見出し画像

デス・ヘッド Death's Head

第二章 夢遊病

 

  ヘルパーとして働きはじめて、二日目の朝のことである。

「さすがベテランね。昨日訪問してもらったお年寄りは、みんなあなたのことを誉めてたわ。今日の予定表を作っておいたから、頼むわね」

 出勤すると、山口小百合が待ちかねたように彼女のところにやってきて、新しい訪問リストを手渡した。

 それに目を通していた加奈子は、新しい利用者が並んでいる中に、昨日訪問したばかりの松井満夫の名前があることに気がついた。

「松井さんは毎日訪問するほど状態が悪いとは思いませんが、今日も行くんですか?」

「あの人は、ちょっとわけありでね、一日に一度は様子を見るようにと上から言われているの」

 つまり、有力者に知りあいがいるということなのだろう。加奈子はそういうやり方は好きではないが、いまの自分の立場では異論を唱えるわけにもいかないので、黙ってうなずいた。

 昨日と同じ時刻に訪ねると、松井はまた酒を飲んでいた。

 注意するのもバカらしいので、加奈子はなにも言わずに掃除をはじめた。

 今日の松井はチビチビと酒をなめながら、熱心に本を読んでいる。

 そして加奈子がそばを通りかかると、なにか言いたげに彼女の方をチラッと見るのである。

 最初は無視していたのだが、なんとなく気になって、とうとう加奈子の方から

「なにを読んでいるんですか?」と話しかけてしまった。

 すると松井はにんまりと笑って、『八宅明鏡』と、背表紙に金文字で刻印した本を差しだした。

 それを手に取って開いた加奈子は、本文が中国語で書かれているのを見てびっくりしてしまった。

「松井さん、中国語が読めるんですか?」

「まあ、漢文と一緒やからな」

「すごいんですねえ」

「わしは学生時代は東洋哲学を専攻して、戦時中は満州におったんや。これは現地で手に入れた本さ」

 松井は誉められたのが嬉しかったとみえて、得意そうに小鼻を膨らませた。

 その表情が、いままでの彼からは想像もできないくらい人間臭くて温かかったので、加奈子は思わずつりこまれてベッドの脇に膝をついた。

「これ、なにが書いてあるんですか?」

「風水や」

「風水っていうと、方角がいいとか、悪いとかいうあれですか?」

「あんた、迷信やと思てるやろ。もともとは儒教の古典の『礼記』から広まったもんやからな」

「そうなんですか? 松井さん、すごいですね」

 好奇心にかられてページをめくっていると、松井は急に真面目な顔になって、話しかけてきた。

「役場の人に聞いたけど、あんたは鹿田の洋館に住んどるそうやな?」

「はい」

 さすが田舎町だけあって、噂が伝わるのが早いと感心していると、

「あそこは、あんまり風水がええことないぞ」

 松井は突然、そんなことを言った。

「どうして、そんなことがわかるんですか?」

「わしゃ、このあたりの風水の良し悪しは知りつくしとる」

 そう言って棚から半紙を取りだすと、筆ペンでさらさらと加奈子の家のまわりの地図を描いて、解説を始めた。

「風水の基本は四神相応。北を山が守り、東と西には気の通り道があり、南が開けているのが理想や。あんたの家は東と西はええが、山があるべき北が開け、開けているべき南に山がある。これは吉相ではない」

「そんなことを言われたって、いまさら引っ越すわけにはいきません」

「そやから、災難よけをあんたにやろうと思うたのや」

「災難よけ?」

「ああ。ちょっと待っとれよ」

 松井は不自由な足を引きずってベッドから降りると、押入れの天袋からなにかを取りだそうとした。しかし、手が届かずに前のめりに引っくり返りそうになった。

「無理をなさらないでください。なにを取ればいいんですか?」

 加奈子は、慌てて松井を抱き起こした。

「あそこに風呂敷包みがあるやろ。それを取ってくれんか」

 そう言われて天袋を覗いた加奈子は、思わず息を呑んだ。

 紫色の風呂敷包みと並んで、油紙に包んだ銃が置いてあるのだ。

 ボルトアクション式と呼ばれて、弾丸を装填するための取っ手が銃身から突きだした古い銃で、磨きこまれた銃身は黒光りしていた。

 とんでもない秘密を覗き見てしまったような気がして、加奈子は胸がドキドキしてきた。

 だが松井は少しも構わず、「目の前にあるやろ。それや、それ」と、気安く声をかけてくる。

 銃には気がつかなかったふりをして風呂敷包みを開くと、中から美しい八角形の鏡がでてきた。

 枠には黒漆を塗り、八卦の印を金箔で押した高価そうな美術品である。

「その八卦鏡には、悪いものを跳ね返す力があるのや。あんたにとって、南の山は凶や。絶対に近づいたらあかんし、南から吹いてくる風を受けるのも望ましゅうない。これを南の窓にかけときな」

 松井は加奈子をじっと見つめて、そう言った。

 迷信深い、年寄りの戯言だと思いつつ、彼が自分のことを心配してくれているのがわかったし、その気持ちはありがたかった。しかし…

「松井さん、お気持ちはありがたくちょうだいします。でも、こんな高価なものをいただくわけにはまいりません。これは大切になさってください」

 加奈子は、鏡を包みなおして返そうとした。と、

「もらうのがいやなら、貸してあげよう。それならええやろ? 持っていきなさい」

 松井があまりにも熱心に言うものだから、加奈子はとうとう鏡を受け取ってしまった。

 もっとも、家に帰って鏡のことを達也に話すと、そんな迷信を信じる奴はバカだと言われてしまい、加奈子自身もあまり気が進まなかったので、鏡は倉庫代わりに使っている部屋に置きっぱなしになってしまった。

 

  働きはじめて二週間がすぎ、この地域の老人の実情がつかめ、それなりの自信が芽生えたころ、一本の電話がかかってきた。

「加奈ちゃん、元気にしてる? 引越しの挨拶状をもらって、びっくりしたよ」

 相手が従姉妹の木戸悦子だと気づいて、加奈子はため息をついた。

 悦子は母の姉の娘で、加奈子より三つ年上である。

 明るくて気さくな女性だが、見たこと聞いたことを人に話さずにはいられない性格で、まわりから拡声器というニックネームをつけられている。

 ひととおり加奈子の近況を聞きだした後で、「伊勢を選んだのは、おじいちゃんの出身地だからなの?」と、訊いてきた。

 あえて真実を話す必要もないので、加奈子はそうだと応えた。

 すると悦子は、ご先祖の墓には参ったかと尋ねてきた。

「どこにあるのか知らないから、教えて」と言うと、悦子も知らないと笑った。

「でも、親戚中だれも知らないんじゃ、うちのご先祖は無縁仏になっているかもね」

「えっ? 私たちのルーツは、吉澤屋とかいう旅館じゃないの?」

「いいえ。おじいちゃんの生家は津田といって、地元では名士だったそうよ。でも昭和の初めの金融恐慌で破産して、一家は離散。それで吉澤屋に引きとられたのだけど、養父母とうまくいかなくて、東京に出てきたと聞いているわ」

「それホント? 私、ずっとおじいちゃんと暮らしていたけど、そんな話は聞いたことがないわ」

「おじいちゃんは、そういう苦労話をするのは好きじゃなかったから……」

 悦子は、しんみりとした口調で言った。

 祖父の生い立ちもさることながら、加奈子は自分の先祖が津田という苗字なのだと聞いて軽いショックを受けた。

 むろん苗字が同じだというだけで、自分と津田絹子につながりがあるかもしれないと考えるのは早計だろう。

 しかしこれほど偶然が重なるのは、やはりただごとではないような気がした。

 

