四元素と五行は使いよう

今回の話の起点は、四元素と五行だよ。

予め断っておくと、僕はほとんど西洋系思想専門だから、東洋系の話はふんわりとしか理解してないよ。

四元素って何?

ざっくり言ってしまえば、自然界の物質の特徴を4種に分けたものだよ。
世の中のものは全て四元素の組み合わせで成り立ってるとする考え方だよ。

五行って何?

ざっくり言ってしまえば、自然界の現象の特徴を5種に分けたものだよ。
世の中の出来事は五行で表現できるって考え方だよ。

・・・いや、似たようなことやってるけど2つは別モンだってこと、分かりますかね?

何が違うの?

四元素→物質の性質
五行→現象の性質

ぶっちゃけていってしまえば、
四元素は、物質の分類をするための概念です。
五行は、現象を分類するための概念です。

英語でに直すと、もうちょっと分かりやすいですね

四元素:Four Elements
五行:Five Phases

エレメンツっていうのは要素や構成成分のことですね。

まぁ、日本語でも「元素」って訳が当てられてるように、
一番シンプルで単純なもの、みたいな感じですかね。

フェーズって位相とか変化段階の事ですよね。

五行は確か各要素の循環がキーワードになっているので、
ある局面の様子、くらいのニュアンスでしょうか。

僕個人の話で恐縮なんですが、英訳を見た瞬間に、個人的にめちゃくちゃ引っかかってた、
「相生は互いに高め合う関係、相剋は互いに剋し合う関係」
とかいう説明がクソだなってことに気づきました。

それぞれ、
「相(フェーズ)を生み出す関係、相(フェーズ)を剋す関係」
を指すと考え流方が自然っぽくない?

相の構成する部首に目が入ってるから、視覚情報に関する文字だったのは割と明らかなんだよな?

どこ起因の違いなんだよな?

四元素の考え方は、ある「現象」に対してその「原因」が何処にあるかってのを考えています。
何故「現象」が発生するかが大切だからです。

一方で五行の考え方は、「現象」の原因には特に興味を示していません。
原因がなんだろうと、そこで起こってる「現象」の性質の方が重要だからです。

すると、

四元素ベースで問題解決に臨むなら、「原因を探って対処する」ことになり、
五行ベースで問題解決に臨むなら、「現象の性質に合わせて対処する」ことになります。

四元素ベースの方が理知的対処に、
五行ベースの方が感覚的な対処になるわけですね。

この違いって、四元素と五行に限らないですよね。

西洋思想と東洋思想

例えば、西洋思想と東洋思想の特徴といえば、征服か調和かという視点で語られることが多いかなと思います。

西洋思想は、観測した現象の原因を探って対処し征服するのに対して、
東洋思想は、体感した現象に応じて調和する

って感じでしょうか?

個人的には、根はもうちょっと深いところにあるような気がしています。

西洋思想:主観と客観の分離
東洋思想:主観の共有

西洋思想に触れていて感じるのは、自分は自分、相手は相手という感じに完全に分けて考えているなと言うところです。
そうすると、他人とは基本的には分かり合えないので、できるだけロジカルに物事を考えて共有していく路線になります。
そうして、誰でも再現可能にするために「原因」に手を加えて「現象」を操作することが重要視されている節があります。
どちらかといえば、分かりやすさのために細かな例外は除外して考える、デジタルな考え方をしている感じ。

自分は他人と違う、人間と自然は違う、比較して区別することを通じて、
普遍的なルールは何かということを探ろうとしてきたんだろうなと思います。

一方の東洋思想は、主観と客観の境界が曖昧です。
自分も他人も、人間も自然も一つのシステムの中で共存してる同じ仲間だぞと。
だから、自分が感じている「現象」は他人と共有可能だと考えてる節があり、
その「現象」を得るためのガイドラインが非常に良く整備されているように思います。
また、同じ仲間だと認識してるためか、他を害することは、良しとはされない傾向が強いなと。
その対象が無生物であっても、です。
そうやって、他者との、自然との「現象」の共感を通じて、
普遍的なシステムとの一体化を図ろうとしてきたんだろうなと感じています。
どちらかといえば、細かな例外を含めてありのままの現象を受容するアナログな考え方をしている感じ。

