適切な適量
ハローハローこんにちわ!
前回は魔術に必要な三つの学問に神学哲学が存在すること、
その役割は、関係性における適量を推し量ることにあるんじゃないか
という話をしました。
ところで、その「適量」は一体どうやって導出されるのでしょうか?
論理と教義
「適量」の基準は、主に二つの要因で決定されると考えていいかと思います。
一つは論理。
自ら考えて計算と予測、あるいは経験則によって導き出す適量。
一つは教義。
自分以外の論理に基づいて導き出す適量。
さて、例えばケンカを仲裁する場合。
あなたの裁量で仲裁をするなら、論理によって適量の裁きを下すことになるでしょう。
法律によって仲裁するなら、教義によって適量の裁きを下すことになるでしょう。
まぁこういう結論を決定するまでの過程的な部分は、どうでもいいっちゃ良いわけですが、
万事うまくいくはずの「適量」が、うまくいかず「適量ではない」場合には問題になってきます。
何を訳のわからないことを・・・と考える人がいるかもしれませんが、
上記の「適量」とは、
A:目的を達成するために適切だと思う量
B:目的を達成するために実際に適切な量
とが混在した表現となっています。
それを踏まえて、もう一度先程の文章を組み立て直すと以下のようになります。
万事うまくいくはずの「A適量」が、うまくいかず「B適量ではない」場合。
つまり、あなたが適量だと思っていた量が、実際には適量ではないということが起こりうる訳ですね。
どんな状態か想像がつかないぞという人は、
実際の状態を無視して、ルール(教義)通りのことを要求される状態を思い浮かべてもらえばいいかと思います。
正義感でぶん殴ってくるタイプの人たちは、適量を間違っているにもかかわらず、うまくいっていないことに気づいていない状態にあると考えられる訳です。
これは、要するに、
何かを実行するに際して、
そこに影響する要素の何かが、
あなたの前提としている条件と異なっている
ために発生します。
こうなった場合には、どうすれば良いのか?
答えは明白ですよね?
前提と異なっている部分を修正するなり考慮に入れるなりして
改めて適量を考えれば良い訳です。
しかしながら、そこにたどり着けないパターンも当然あるわけで・・・。
理解と信仰
辿り着けるかどうかに大きな影響を与える要素が、理解しているか、信じているか、の違いですね。
理解しているということは、異なっている条件にも気付きやすいですよね。
信じている場合には、異なっている条件であっても「正しい」の範疇であると誤認してしまう傾向が強まります。
適量を信じている状態というのは、目的と手段が逆転してしまっている状態です。
本来ならば、何らかの目的のための「適量」なのですが、
「適量」にすることを目的にしてしまっている訳ですね。
そして、ここに先程の「論理」と「教義」とを組み合わせてみましょう。
論理を理解している人。
一つ一つ条件を確認していくことで、異常を検出することができる。
臨機応変に行動できるということ。
論理を信じている人。
自論大好きすぎ人間。
異常の検出に時間がかかったり、それを認めることができないこともある。
自分との戦いだ!
自分の決断で素早く行動できる人。
教義を理解している人。
異常があることに気づくことはできるけど、どうすればいいのかはわからない。
試行錯誤で正解に辿り着けるように頑張って。
社交的で常識的な人。
教義を信じている人。
異常があることに気づかず、壊れたレコードのように同じことを繰り返す人。
真面目で融通の効かない人。
適切な適量が必要だということ
さて、魔術とは目的のために適切な結果を生み出す原因を用意する技術です。
適切に用意された原因は様々な過程を経て、残念ながら様々な結果を生み出してしまいます。
その様々な結果を「目的とする結果」のみに収束させる必要があります。
そのために必要な要素の一つが「適量」です。
つまり、目的のために適切な結果を生み出す「適量」の原因を用意する必要がある訳です。
しかしながら、あなたと私は全く別の人間であるため、同じ原因を用意したとしても、それが作用する過程が異なる可能性は十分にあります。
その場合、「同じ結果」を必然的に生み出すためには異なる「適量の原因」を用意する必要があるわけです。
単純な物理の実験であっても、ハワイで行うのと、エベレストの山頂で行うのとでは異なる結果が得られる訳です。
でも、全体で働く法則(数学哲学)は同じですから、同じ結果を得ようとするならばその環境(自然哲学)を十分に把握し、適切な規模(神学哲学)で実験をすればいい訳です。
教科書通りの実験手順を踏んでも、暗黙の条件(例えば、地球上で行うこと!等)が異なっていれば、教科書通りの結果にはならん訳ですね。
狂える倫理主義者
ぶっちゃけた話、理解型タイプと理解型タイプとでは話ができる訳ですが、
理解型タイプと信仰型タイプとでは、話が成立しません。
信仰型タイプと信仰型タイプは同じものを信仰してると話ができますが、そうでない場合は戦争ですよね。
特に教義を信仰しているタイプは勉学の場においては最悪なので、学舎に入れてはいけないわけです。
その教義がなぜ存在しているのか、
なぜ正しいとされているのかを十分に考えて理解し、
現実にも目を向けよう?
情報を鵜呑みにせず、
最低限自分なりに理解しようとするポーズくらいは取ろう?
それではまた!
アディオス=アミーゴ!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?