 翌日は、ちょうど津田正弘を訪ねる予定が入っていた。

 そして正弘のリハビリを終えると、絹子がいつものように加奈子を茶飲み話に誘った。

 そこで自分の祖父は伊勢の出身なのだが、なにか心当たりはないかと尋ねてみた。

 すると絹子はキラッと目を光らせて、「あなたのお祖父さまのことは知らないけど、先祖が同じだった可能性はあると思うわ。ねえ、あなた」と、夫に同意を求めた。

 普段は寡黙な正弘が珍しく興奮して、「そのとおりや。そこの『氏姓辞典』を取ってくれ」と、本棚を指さした。

 絹子がその分厚い本を手渡すと、正弘は自由になる右手でページをめくり、『津田』の項目を開けて加奈子に見せた。

「津田という苗字は、近江と伊勢に多い。しかしその成りたちは全然ちがうのや。近江には昔から津田という苗字があったが、伊勢の津田は織田氏の子孫が多い」

 思いがけない話に、加奈子は好奇心をそそられた。

 そういえば正弘は私立高校で歴史を教えていたと聞いている。こういうことには詳しいのかもしれない。

「織田というと、織田信長ですか?」

 加奈子は軽い気持ちでそう尋ねたのだが、正弘は信長という名前に過敏に反応した。

「信長だけが織田氏やない。わが家も織田の血筋やが、弟君の勘十郎信行さまの子孫や」

 正弘が力説すると、絹子もうなずいた。

 だが話をしているうちに、正弘の顔がはっきりとわかるほど赤らみ、目が潤んできた。血圧があがってきた証拠である。

 これ以上興奮させてはいけないと、加奈子は話を打ち切り、次の訪問先に向かうことにした。

 すると絹子が、「ところで、あなたのお祖父さまの名前はなんというの?」と、尋ねてきた。

 加奈子が松男という名前だと答えると、「今度、調べておくわね。あなたがうちの親戚だと嬉しいのだけど」と、言ってくれた。

 

  六月十五日は役場の式典があって、加奈子は午後二時に帰宅した。

 土曜日を除けば、ゆかりよりも早く帰宅することはめったにないので、加奈子はひさしぶりに娘のためにケーキを作ろうと、キッチンで小麦粉をこねていた。

 すると窓から吹きこむ風が、しゃくりあげるような切ない泣き声を運んできた。

 母親の直感で、ゆかりが泣いているのだと悟った加奈子は、エプロン姿のまま家から飛び出した。

 県道から家に続く細い道を、ゆかりがやってくる。

 ブラウスのボタンはちぎれ、胸元には乾いた泥がこびりついている。膝小僧はすりむけて血がにじみ、おまけに靴を履いていない。

 加奈子は、「どうしたの。なにがあったの?」と叫びながら、娘に駆け寄った。

 そのとき小柄な男の子が、ゆかりの靴を大事そうに抱えて後をついてきていることに気がついた。

 楠田信吾という、ゆかりのただ一人の友達である。

 加奈子が恐い顔をしているものだから、信吾は「ぼく、なんにも悪いことはしてへん」と、すすり泣きはじめた。

 加奈子は慌てて信吾をなだめ、二人の肩を抱いて家の中に招き入れた。

 だが、信吾がゆかりの靴を抱えて家に入ろうとすると、ゆかりはいきなりその靴を奪いとり、外に投げ捨ててしまった。

 そしてバスルームに飛び込んでいった。

 信吾は、何をどうしていいかわからないといった様子で、水洟をすすりながら突っ立っている。

 ちょっと見たところ、信吾は愚鈍な印象を与える。口さがない母親たちの噂話によると、彼は生まれつき知能が低いのだという。

 だから娘が信吾と親しくしていると聞いたときは、正直いって少し心配になった。

 だが二週間ほど前、信吾が初めて家に遊びに来たときのことだ。

 加奈子はアール・デコの食器を集めるのが趣味だが、コレクションの中にはまがい物も混じっている。

 不思議なことに、信吾は食器を一瞥しただけで、どれが偽物かをピタリと言いあてた。

 信吾は頭はよくないかもしれないが、すばらしい直感力が備わっているらしいと気がついて、加奈子は彼を大事にするようになった。

「信吾くん、お菓子でも食べていきなさいよ」

 加奈子がゆっくりと事情を聞きだそうとすると、信吾は自分から語りはじめた。

「靖くんが、ゆかりちゃんの靴にカエルをいれたの」

「カエルを?」

 加奈子が驚いて訊き返すと、信吾はこっくりとうなずいた。

「ゆかりちゃんは、それを知らんと靴を履いたの。そしたらカエルが、中でつぶれてしもたの。ゆかりちゃんは泣いてねえ、靖くんとケンカしたの」

「それで裸足で帰ってきたのね」

「うん。ゆかりちゃんは、靴を捨てたの。そやからぼく、拾うてきたのに……」

 そう言うと、信吾はまた泣きだした。

 負けん気の強いゆかりが靴を投げ捨て、信吾が慌ててそれを拾う様子が目に見えるようだ。

 加奈子はティッシュで信吾の洟を拭ってやり、また語りかけた。

「靖というのは、北条靖くんのことね?」

「うん」

「それで、靖くんはどうしたの?」

「どうって?」

「つまり……謝ったの?」

「ううん。弱虫いうて、ゆかりちゃんをどついた。ゆかりちゃんが仕返ししたら、また殴り返してきたん。健ちゃんも、秀くんもいっしょやった」

 信吾の話を聞いているうちに、加奈子の胸には烈しい怒りが沸きあがってきた。

 いままで何度も、その靖という子に意地悪をされたと聞いている。

 子供のケンカに大人が入りこむべきではないと思って、今日まで自制してきたが、放っておいたら、苛めがエスカレートするかもしれないと思うと、矢も盾もたまらず、家を飛び出した。

 そして外に投げ捨てられた靴を拾ってみると、左足の爪先に、ほとんど原型をとどめていないピンク色の肉塊があった。

 その靴を車に放りこんでエンジンをかけると、濡れた髪をタオルで拭いながらゆかりが駆けてきて、自分も連れていってくれと懇願した。

 少し迷ったものの、事態をはっきりさせるためには、本人がいたほうがいいかもしれないと考えて、加奈子は娘を同行させることにした。

 

