倫理なき魔術の話

ハローハローこんにちわ!

魔術師が学ぶべきことは大きく分けて三つあると言われています。

一つは、自然哲学。
自然の中にある法則や性質の特徴を学ぶこと。
ぶっちゃけていえば、今“存在するモノ“に関する知識を学ぶことです。

一つは、数学哲学。
古くは、特に天体の動きに注目して色々やってきていますが、物事の動きや変化に関して学ぶことです。
これも簡単に言ってしまえば、過去と未来に起こる変化を予測するための知識を学ぶことに当たります。

そして最後は、神学哲学。
これは宗教の教えを通して、心の健全さや強さを育み、自分以外の存在とのとの調和を学ぶことに相当します。

要するに、モノの性質を学び(自然哲学)、どんな風に働きかければどのように変化するかを学び(数学哲学)、・・・神学哲学どこで利用するんや???

さて、神学哲学を学んでおく必要があるのは何でかなという話。

神学哲学無き魔術

例えば、無から金を生み出す魔術として、無在庫転売が挙げられます。

これは、要するに転売、売り手と買い手の間の関係に無理やり割り込んで手数料を掠め取る手法なわけですが、
無在庫転売は、買い手からの注文が入って初めて売り手から商品を購入して入荷し、買い手に渡すというやり方です。

すごいですよね。
在庫がない状態から、手数料分の金が生まれてます。

これは、商品に関する知識(自然哲学)と、販売に関する知識(数学哲学)によって取り行われる一種の魔術と見做すことができます。

本来だったら不必要な転売屋の介入は、市場を侵す毒であることは多くの方が指摘する通りです。

例えば、他人を魅了する魔術として、インフルエンサーは動画やらオンラインサロンやらを介して言葉を投げかけます。

これも、視聴者に関する知識(自然哲学)と、彼らの行動に関する知識(数学哲学)の賜物です。

しかし、これらの魔術は過剰に行使した結果、身を滅ぼしてる例をちょくちょく見かけますよね。

これらは、魔術の副作用ですよ〜と言ってしまえばそれまでなのですが、
術師がその副作用を予見し、理解していなかったのであれば、
誤った魔術の行使であったというべきじゃないでしょうか?

さて、これらの魔術に足りなかったものは、節制だったり、理性だったりするわけですが、
そういうのをひっくるめて、倫理無き魔術であったからだと考えています。

りんりんりりんりんりんりりんりん

日本人は宗教を連想させる言葉が割と嫌いな人が多いので、「倫理」という表現に置き換えてみようと思いました。

さて、倫理ってのは結局何なのかという話になるわけですが、
自分が他人と社会と自然との関わる中での調和を取るための知識って認識です。

要するに、魔術を通じて欲しい結果はコレ、という場合に、
その適正な量や結果の強さはどれくらいなのかを推し量るのが、
魔術における「倫理」の役割になります。

自分の性癖やら欲求やらをコントロールするのは大事なわけですよ。

芋がたくさん欲しいからって、世界中を芋畑にすると生態系がぶっ壊れたりもするわけです。
水を飲みたいと言ってる人にしこたま水を飲ませると溺死するわけですよ。

宗教の共同体を健全に運行するための枠組みとしての役割は大きかったと思うんですよね。
現代になると、そう言った部分が形骸化してきていたり、時代にそぐわない形になってきていたりもするわけじゃないですか。

そんでもって、現代日本だと、宗教の影響力が弱いのに、学校の倫理教育もなぁなぁだなという印象。
そうなってくると、他人と倫理観を共有できず、バランス取りに失敗することも多くなるんじゃないかなぁという。

知識があっても、倫理が無いとどうしようもないわけですね。

やっぱり、神学哲学って大事だったんだなぁというのを改めて感じる夏の夕方なのでした。

それではまた!

アディオス=アミーゴ!!

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