キリスト教の枢要徳といえば、思慮、不屈、節制、正義という、自分を律する方向性ですが、
儒教の五徳は仁・儀・礼・智の四端に信を加えたものですから、他者との関わり方に重点が置かれてますよね。

なんでそんな違いが・・・

なんでこんなに違ってくるのかといえば、おそらくは東洋が閉じたコミュニティとして発展してきたからじゃないかなと思うんですよね。

共感主義ということは、前提条件を共有しているからそこを論じる必要が無いんですよね。

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すると、この共感主義を前面に押し出してくるコミュニティは、大体同じ環境、境遇の人で構成されてる可能性が高いです。
それは、文化的な交流が活発に行われておらず、異邦人が少ないということでもあります。

歴史的には、それなりに人が住んで繁殖しやすい環境といえば、良い感じの気候帯の住みやすい沿岸部が中心になってきます。
それなりの人が生きるためには農業や牧畜をしないといけませんし、険しい山脈があったりヤバイ気候、砂漠とかはNGなわけですね。

そうやって考えてみると、中国文明〜インダス文明エリアと、ギリシャ〜ローマ文明エリア、オリエント文明エリアあたりでコミュニティが形成されがちな感じになるでしょうか。

中国、インドあたりは比較的広い平原が手に入る都合、農耕も牧畜も簡単にできて自給自足が可能なエリアなんだと思いますが、
ヨーロッパやアラブは、そこまで広い一等地が手に入らない都合、トレードを駆使してリソース不足を補わなないといけなかっただろうことが推測できます。

地形と気候区分を見て比較してみると、

画像2

中国、インドあたりは住みやすそうな地形と気候が揃っているエリアがかなり広いのに対して、

画像3

ヨーロッパ、アラブは地形か気候かのトレードオフがあったりしますからね。

古代国家の興亡を地図上で眺めてみても、

中国はちょくちょく統一されたり安定感が強いのに、ヨーロッパは全然ですからね。
バックボーンの違う人たちとちょくちょく交流しないと(政治的に)生きていけない世界でもあったわけですね。

好立地の多いカタンは自給自足のソロゲーになって、クソ立地だらけのカタンは交易ゲーになるってわけです。
俺は詳しいんだ。

そうすると、必然的に
他のコミュニティと積極的に関わっていく必要が生まれてくる西洋、
そんな必要も特にない東洋
という対比が浮かび上がってきます。

交流するコミュニティの数が増えるほど、認識を共有していない人との接点が増えるわけですが、
認識を共有していない人とは、同じ現象を前にしても同じ感覚を感じることはできません。

そうなると必然的に、共感ではなく、客観的な論理として「現象」を共有しないと話が通じなくなってくるわけです。

その辺の文化形成背景が、モロに哲学思想にも出てるんやなという認識。

だんだんと話の着地点が見えなくなってきました。

要は、閉じたコミュニティで生まれた思想、哲学は、成立時のコミュニティ内の常識に関しては全く触れられていない可能性が高いわけです。
一方で、開かれたコミュニティで生まれたものは、誰でも理解できることを目指して作られていますが、現象を一面的に捉えて大局観を失っている可能性があります。

どっちが優れてるとかいうもんでもなく、メリット・デメリットがどちらにもあるわけですよ。
その辺を把握しておけば、どっちでも有効に扱えるでしょう。

それに、生命の樹の右側に寄っていても左側に寄っていても状態的にはよろしくないんで、
知性と感性のいいとこ取りを目指したいところですね。

それではまた!

アディオス・アミーゴ!!

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