 家から県道を五百メートルほど行くと、鹿田地区の中心部に出る。北条家はその一郭にあった。

 車を道端に停めて、歩いて門をくぐるとトラクターや耕運機を入れるための大きな納屋があり、そこで二人の男の子が漫画を読んでいた。

 その一人が顔をあげて、ゆかりに気づいて舌打ちした。

 それが北条靖で、ゆかりと同い年とは思えないほど大柄で、気の強そうな顔つきの男の子だった。

 もう一人の、背の低い方が村田健治である。

 加奈子は、できる限り怒りを抑え、なぜゆかりを苛めたのかと問いかけた。

 すると靖は開き直って、

「オレがやったんと違うわ。カエルが勝手に入ったんや」

 と、うそぶいた。

「うそつくな。学校では、オレがやったって言ったじゃないか」

 ゆかりは、母親を押し退けるように前に出て叫んだ。

 一瞬、靖は恐い顔をしてゆかりを睨みつけたものの、ふてくされてそっぽをむいた。

 村田健治はそれほどの度胸はなく、漫画を見るふりをしながら、こちらの様子を盗み見ている。

「ねえ、靖くん。カエルのことはともかく、あなたはその後で、何度もゆかりを殴ったそうね。それはおかしいんじゃない?」

 できるだけ平静になろうと努めながら、加奈子の声は震えていた。

 だが、彼女に追求されて逆切れした靖は、「うるせえなあ」と叫んで、漫画を地べたに投げつけると、いまにも飛びかかりそうな目で睨みつけた。

 そのとき、「なっとしたんや?」と言いながら、肥料の袋を積んだ一輪車を押しながら女が納屋に入ってきた。

 一目で靖の母親だとわかる、たくましい女だった。

 加奈子は学校であったことを話して、母親から注意してもらおうとした。

 だが話を聞いた女は、「何事かと思たら、そんなことかいな」と、つぶやいた。

「そりゃまあ、うちの坊主も悪いには悪いけど、子供のケンカに親が口を出したらあかんのと違うの?」

「ケンカなら、仕方がないと思います。でも靴の中に生き物を入れるというのは、してはいけないことだと思うんです」

 加奈子は辛抱強く、言い募った。

 母親同士なのだから、話せばわかるはずだと心のどこかで信じてもいた。だが、

「都会育ちの子供は、ひ弱いなあ。靖、もうそんなことをしたらあかんな」

 一応、息子を戒めたものの、女は嘲るように加奈子を見て、肥料の袋を足元にポンと投げおろした。

 もうもうと土埃が立ちのぼり、発酵した鶏糞の臭いが鼻をついた。思わず加奈子は後ずさった。

 ここで腹を立てたら、相手の思う壺だ。

 腸が煮え繰り返るような怒りを堪えて、加奈子は車に戻ろうとした。

 だが、ゆかりはその場を動こうとはせず、歯をくいしばり、拳を握りしめ、目を吊りあげて二人の男の子を睨みつけている。

 ゆかりが、これほど怒りを露にすることはめったにないだけに、加奈子も少し驚いた。

「ゆかり、いらっしゃい。きょうのことはママも、忘れないからね」

 女に聞こえるように大きな声で言うと、加奈子はゆかりの手を引いて車に戻った。

 その後、留守番をさせてしまった信吾を家まで送っていったついでに、国道縁のファミレスで食事をすませて、家に戻ったのは七時すぎだった。

 それからアニメを見させて、ゆかりといっしょにベッドに入った。

 けれどもゆかりは、しきりに寝返りをうち、何度も水を飲みたいといっては起きだして、加奈子を困らせた。

 午後十時をまわって、ようやくゆかりが寝息をたてはじめたころ、加奈子も疲れて娘の隣で眠ってしまった。

 


 

  城戸家の南側には、高さ百五十メートルあまりの小山がある。

 正面から見たところは大地から盛りあがった小さな瘤といったところだが、この山の背後には、日本オオカミが生息するともいわれる大台山系の大樹林帯が控えている。

 それだけに斜面は杉や松の大木に覆われて、昼なお暗い神秘的な雰囲気を漂わせている。

 その木の間に隠れるように、いわくありげな社があった。

 普通の神社は神域を常緑樹で囲うものだが、この社はその代わりに茨の茂みがまわりを囲んでいる。

 しかも、構造がかわっている。

 幅二間、奥行き六間ほどの茅葺の社殿は南を背にして立ち、北に向かって伸びる参道は途中で直角に曲がっている。

 そして、その社殿のまわりを、五輪の石塔が囲んでいるのだ。

 そのすぐ前には拝殿があった。

 拝殿とはいっても、柱と屋根があるだけの簡素な造りだが、両脇に燭台を立て、中心には大きな鉄の炉が据えられている。

 その炉に香を焚き、一心に祈りを捧げているのは津田絹子であった。

 八十歳とは信じられぬくらい若々しい顔を厳しく引き締め、聞きとれないほど低い声で呪文のようなものを唱えている。

 その祈りに感応したように、まわりの木々がザワザワと音をたてた。

 祈りを終えて顔をあげたとき、頭上で鳥の羽ばたきがした。

 見あげると、神域を取り巻く杉の大木に数百羽の白鷺が羽根を休めている。

 そのうちの数羽が参道に舞い降りて、なにかを迎えようとでもするかのように、首を伸ばして甲高い鳴き声をあげた。

 と、夜露に濡れた石畳を素足で踏みしめて、参道の向こうから少女がやってきた。

 フリルのついたナイトウェアを身にまとい、異世界から舞い降りた妖精のようにフワフワとやってくる。

 しかも裸足でこの山を登ってきたものとみえて、つま先から踵まで泥だらけで杉の葉がこびりついていた。

 絹子は用心深くあたりを見回し、少女が一人でここまで来たのだと悟ると、おそるおそる声をかけた。

「あなたは、ゆかりちゃんでしょう? こんな時間にどうしたの?」

 だがゆかりはなにも答えず、絹子が目に入らないかのように、まっすぐに前を向いて社殿に向かって歩いていく。

 それでようやく絹子は、ゆかりが意識がないまま歩いているのだということに気がついた。

 絹子は、息を潜めてゆかりの様子をうかがっていた。

 と、ゆかりは炉の前で立ち止まり、おもむろに社殿を見あげると、「私を呼んだのは、あなた?」と、声をかけた。

 それを聞いた絹子は、小さな喘ぎ声をもらした。

 そしてゆかりの傍らに跪くと、その顔を下から覗きこんでおもねるように声をかけた。

「ゆかりちゃんには、あのお方の声が聞こえるの?」

 絹子の呼びかけを無視したまま、ゆかりは「私になんの用?」と、夢見るような声でつぶやくと、社殿の扉の前に立った。

 すると手を触れてもいないのに、扉を留めていた大きな錠前がカチャリと音をたてて外れ、扉が小さく開いた。

 ためらうことなく、ゆかりは中に踏みこんだ。

「待ちなさい。入ってはダメ!」

 慌てて絹子が追いすがると、まるで彼女を締めだそうとでもするかのように扉が目の前で閉まった。

 絹子は扉に手をかけ、力のかぎり引いてみたが、どうすることもできなかった。

 途方にくれて、絹子は扉に耳を押しあてて中の様子をうかがった。

 社殿の土間に敷きつめた玉砂利を踏み鳴らして、ゆかりが動きまわっている。

 なにかのはずみにあの子がご神体を壊してしまったら、いや余人に知られてはならないあれを見たらどうすればいいのだろう。

 もどかしい思いに身を焦がしながら、中の様子に耳をすましていると、やがて玉砂利を踏む音がこちらに近づいてきた。

 そして、入ったときと同じように扉が開いて、ゆかりは二枚の木札を手にして外に出てきた。

 下に三角形の切込みを入れて、人の形にくり抜いた木札――人形(ひとがた)である。

 指に墨をつけて書いたのだろう。それぞれの木札に、太く、蛇がのたくったような字で人の名前らしきものが書かれている。

「それは……」

 絹子は雷に打たれたように、立ち尽くした。

「これを……あなたに渡せって」

 ゆかりは、ぼんやりした口調で言いながら、人形を絹子に渡すと、参道を引き返していった。

 呆けたように立ち尽くしていた絹子は、我に返ってギュッと口元を引き締めた。

 自分の手の中に残された二つの人形をじっと見つめ、それから社殿の方を振り向き、そこに潜む者に声をかけた。

「私に、もう一度人を呪えと仰せになるのですね?」

 するとそれに応えるように、扉の隙間から蒼白い光が漏れだし、背後の大台山系から吹きおろす風に、木立がざわざわと揺れた。

 

