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教育のカタチ #こどもとコロナ

4月から数えて2ヶ月のお休みの中、久しぶりにゆっくりとこどもに向き合い、教育について考えることが増えました。 

そこで強く思ったのが、やっぱり学びは楽しい、ということ。これまで分からなかったことが分かるようになった、不思議だと思っていたことに答えが出る。その過程をわたし達人間は「嬉しい」「楽しい」と感じるようにできているということ。そして、その全ての「モト」はどこにあるかというと、世の中の事象に対する「不思議と疑問」そして「理解したいと言う欲求や達成したいという気持ち」にあるということ。さらに究極的にはそれ以外のことを「学び」と言うことはできないのかもしれない、ということ。もちろん毎日こども達と過ごし、学校の勉強まで見るのは大変だったけれど、わたしにとっては新しい発見でもありました。

幼いこども達の学びの具体例を見てみると、ひらがなを読めるようになることで、好きな絵本が読めるようになる、といったことがあげられるかもしれません。これまでは絵の横についた意味の分からない模様だったものに意味が付けられ、内容を理解できたという過程と結果が面白い。 算数的な学びでいくと、簡単な足し算や引き算を学ぶことで、兄弟や友人とおやつを分けることがスムーズにできるようになるとか、そこから発展して、お母さんからもらったお金で買い物に行き、上手に欲しいものを効率よく買えるようになったり。 自分が興味や疑問を持ったものから派生して学んだ結果、「できた!わかった!」という成功体験と大きな喜びを得て、こども達はさらに次へ、もっともっと知りたいと、知への欲求を高めていく。 

5月末から昨日まで。小学校が再開してから学校に通い始めている1年生の娘が持ち帰ってくるプリントを見ると、上に書いたようなわたしの学びに対する思いと、学校教育のあり方は少し(というかたくさん)違う気がしています。 例えば今の新1年生の教育の中で(今の、と言ってもそれはわたしが子供の時から変わらないので、ここ何十年は、ということかもしれないけれど)、とても重要視されている課題。 それは国語にしても算数にしても、紙の上に並べられた箱の中に、どう綺麗に文字を収めるか、その中でいかにバランスをとって「線」を配置するか、ということ。 

確かに美しい文字を書けることは素晴らしいこと。でもその技術習得が学びのゴールではありません。 美しい文字を練習する際のゴールは、書いたその先にある、「相手とスムーズなコミュニケーションを取る」ため。本来の目的の通知もなしに、与えられたプリントだけをこなすだけでは、こども達の知の欲求は満たされません。 

そこへ来て、このコロナ騒動。 以前はそれでも学校に少し存在していたであろう楽しいことがコロナへの対応でゼロに等しくなったことで、こども達は今この時も机に座り黙々と授業をこなし、文字を書いたり計算したりという単純作業を繰り返しています。 楽しくないし、何より幸せじゃないよね。本当に。 学校は再開して本当にほんの少し。 この「楽しくない」と言う状況を受け入れられず、学校に対して諦めと、学びに対して意欲を失うこどもが大勢出てきています。わたしの周りだけでもこんなにも多いのであれば、全国ではどれほどか。

教育のカタチは多様でいい。 今まで通りのスタイルが合うこどもは今のままで良いけれど、合わないこどもには違う選択肢があってもいいのでは。 このコロナ騒動もあって、その思いを強くしている親御さん、教育関係者の方は多いのではないでしょうか。

次回、多様な教育のカタチについて少しお話したいと思います。


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