも歌われた霊験あらたかな神社である。
御神体は神仏の遣いである雨照大猪(あまてらすおおいのしし)様である。猪突猛進と言われる素早い動きや、水浴びは嫌いだがなぜか泳ぐことができるその尋常ならざる能力に、昔の人々はなにか特別なものを感じたのであろう。
この神社の御神廟には、世界でたったひとつの由緒ある水たまりが祀られている。不思議なことに、その水たまりの周りだけ常に天気は雨上がりで、雨どいを伝う雨垂れがぴちょぴちょ音を立てることから「肥猪肥猪(ぴちょぴちょ)神社と呼ばれるようになった。
ある夏の終わりに、肥猪肥猪神社に参拝する男があった。弥彦公園から神社へと続く森の中をまさに猪突猛進の勢いで駆け登っていく。
この神社の参拝方法はおおむね彌彦神社に倣っている。参拝の前に「手水」をとって手と口を清めること、二礼四拍手一礼するところまでは同じだが、ひとつだけ大きく異なる作法がある。
一礼の後、水たまりに裸足で入りぴちょぴちょ音を立てるのだ。すると生涯に渡って童心に戻り、一切の煩悩苦から自由になれると言われている。
ただし難点もある。一度水たまりに入ると、ぬかるみに足を取られてしまい、そこから抜け出すことができないのである。
当人は永遠に童心でいられるが故に、水たまりの上でぴちょぴちょ飛び跳ね喜んでいるだけであるからまったく問題がない。
けれども地元の人間からは神隠しの神社と畏れられ、めったに参拝する者もいなかった。
男はそのことを知ってか知らずか、二礼四拍手一礼をするやいなや、素足で水たまりに入り、ぴちょぴちょ飛沫をあげ始めた。
雨垂れの音とも相まって、ぴちょぴちょ、ぴちょぴちょ、ぴちょぴちょ、ぴちょぴちょ、ぴちょぴちょ、という響きが木霊のように神社境内を駆け巡る。
すると思い詰めた男の表情がみるみるうちに明るくなり、きゃっきゃと戯れの笑い声をあげるようになったではないか。
そうしてぬかるみに嵌ったまま1年が経ち、3年が経ち、丸5年が経ったある夏の日、男は相も変わらずぴちょぴちょぴちょしながらも子ども心にこう思った。
(そろそろ飽きてきたな……。)
ちょうど夕暮れどきに差しかかる時分だった。その日は奇しくも100年に一度、水たまりの上に虹が架かるという大吉日である。
虹が出現する日、東の空に雨のカーテンが現れると、夕陽の光が反射して水たまりは水鏡となる。
そこに姿を映した者は、この世において本当に希んでいることを思い出し、それを叶えた自分の姿を水鏡に見ることができるのである。
ぴちょぴちょに飽きた男は、試しに自分の顔を水鏡に映して見ることにした。するとトランペッターとなり音楽を通じて生きる歓びを伝える自分の様子が、まるで映画のようにドラマチックに上映されていった。
そこには童心を失うことなく、自らの夢を実現させるために大人として成熟していく男の姿が映し出されていた。
(ああ、もしこんな現実が体験できたら、どんなによいことか。)
今のままでは夢を目に見ることはできるが、実際に手にすることはできない。永遠にぴちょぴちょぴちょぴちょしているだけである。
(ああ、もしこんな現実が体験できると知っていたら、ぴちょぴちょしていないがなあ。)
男がそう思った途端、水鏡の中から突然、雨照大猪が飛び出してこう言った。
「今、なんと思ったのじゃ、お主は?」
「はい、はじめから夢を実現できるとわかっていたら、夢に生きていただろうと思いました」
「いいことを教えてやろう、この水鏡に映ったことは現実となる」
「へえ、しかしわたしはこれからも一生ぴちょぴちょぴちょぴちょと、楽しく夢を見ているだけでございます」
「戻りたければ戻ることはできる」
「へえ、戻れますか」
「虹が消えぬうちに登るがよい」
そう告げるや否や、あっという間に雨照大猪は虹に向かって猪突猛進し消えてしまった。
残された男は、いつの間にか水たまりが乾き始め、ぬかるみに取られた足が、自由になっていることに気づいた。と同時に虹が少しずつ消え始めていた。
その後、男がどうしたかは知る由もないが、雨上がりになると、トランペットの高らかなファンファーレが弥彦山から決まって聴こえてくるとの報告が、2050年現在の弥彦市(合併前の旧・弥彦村)役所に住民から寄せられているとのことである。
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