  ゆかりに添い寝して、そのまま眠ってしまっていた加奈子は、身体を揺さぶられて目をさました。

 するとスーツ姿の達也が、不機嫌な顔でこちらを見おろしていた。

「おかえり……どうしたの?」

 目がさめたばかりで、まだ頭がぼんやりしている加奈子は不満げに言った。

「ゆかりは、どうした?」

「えっ?」

「ゆかりは、どこにいるんだ?」

 達也は苛立たしげに、からっぽの子供用ベッドを指さした。

 それでようやく加奈子は、なにか只ならぬことが起こったらしいと気がついた。

「ゆかり、どこにいるの?」

 達也といっしょに、部屋という部屋をすべて開け放って屋根裏まで覗いたが、どこにも娘の気配はなかった。

「外を見てくるわ!」

 加奈子はパジャマの上にジャケットを羽織り、車のキーを掴んで外に飛び出そうとして、「どこに行くつもりだ?」と、達也に止められた。

「ゆかりは今日、学校で苛められたのよ。もしかしたら、その子の家に行ったのかもしれない」

 加奈子は、ヒステリックに叫んだ。

 理性的に考えてみれば、そんなことはありえないが、それ以外に思い当たる節がなかったのだ。

「落ち着け。オレが帰ってきたとき、玄関の鍵は閉まっていた」

「ゆかりは自分の鍵を持ってるわ」

「それは、あそこにある」

 達也はリビングボードに置いたままになっている、マスコット人形をつけた鍵を指さした。

「だったら、どこにいるのよ?」

「それはオレが聞きたいよ。母親のくせに、なにをやってるんだ」

「普段は娘のことなんか構いもしないくせに、こんなときだけ父親面しないでよ!」

 喧嘩腰で言い返したとき、テラスの窓から吹きこんだ風がカーテンを揺らめかせた。

 振り返ると、ゆかりを寝かしつけるときに閉めたはずのテラスの窓が開き、いつもはそこに置いてある庭履きがなくなっていることに気がついた。

――もしかしたら!

 加奈子は外に飛び出して、庭の柵のところまで駆けつけた。

 するとこんな真夜中だというのに、白鷺の群れが南の小山のまわりを飛びまわっている。

 昼間田圃で見かける鷺は美しく清らかな鳥だが、夜空を羽ばたく鷺はどことなく不吉な感じがする。

 焦燥にかられて目をこらすと、木の間にぼんやりとした蒼白い影が漂っているのが垣間見えた。

「ゆかり!」

 加奈子は柵を乗り越えてレンゲ畑に飛び込み、サンダルが脱げるのもかまわず、裸足のまま駆けた。

 夜露に濡れたレンゲを踏み潰し、足の裏には冷たい土がこびりつく。枯れ残ったススキの根に足をとられて転びかけたが、かまわずに走った。

 無我夢中で山の端にたどりつくと、木立が月の光をさえぎった。

 やがてその暗さに目が慣れてくると、白いナイトウェアを着たゆかりが、木と木の間をすりぬけて、こちらへ降りてくるのが見えた。

 大きな目はあらぬ方を見つめて瞬きもせず、口元にはうっとりとした笑みを浮かべ、しかもこの草深い斜面に足をとられることもなく、ふわふわと漂うように降りてくる。

「ゆかり!」

 加奈子は裸足のまま、山の中に踏みこんだ。

 麓には笹が生え茂っていたが、しばらく斜面を登ると、落葉の降り積もった地面は泥沼のようにぬかるみ、あっという間に足首までめりこんだ。

 それを振り払い、また踏みだすと、枯れ枝が足の裏に突き刺さった。その痛みをものともせずに、加奈子は必死に斜面を登った。

 やがて、すぐ目の前にいる母親にも気づかず、傍らを行きすぎようとしたゆかりを、必死に腕を伸ばして抱きとめた。

 つかの間抵抗したゆかりは、加奈子に揺さぶられて正気に返ると、けげんそうにあたりを見回し、泣きだした。

 安堵のあまり、ゆかりを抱きしめてへたりこんでいた加奈子は、微かな物音を聞いてビクッと身をすくませた。

 斜面にはモミや樫の大木が生え繁り、それらが月光を遮って濃密な闇を作りだしている。

 その闇の向こうから、なにかがこちらの様子をうかがっている。

 姿は見えないけれども、断じて錯覚ではない。

 人か獣かはわからないが、その存在に気づいたとたん、冷水を浴びせかけられたように全身に鳥肌がたった。

 と、張りつめた夜気を突き破り、「大丈夫か!」と、達也の声がした。

 懐中電灯を片手に山中に分け入った達也は、枯れ枝を踏み折り、落葉を蹴散らしてやっとの思いで妻と娘のところにたどりつくと、思い切り二人を抱きしめた。

 すると闇の向こうの気配は、どこかに吸いこまれるように消えた。

 ついさっきまで、煩わしく感じられた夫が、なくてはならぬものに思われ、加奈子は娘を抱きしめたまま達也の胸に顔をうずめた。

 

  翌朝のことである。

 笠縫町から十キロほど南にある玉城町というところに、飯島正義という住宅メーカーに勤める独身の営業マンが住んでいた。

 たまたまいつもより十分ほど早く家を出た飯島は、県道を通って会社に向かう途中で車を停め、いまは城戸家のものになった洋館を見あげた。

 三年前に初めて目にしたときから、飯島はこの洋館に憧れてきた。

 噂では、北海道に住む著名な建築家が設計して、木材は北米から、内装はヨーロッパのものを取り寄せたという。

 仕事柄、飯島にはこの家の素晴らしさがよくわかった。

 一度だけ、オーナーに紹介してもらって家の中を見学して、感激を新たにしたことがある。

 しかし最近、いつの間にかこの洋館が売りに出され、東京からきた一家がかなり安い値段で買ったと聞かされて、悔しくてならなかった。

――東京の人間なら、そのうちまた引っ越していくかもしれない。そのときこそ、俺が買ってやる。

 自分自身にそう語りかけて、飯島はゆっくりとアクセルを踏みこんだ。

 この洋館の西には小高い丘があり、その先で道が大きく右にカーブする。

 見通しの悪いところなので減速しようとしたとき、計器盤に火花が飛び散り、突然エンジンの回転数があがって車は急加速した。

 慌ててブレーキを踏みこみながらカーブを曲がると、目の前を二十名ほどの小学生が集団登校していた。

 無我夢中でハンドルを左に切ったとき、左側の農道から飛び出してきたトラックが車の横腹にぶつかった。

 ショックで気絶した飯島を乗せたまま、車はスピンしながら小学生の列に突っ込んでいった。

 

 同じころ、加奈子は勤めを休んで、ゆかりを伊勢市の総合病院につれてきていた。

小児神経科を訪ね、血液検査や脳波検査を受けるために一階の検査室に向かっていると、救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえた。

 やがて、「どいて、道をあけて」という甲高い男の声がして、簡易ベッドに乗せられた子供が救急処置室に運ばれていった。

 はっきりと顔は見えなかったが、加奈子はその子が、昨日北条靖のところにいた少年のような気がした。

 するとゆかりが、「あれ、村田健治くんだよ」と囁いた。

 加奈子はびっくりして、処置室から出てきた救急隊員に、なにがあったのかを尋ねた。

「集団登校中の児童の列に、車が突っ込んだんです。ほかにも怪我をした子がいて、別の病院に運ばれてます。えらいことですよ」

 と、男は応えた。

 加奈子は身のすくむような思いがした。

 もし今朝、ゆかりがいつものように登校していたら、怪我をしたのはゆかりだったかもしれないのだ。

 複雑な思いでいると、「ざまあみろ」というつぶやきが聞こえた。

 ドキッとして振り向くと、ゆかりがいままで見せたことのない大人びた笑みを浮かべて、処置室の方を見ているではないか。

「ゆかり、そんなことを言うもんじゃないわ」

 きつく戒めると、ゆかりは不満そうに唇を尖らせた。

 

 ゆかりの診察がはじまったのは、午前十時すぎだった。

 ベテランの小児神経科医は、検査の結果に目を通した後で、昨夜の行動や、昼間学校であったことを詳しく尋ね、その後でパズルゲームのようなものをさせながら、ゆかりの様子をじっと見守っていた。

 それから、加奈子を別室に呼んで質問した。

「夢中歩行はこれが初めてですか?」

「はい。でも、もしかしたら二度目なのかもしれません。以前朝起きたら、窓の側で眠っていたことがありますので」

「東京では、そういうことはなかったのですね?」

「はい」

「いままで、睡眠中に痙攣したり、舌をかんだりといったことはありましたか?」

「いいえ」

 加奈子が断言すると、医師はうなずいた。

「では、心配することはないと思いますね。お嬢さんの夢中歩行は、環境が変わったことによる突発的なものでしょう」

「でも先生、娘は一時間以上も、眠ったままで歩きまわっていたんです。心配ないといわれても……」

「たしかに一時間も夢中歩行するというのは、珍しいことです。しかし本当に一時間なのでしょうか? お話を聞いたかぎりでは、いつお嬢さんが外に出たのかは曖昧ですし、ずっと夢中歩行していたのかどうかも、わかりません」

「それは……」

 加奈子が反論できずにいると、医師は意外なことを訊いてきた。

「そういえば、あなたと娘さんは、顔立ちや雰囲気がとても似てらっしゃるようですが、あなたは、子供の頃こういう体験をなさったことはありませんか?」

 そう言われて、加奈子は息を呑んだ。

「はい。いわれてみれば……幼稚園のころ、父が交通事故で亡くなり、たいへんだった時期があります。そのころ恐い顔をした父がやってきて、私をどこかに連れていこうとする夢を何度も見ました。

ある夜、夢の中で父と激しく争いました。そしてハッと目をさますと、母が怯えたように私を見つめているんです。私…夢の中で父を殴ったつもりで、隣に寝ていた母を殴ってしまったんです」

「何度もそういう体験をされましたか?」

一瞬、医師の眼差しが真剣なものになった。が、

「いえ。その一度だけです」

と答えると、もとの穏やかな表情に戻った。

「私は、夢中歩行の前段階を経験したのでしょうか? 私の体質が娘に遺伝して……」

 困惑する加奈子を、医師は手ぶりでなだめた。

「遺伝については、なんともいえません。ただ、娘さんの症状と、あなたの症状は別のもので、実はあなたのほうが厄介かもしれません」

「えっ?」

「娘さんの夢中歩行は、いわゆるノンレム睡眠の状態で起こり、あの年頃ですと、自然と治まっていくケースが多いです。一方、あなたが経験したのは、RBD――レム睡眠時行動異常症といわれていて、大きな病気につながることがあります。娘さんが、昔のあなたのような症状を見せたことはありますか?」

「いえ、ありません!」

 加奈子は思わず大きな声を出してしまった。

「だったら大丈夫。今回の件は、やはり突発的なものだと思います。もし、夢中歩行を繰り返すようなら、一日入院してもらって、睡眠中の脳波の検査を受けてもらいます。ただ、万一のことを考えて、鍵を二重にするとか、現実的な対策を採った方がいいかもしれませんね」

 医師はやんわりと注意すると、カルテを書きはじめた。

 

7 ※八卦鏡

 

 この日の交通事故では村田健治と上級生二人が骨折し、北条靖をふくむ三人が軽い怪我を負った。

 この事故は地元では大きな話題になり、学校ではいままで以上に登下校に注意するように保護者に呼びかけ、通学路が変わった地区もあった。

 だが城戸家にとっては、その前夜の出来事のほうがはるかに重大であった。

 医師のアドバイスに従い、ゆかりが一人で外に出ることができないように、テラスに新しい鍵を取りつけ、玄関の鍵も二重にした。

 そして加奈子は、松井老人に借りた八卦鏡を取りつけることも忘れなかった。

 達也は反対したが、加奈子はゆかりのためにできることは何でもしたいのと言って、押し切ったのだった。

 そうした対策が功を奏したのか、その後、ゆかりは夢中歩行の発作を起こすことはなく、二週間が過ぎた。

 そんな七月初めの、ある夜のことであった。

 鹿田地区の区長が訪ねてきて、来週の日曜日に『出あい』があるので、城戸家も地域の一員として、参加してもらいたいと言ってきた。

 加奈子は、『出あい』という言葉の意味がわからなかったので、訊き返した。

「このあたりでは、地域のみんなが集まって協同作業することを、出あいというんですわ。来週は墓の掃除があるんで、特に大事なんです」

 区長は、そう言い残して帰っていった。

 加奈子も達也も、できるだけ地元に溶け込みたいと思っていたので、夫婦そろって参加することにした。

 

 当日は、真夏のように強い日差しが照りつける一日になった。

 加奈子は日に焼けないように大きな帽子をかぶったうえに、だぶだぶのTシャツを着こみ、墓があるという西の山に向かった。

 驚いたことに、草がぼうぼうと生え茂るその斜面は、ほぼ全域が墓地になっており、ざっと数えただけでも千あまりの墓石が並んでいた。

「ずいぶん、大きな墓地ですね……」

 加奈子が感心していると、年配の女性が「このあたりは十年前まで土葬やったで、一人ひとりの墓石が立っているのよ」と、教えてくれた。

「土葬ですか?」

 思わず加奈子は訊き返した。

 東京生まれで東京育ちの加奈子は、土葬というのは映画の世界でしか知らなかったし、まさか日本でそういう風習が残っているところがあるとは、夢にも思わなかった。

 やがて墓掃除がはじまると、男性のグループは草刈機や長柄の鎌を持って東側の斜面にまわり、女性グループは墓石のまわりの草を刈り、ゴミを拾うことになった。

 初めのうちこそ、みんな黙々と作業をしていたものの、一時間もたたないうちに手よりも口が動くようになってしまった。

 加奈子はいままで地域の人々と話す機会がなくて、住民のほとんどは農家なのだろうと思っていた。

 だが一人ひとりと話をしてみると、銀行に勤めるOLがいたり、学校の教師がいたりと、加奈子がいままで抱いていたこの地域の女性像は、間違っていたことがよくわかった。

 しかしやはり農村だと思ったのは、天候の話になったときであった。

「そやけど、今年みたいに日照りが続くと、米の作柄はむちゃくちゃと違う?」

 銀行に勤める、橋爪和歌子という若い女がいった。

「TVで言うとったけど、二十三年ぶりの日照りなんやてなあ」

 苺のハウス栽培を手がけている、山崎佳代が応じた。

「あの年はひどかったけど、いまは農業用水があるで、大丈夫やろ」

 年輩の田村早苗がいうと、佳代が首を振った。

「そうでもないみたい。この日照りがあと一月つづくと、朱鷺田川ダムの水源が涸れるそうよ」

「まさか。そろそろ梅雨になるやないの」

 早苗はそう言いながらも、気遣わしげに雲ひとつない空を見あげた。

 そしておしゃべりも一段落すると、加奈子は田村早苗といっしょに、子孫が絶えて世話をする人のいない墓石を洗うことになった。

 その作業をしているうちに、墓石には故人の没年と戒名が刻まれており、享保や文政といった江戸時代の年号が多く見られることに気がついた。

「ここは、歴史のある村なんですねえ」

 加奈子がそう言うと、早苗は穏やかに笑った。

「そうやなあ。私らの先祖は、たぶん平安時代からずっとここに住んどるんやろなあ」

「平安時代からですか……」

 感心しながら作業をしていた加奈子は、ふとあることに気がついた。

 葬られている人が多いとはいっても、狭い地域のことである。同じ年に亡くなった人はそう多くない。

 ところが、没年を昭和三十年と刻んだ墓石が実に多いのである。

「田村さん、昭和三十年に亡くなった人が多いですが、なにかあったんですか?」

 加奈子は、なんの気なしにそう尋ねた。

 すると早苗は眉間に皺を寄せ、困ったような顔でこちらを見た。

 そして加奈子と目があうと、なにも言わずにまた草を刈りはじめた。

 理由はわからないが、自分はなにかのタブーに触れてしまったらしいと気づいた加奈子は、もう無駄口をたたかずに黙々と草刈りにいそしんだ。

 

 お昼の休憩をはさみ、午後になると女たちは、刈りとった草を集めて燃やしはじめた。

 加奈子は特にすることもないので、頂上まで登ってあたりを見渡した。

 この山は田圃をはさんで、いつかゆかりが入りこんだ裏山と接しており、左側には春から夏にかけてレンゲが咲き誇っていた休耕田が、その向こうには我が家が見える。

 のどかな景色に見とれていると、山の端から白い帽子をかぶった老婦人が、作業服を着た男たちを伴って姿を現した。

 津田絹子である。

 絹子は男たちに命じて、山の斜面から田圃に張りだしている潅木を刈りとらせると、自らも草を刈りはじめた。

 絹子は高齢なのに、どうしてあんな辛い作業をしているのかと近くにいた男に質問すると、このあたりの山はすべて津田家のもので、絹子は業者を使ってその手入れをしているというのである。

 絹子はあの立派な家で、なに不自由なく静かに暮らしているのだと思いこんでいた加奈子は、ちょっと驚いた。

 手伝ってあげないのかと尋ねると、「私有地の手入れは、持ち主の仕事や。他人が手伝うもんやない」と、言われてしまった。

 しかも、その言い方には棘がある。

 以前から感じていたことだが、絹子は役場にも町議会にもコネがある有力者なのに、近隣の住民とはほとんどつきあいがなく、人々から嫌われているようにさえ感じられる。

 とにかく黙って見ていられなくなって、加奈子は山を降り、絹子に手伝いましょうかと声をかけた。

 絹子は思いがけない助っ人が現れたことを喜んだが、「この山はうちのものだから、他人さまに手伝ってもらうわけにはいかないのよ」と、穏やかに断った。

「でも、こんなところであなたに会えるとは思わなかったわ。よかったら、今夜お嬢ちゃんといっしょに、うちにお食事に来ない?」

「ありがとうございます。でも、今夜は家族でファミレスに行く約束をしてるんです」

「あら、ファミレスなんかより、うちの方がずっといいものをお出しするわよ。よければ、ご主人もいっしょにどうかしら?」

「ありがたいですけど、今日はちょっと……」

 加奈子が言葉を濁していると、絹子は「来てくれたら、いいことを教えてあげるわよ」と、言った。

「えっ?」

「あれからいろいろ調べてね、うちの家系図に、あなたの曽祖父さまの名前があることがわかったの」

「本当ですか?」

 加奈子は、思わず大きな声をあげた。

「昨日、調査を頼んでいたところから連絡がきたの。私たちが親戚だということがわかったお祝いをしましょうよ。ねっ、招待を受けてくださらない?」

 そこまで言われたら、断るわけにはいかない。加奈子は、津田家を訪問することを約束した。

 

「これから、きみが介護している老人の家を訪ねるっていうのか? 勘弁してくれよ」

 帰り道、加奈子が絹子に招待されたことを話すと、達也は煩わしそうに手を振った。

 その目が、『俺は疲れてるんだ。家に帰ってシャワーを浴びて、ビールを飲んでさっさと眠りたいんだ』と、言っている。

「それにいくら親しくても、介護している老人とプライベートでつきあうのは、まずいんじゃないか?」

 という達也の意見は、確かに正論ではあった。

「だけど、伊勢に引っ越してきて、担当した人が親戚だったなんて、めったにあることじゃないでしょ?」

「そのバアさんの言ってることが、本当だったらな」

「津田さんが、嘘をついているっていうの?」

「そこまでは言わないけどさ、君が親戚だとわかったら、仕事以外でもいろいろなことを頼めて、便利だと思ってるんじゃないか?」

「津田さんは、そんな人じゃないわ。それにあの人は、笠縫町では一番の有力者なのよ。つきあってメリットがあるのは、むしろうちの方じゃないかしら」

 そう言ってから、加奈子はしまったと思った。

 自分は決してそんなつもりで絹子とつきあっているのではない。利益があるからつきあっていると思われるのは、恥ずかしいことだった。

 もっともその一言で、達也は納得してしまった。

「たしかに君の言うとおりだ。しかし、そのバアさんが気にいってるのは君だろう。俺は家でテレビでも見ているから、好きなようにしてくれ。ただ、ゆかりは見ず知らずの人のところには、行きたがらないと思うよ」

 達也はもうその話はやめようとでもいうように、さっさと家に向かって歩きだした。

 だが、一日中家で留守番をしていたゆかりは、その新しい親戚に興味を覚えて、ぜひ自分も行ってみたいと言いだしたのだった。

 

 その夜のことである。

「こんばんは」

 加奈子が、ゆかりを連れて津田家を訪ねると、奥の部屋から、絹子が小走りにやってきた。そして、まるで賓客を迎えるように廊下に正座して、じっとゆかりを見つめた。

 ゆかりは戸惑い、瞬きしながら母親にピタッとくっついた。

 加奈子もちょっとびっくりしてしまって、「これが娘のゆかりです」と、ぎこちなく紹介した。

 そんな母子の様子を見ていた絹子は相好を崩し、孫娘を迎える祖母の顔になった。

「あなたが、ゆかりちゃん? まあ、なんてかわいいの。お母さん以上の美人になることうけあいね」

 子供はおだてに弱い。

 おまけに絹子の誉め方がうまかったので、それだけでゆかりはこの老婦人が気にいったようであった。

 ただ加奈子は、ちょっと違和感を覚えた。

 なんと言えばいいのだろう。初対面にもかかわらず、絹子はすでにゆかりのことをよく知っていて、しかも――こんな言い方はおかしいかもしれないが――警戒しているような気がしたのだ。

 でも、そんなはずはないと思い直した。

 居間にあがると、テーブルにはケーキはもちろんのこと、ピザ、スイーツ、フライド・チキン、中華と、いますぐたくさんの子供たちを集めてパーティーができそうなほどの料理が並んでいた。

 そして正弘が車椅子に腰かけて、相好を崩してゆかりを見つめていた。

「津田さん、こんなごちそうを用意していただいて、本当に申し訳ありません……」

 加奈子は恐縮した。

「お友達を招待するのだから、ごちそうするのはあたりまえですよ。もう少し若ければ、自分で料理を作ったのにねえ。さあ、ゆかりちゃん、めしあがって」

 絹子はとびっきりの笑顔を浮かべて、ゆかりにケーキを勧めた。

「おばあちゃん、すごーい!」

 ゆかりが、「いただきます」も言わずにケーキをパクついたので、加奈子はきつく叱った。すると、

「いいの、いいの。私の家では、ゆかりちゃんが女王さまなのよ」

 絹子はゆかりの肩を持った。

 すっかり気分をよくしたゆかりは、そらみたことかとでもいうように母親を横目に見て、ペロッとケーキをたいらげた。

 そんなゆかりを、正弘もとろけるような笑みを浮かべて見つめている。

 加奈子は、この老夫婦は本当に孫が欲しかったのだと、あらためて思った。

 そのとき廊下で鈴の音がして、三毛猫のたまがやってきた。

 見慣れない客がいるので、敷居のところで様子をうかがっていたたまは、おもむろにゆかりに近づくと、彼女の足に背中を擦りつけて親愛の情を示し、ソファーにあがってゆかりの隣にうずくまった。

「ちょっと、ごらんなさい。たまが私以外の人になついているわ。こんなことは初めてよ」

 絹子は、若い娘のような声をあげて喜んだ。

 意気投合した絹子とゆかりは、今度は携帯電話を取りだして、電話番号とアドレスの交換をはじめた。

 加奈子は早く先祖の話を聞きたかったのだが、絹子がゆかりにかかりっきりなので、自分から言いだすこともできずに正弘の食事の世話をしていた。

 そして食事が終わったところで、正弘は神棚にある巻物のようなものを取ってくれといった。

 もしやと思いながらその巻物を手渡すと、正弘は自由になる右手でそれを開いて加奈子に見せた。

 やはり、それは津田家の家系図であった。

 いまの時代に家系など意味はないのだと思ってはいても、何百年にもわたる血の流れにはそれなりの重みがある。 ましてや、それが自分に関係あるかもしれないと思うと、身が引き締まるようだ。

 正弘は系図を指して解説をはじめた。

「三代前に、宗九という人が分家しとるやろ。その人は伊勢で商売をしてえらい羽振りがよかったが、大恐慌のときに破産したんや。その一人息子で松男さんという人がおるが、これが加奈子さんのお祖父さんらしい。九十九パーセント間違いない」

 系図によると、加奈子の曽祖父の宗九は、絹子の曽祖父の末弟にあたる。

 つまり絹子と加奈子は、四代前に共通の先祖を持っていたことになる。

 正弘はさらに解説を続けた。

「うちの系図で信用できるんは、戦国武将の織田信秀からや。この信秀には信長と、信行という二人の有力な子供がおった。野心家の信長は、人望のある弟の信行さまを暗殺して織田家を継いだのやが、わが家はこの信行さまと、濃姫さまの間に生まれた信清さまを開祖としておる」

「濃姫さま?」

 加奈子は、思わず訊き返してしまった。

 加奈子は歴史には興味はない。ただ、彼女が芸能活動をしていたのは、あらゆるメディアで信長がもてはやされた時期だった。事務所にも、信長の妹のお市を演じてブレークした先輩がいて、いつ信長がらみのオーディションがあるかわからないからと、信長に関する資料をずいぶん読まされた。

 確かに、濃姫は実在の人物でありながら、生死について記したものが少なく、さまざまな説がある。でも、信長の弟と濃姫が愛し合った、というような話は聞いたことがない。

「もちろん濃姫さまは信長の正室や。だが津田家の伝承によると、濃姫さまは側室の生駒の方を溺愛する信長に愛想をつかして、信行さまと結ばれた。そして信行さま亡き後、この伊勢に逃れられたということになっとるのや」

「すごい、ロマンチックな話ですね」

 加奈子は、とりあえず相槌を打った。

 すると正弘は、さらに力をこめた。

「生駒の方の話は、前野家文書が発見されて有名になったが、わしの話は伊勢の賀茂家文書に詳しく書かれておる」

「あなた、もう歴史の話はおやめなさいな。若い人はそういう話は嫌いですよ」

 と、絹子が口をはさんだ。

「好きとか嫌いとかではなく、城戸さんはうちの一族なんやから、ちゃんと知っといてもらわなあかん」

 正弘は、珍しく反論した。

「大切なことは、加奈子さんやゆかりちゃんには、私と同じように濃姫さまの血が流れているということなんです」

「そりゃあ、そうだが……」

 なにか言おうとした正弘は、突然苦しそうに右手で胸を押さえた。

「どうしました?」

 加奈子は、慌てて正弘の背中をさすった。

 正弘は歯をくいしばり、額に脂汗をたらしてうめいた。

 さっきまで猫と遊んでいたゆかりが、不安そうに正弘を見つめている。

 加奈子がさすっているうちに、正弘の胸の痛みは収まったようだが、それでもまだ不整脈が感じられた。

「奥さま、万一のことを考えて救急車を呼んでください。病院に行ったほうがいいと思います」

「そんな大事(おおごと)なの?」

「ええ。なんともなければ、それでいいんですから」

 加奈子は、なにか重大な発作の前触れのような気がしてならなかったので、ためらっている絹子をさしおいて救急車を手配した。

 そして達也に、ゆかりを迎えにきてくれと電話をかけたのだが、達也はいま伊勢市にいて、塾の生徒が問題を起こしたので、緊急の面接をしているところなのだという。

 よりにもよってこんなときにとは思ったが、ともかく救急車には絹子を同乗させ、加奈子は自分の車にゆかりを乗せて、後を追いかけた。

 そして、以前ゆかりを診察してもらった伊勢市の病院に到着したとき、救急車から降ろされた正弘が、二度目の発作を起こした。

 加奈子の耳に、救急隊員が「心筋梗塞だ!」と、叫んでいるのが聞こえた。

「心筋梗塞とはかぎりません。肺塞栓の可能性もあります。そのことを先生に伝えて」

 加奈子が声をあげると、当番の看護師は、わかったというようにうなずいた。

 

 それから二時間ほどして、時計の針が九時をまわり、疲れたゆかりが眠ってしまったところで医師がやってきた。

「ご主人は、ベッドに横になっている時間が長いので、腿の静脈に血栓ができていたのです。それが剥がれて、肺塞栓を引き起こしたのです。まだまだ予断は許しませんが、生命の危機は脱したと思います」

 医師は病状を説明した後で、加奈子が肺塞栓の可能性を指摘してくれたおかげで助かったのだと、彼女を誉めた。

 そして明日の朝までは面会できないと言われたため、加奈子は自分の車で、絹子を家に送っていくことにした。

「ゆかりちゃん、せっかく遊びにきてくれたのに、ごめんなさいね」

 助手席に乗り込むや、絹子は本当にすまなそうに謝ったが、ゆかりは後部座席で寝入ってしまい、目を覚ます気配もない。

「気になさらないでください。この子にも、いい勉強になったと思います」

 と、加奈子は絹子を励ました。

「あなたには、本当にお世話になったわね。ありがとう」

「とんでもありません。東京にいたころ、担当していた人が同じような症状になったことがあるので、それを憶えていただけです」

「介護というのは、大変なお仕事なのね。いま、あなたが担当しているお年寄りにも、容態の悪い人はいるの?」

「いいえ。ただ、お酒のすごく好きな人がいて、ちょっと心配しているんです」

 加奈子は、松井のことを思いだして、そう言った。

「その人は、内臓の具合が悪いの?」

 絹子は、さりげなく訊いた。でもその口調が、微妙にいつもとは違っているような気がした。

「はい。肝臓が少し……」

「そう。その程度なら、お酒くらい大目にみてあげなさいな。お年寄りは、みんな口に出せない辛いことを我慢していますからね」

 絹子は、感情を包み隠して微笑した。

 けれども、自分にも他人にも厳しい絹子が、そんな優しい言葉を口にすることはめったにないので、加奈子は少し驚いた。

 そしてふと、絹子は松井のことを知っているのではないだろうかと思った。

 

 

 加奈子とゆかりが津田家で歓待されていたころ、一人残された達也は、リビングルームのクーラーをつけっぱなしにして、床に寝転がってビールを飲んでいた。

 達也は南淵の塾で働くようになってから、朝早くから深夜まで生徒の指導にあたり、休みらしい休みは取ったことがない。

 久しぶりの休日に、家族そろって外食するつもりだったのに、一人ぼっちで残されたのは、なんとも言えず侘しかった。

 もちろん、津田家に行きたくないと言ったのは自分だし、新しい親戚が見つかるというのは大変なことなのだから、加奈子を責めるのは酷だとも思う。

 しかし、理性で感情をコントロールすることはできなかった。

 そのとき、庭でガシャンと大きな音がした。

 びっくりしてテラスの窓を開けると、すぐ目の前にいた鷺がグワッと声をあげて飛びたった。

 達也は、思わずのけぞった。

 恐る恐るあたりを見まわすと、鷺の飛びたった後には、朱色の塗料を塗ったガラスの破片が飛び散っていた。

 加奈子が松井老人から譲り受けて、屋外にかけておいた八卦鏡が、バラバラに打ち壊されているのである。

――なんだって、鷺がこんな悪戯をするんだ? ゆかりがガラスを踏みつけたら、たいへんじゃないか。

 舌打ちしながら、箒でガラス片を掃き集めはじめたとき、リビングボードの上に置いた携帯電話が、呼びだし音をあげた。

 慌てて電話に出ると、「城戸先生ですか?」と、緊張した女の声がした。

「一色美里です。突然、電話をして申し訳ありません。佐波和人という生徒のことで、先生のお力をお借りしたいのですが、会ってはいただけないでしょうか」

 塾の同僚である美里の声は、心から恐縮しているように聞こえた。

 突然の電話をいぶかしく感じたものの、達也は郊外のレストランで会うことにした。

 

 その店は伊勢神宮の東側、朝熊山スカイラインと呼ばれる観光道路に入る手前にある。

 観光客が多くて、地元の人はあまり足を向けない店だから、ここを選んだのかもしれない。

 店内を見まわすと、奥まった席で彼女が待っていた。

 そして達也が入ってきたことに気づくと、慌てて立ちあがってピョコンと頭をさげた。

 そんなぎこちない動作にも、どことなく女性らしさが感じられて、塾で顔をあわせているときよりも好感がもてた。

「塾では、きみの方が先輩なんだから、あまりかしこまらないでくれよ」

 達也はそう言いながら、目線で話を促した。

 すると美里は休日に呼びだしたことを謝った後で、「佐波和人という生徒をご存じですよね?」と、切り出した。

「もちろん。ぼくの最初の授業で発言してくれたし、頭のいい生徒だからね」

「彼が、この一週間ほど塾を休んでいることはご存じですか?」

「ああ。実力テストも、受けていないようだね」

「そのとき、先生はまっさきにフォローの電話を入れられたんですよね?」

「どうして、知ってるんだ?」

「佐波くんのお母さんは、私のピアノの先生で、昔からの知りあいなんです」

 美里の話に、やはりここは東京とは違うと、達也は苦笑した。

 伊勢は人口十五万人あまりの、典型的な地方都市だ。

 江戸時代以来の地縁や血縁がいまだに根を張っていて、なにかのはずみにふっと顔をだすことがある。

 気に入らない人の悪口を言っていたら、相手がその親戚だったなどということは日常茶飯事だ。

 これはその逆のケースだが、自分の行動が知らない間に他人に知られているというのは、あまり気持ちのいいものではない。

「佐波くんは、塾を辞めると言いだしたんです。いえ、塾だけではなく高校もやめて、東京で音楽のプロデューサーになる勉強をすると言うんです。だから先生から、思いとどまるように説得していただけないかと思って、お電話してしまったんです」

「ちょっと待てよ。ぼくはこの塾で生徒を教えはじめて、まだ二ヶ月だよ。特別彼と親しいわけでもない。ぼくの言うことなんか、きくはずがないだろう」

「いいえ。城戸先生は、生徒たちの間でとても人気があるんです。お母さんによると、佐波くんがいままで誉めたことがある講師は、城戸先生ただ一人なのだそうです。だから……」

 美里は哀願するように、達也の目を覗きこんだ。

 たしかに達也自身、生徒に慕われていることは自覚していたし、佐波和人という生徒にも好感を抱いていた。

「しかし、本人が音楽をやりたいと言っているのにダメだというのは、ぼくの流儀じゃないな」

「わかっています。私はむしろ、彼が明らかに間違っている部分を指摘してやって欲しいんです」

「というと?」

「はい。彼は音楽の仕事をするのに、普通の勉強は必要ないと思っているんです。それは違いますよね?」

「そりゃあ、そうだ」

「だとしたら、それを先生の言葉で語ってあげて欲しいんです。お願いできますか?」

 こうして話している間に、達也は美里が本当に生徒のことを心配しており、思いつきで自分に電話をしてきたのではないということがよくわかった。

「わかった。引き受けよう。彼の家を訪ねればいいのかな? それともどこかに呼びだすとか?」

「いま、彼の家に電話をかけます。直接話してあげてください」

 そう言って携帯電話を取り出すと、美里はすぐに電話をかけた。

 そして和人の母親と、ついで本人と話をした後、達也に電話を渡した。

「もしもし、佐波くんか?」

 達也が声をかけると、和人は面倒くさそうに「そうだよ」と応えた。

 ちょっとためらったものの、達也は言葉を継いだ。

「ぼくは、君の決心を変えさせるために電話してるんじゃないよ。君が大きな勘違いをしているから、話しておこうと思ったんだ」

 そこで相手がなにか言いかけたが、かまわずに達也は言葉を継いだ。

「きみは、音楽のプロデューサーになりたいそうだが、プロデューサーというのがどういう仕事なのかわかっているのかい?」

「売れる音楽を作る仕事だよ」

 和人は、ケンカ腰で言い返してきた。

「それは半分は当たってるけど、半分は違っているぞ。プロデューサーの役割は音楽を作ることだけじゃない。いい音楽を作るために資金を集めて、宣伝することも大事だ。そのためには音楽の知識も、法律の知識も、経済の知識も必要なんだよ」

「ほんとか? ミュージシャンからプロデューサーになった奴に、そんな知識はないと思うけどなあ」

 和人の声音が、微妙に変化した。

「そういう人たちは金も名声もあるから、いろんな人がバックアップしてくれるんだ。でも普通のプロデューサーは、実務知識が必要なんだ。だから音楽の勉強をすると同時に、大学に行っていろいろな知識を身につけるんだ。きみなら、やれると思うよ」

 達也がそう言うと、しばらく考えこんでいた和人は、「わかった」と言って電話を切った。

 おそらく和人は、考え方を変えるだろう。しかし、本当にこれでよかったのだろうかと考えこんでいると、「ありがとうございました」と声がした。

 ハッとして顔をあげると、美里が微笑んでいた。

「お話をうかがっていて、とても勉強になりました。やっぱり城戸先生に相談してよかったです」

 心からの敬意をこめてそう言われ、いささか照れたとき、自分の携帯が呼び出し音をあげた。

 加奈子から、津田正弘が急に具合が悪くなったので、ゆかりを迎えにきて欲しいという電話だった。

 津田夫婦に振りまわされているような気がして、渋っているうちに、加奈子は電話を切ってしまった。

「お時間をいただいて、本当に申し訳ありませんでした。ご家族とのお約束もあると思いますが、よかったらお夕飯だけでも、ごちそうさせていただけないでしょうか?」

 そう言われて、達也はまだ食事を注文していないことに初めて気がついた。

 だが、加奈子が苦労しているときに、自分が他の女性と食事をしているというのも気がひけたので、このまま帰ることにした。

 そして立ちあがりかけたとき、美里がためらいながら尋ねてきた。

「あの、先生は夜の志摩半島をごらんになったことはありますか?」

「いや、恥ずかしいけど、ぼくはこっちに来てから休みに外出したことは一度もない。夜はおろか、昼間の海さえ見たことはないよ」

「ほんとに? ウソでしょ?」

「マジだよ」

「そんなのダメよ。せっかく伊勢に引っ越してきたのに、海に行ったことがないなんて。先生さえよかったら、いまから行きませんか? いえ、そんなに急に言ったってダメですよね。都合のいいときに案内させてください」

 言葉つきは穏やかだが、その目はさっきまでとは違って、なにかを訴えるように、じっと彼を見つめている。

――これは、デートの誘いなのか?

 達也はためらった。

 なぜなら、達也は美里を気に入ってしまったからだ。

 一度二人きりで会うと、二度、三度と会わずにはいられなくなるかもしれない。それなら最初から触れあうべきではあるまい。

 そう思って唇を開きかけたとき、美里がテーブルに乗せていた左腕をなにげなく動かした。

 いままでまったく気がつかなかったけれど、ほっそりとした左の手首に、リストカットをしたとしか思えない、白っぽい筋があった。

 一瞬、達也は息を呑んだ。

 美里はなにもいわずに手を翻して、傷跡を隠した。そして達也の左腕をじっと見つめた。

 そのとき達也は、自分でも意識しない間に、「いつか、行こう」と、口にしてしまっていた。