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デス・ヘッド Death's Head

第三章 濃姫の伝説 
 

 
 翌週の金曜日、加奈子は町役場に勤めてから初めての休暇をとった。
 残業時間が規定を大きく上まわってしまったため、代休をとるように命じられたのである。
 その朝はゆかりを送り出してから、ひさしぶりにのんびりして、たまった新聞を読みはじめた。
 東京にいると、東京を中心としたニュースが、日本全国に同じように配信されていると思いがちだが、伊勢の新聞には地元の記事が多いのだという、ごくあたりまえのことに最近気がついた。
 その中には仕事に役立つ情報も多いので、近頃はできるだけ新聞の県内版には目を通すようにしている。
 何日か前の県内版に、伊勢市内の図書館を特集した記事があった。
 軽く目を通して紙面をめくろうとしたとき、伊勢資料館というところで、『加茂家文書』を公開しているという一文が目に入った。
 先週、津田正弘は発作を起こす前、『加茂家文書』には津田家と関係のある記述があると言っていた。
 読んでみる価値はあるかもしれないと考え、加奈子は地図で場所を確かめると、車で市内に向かった。
 
 伊勢資料館は、博物館や大学が集中している倉田山の麓にあった。
 道路を見下ろすように建てられた大きな鳥居があり、付近には月讀宮、倭姫神社など由緒ある神社がいくつもあり、歴史を感じさせる美しい街並みが続いている。
 明治時代に建てられたという資料館もそれなりの風格があり、入り口を入ったところのガラス棚には、江戸時代に使われていた伊勢暦が年代順にずらりと並んでいる。
 これだけの暦のコレクションは全国的にも珍しいはずだが、すすけたガラスの棚に展示してあると、単なる古本のようにしか見えないのはもったいない。
 この資料館は、内装をよくしたり、広告をうって客を集める必要はないのだろう。加奈子以外に来館者はいなかった。
 その奥の受付には、『加茂家文書』公開中という手書きのポスターがはってあり、厚ぼったい紺のブレザーを着た学芸員が、上目遣いにじっとこちらを見ていた。
 年のころは三十四、五というところか。知性的な整った顔立ちをしてはいるが、いかにも気難しそうな男だった。
 加茂家文書を閲覧したいというと、男はおもむろに立ちあがり、書庫から和とじの本を持ってきた。
 その本を開いた加奈子は、すっかり面食らってしまった。
 もちろん原本ではなく、閲覧用の写本なのだが、原文をそのまま――つまり漢文で――書き写してあるので、なにが書いてあるのかさっぱりわからない。
 現代語に訳したものはないのかと尋ねると、男は「あなたは、国文科の学生と違うんですか?」と訊いてきた。
 大学生と思われていたのだと知って面映かったが、違うと応えると、男はあらためて口語訳を持ってきて、「これが、どういう本かご存知なんですか?」と、訊いてきた。
 そして加奈子がなにも知らないと正直に答えると、丁寧に解説をしてくれた。
「著者の加茂在平は、もともと朝廷の陰陽道をつかさどった名門の生まれです。しかし室町時代の末期、朝廷の力も衰え、京都にいたのでは食べていくことができず、伊勢に移り住んだのです。この本は日記形式の回想録です」
「それじゃ、すごく価値のあるものなんですね?」
「織田家と伊勢の関係を知るという意味では、重要な資料ですな。ただ……」
 男は苦笑いした。
「なかに信じられないような記述もありましてね。全部を史実と思わないほうが、いいかもしれません」
 加奈子は曖昧に肯き、閲覧室で本を開いた。
 文書は京都を逃れた加茂在平が、伊勢に住み着くところからはじまっており、最初に織田家が登場するのは、天文十六(一五四七)年のことであった。
『三月 丙寅 陰陽博士であったころ、織田信秀さまに暦を献上した縁で、ご子息の勘十郎(信行)さまを、お教えするために尾張に出向くことになった。信秀さまには三郎(信長)さまという長男がいる。この人は家中でうつけと呼ばれているが、私の見たところどうしてなかなかの人物である。だが、性格が苛烈すぎるようだ』
 もちろん勘十郎には、小さなころから学問の師がいたに違いない。在平の立場は、臨時の家庭教師のようなものであったろう。もしかすると家庭教師に事寄せて、織田信秀に伊勢の国情を報せるのが、彼の本当の役割であったのかもしれない。この時代、伊勢の国主は北畠家で、織田家は虎視眈々と伊勢侵攻の機会をうかがっていた。
『四月 甲申 勘十郎さまの才能には、ただただ驚くばかりである。四書五経はもちろんのこと、陰陽道の極意も砂が水を吸いこむように学んでゆかれる。もともと勘十郎さまは性格も優しく、武士にはむいておられぬ。いっそのこと僧籍に入れたら、当代一の学僧になられるであろうと、信秀さまにお薦めした』
 大名の息子に坊主になれというのは失礼なようだが、それは勘十郎の将来を案じた、在平なりの好意だったのだろう。
 それから在平は年に一度か二度、尾張を訪ねるようになるのだが、天文十七年に興味深い記述があった。
『六月 丁未 嫡男の信長さまと美濃の斎藤道三の娘(濃姫)のご婚儀がととのった。しかし信長さまは吉野という女を寵愛しておられ、すでに子供を身ごもっているという。このことを斎藤家に知られてはならぬと、織田家の家臣たちは腐心しているようだ』
 この後織田信秀が亡くなったため、在平が尾張を訪ねることは少なくなったようだ。
 それでも、勘十郎との手紙のやりとりは続けていたらしい。天文二十三年に、和歌の指導をしたことが書いてあった。
『二月 乙酉 勘十郎さまから和歌の指導をたのまれた。和歌も武士のたしなみではあるが、公家のごとき恋の歌が多いのはどうしたことか。噂によると勘十郎さまは、濃姫さまに恋をしておられるらしい。信長さまが、いっこうに妻にかまわぬことに同情しているうちに、歌のやりとりをするようになったとか。しかしあの信長さまが、弟のそうした気持ちに気がつかれたら、ただではすむまい。困ったことだ』
 在平の懸念したとおり、兄弟はいがみあうようになり、信長に従う家臣と、勘十郎を守り立てる家臣の争いがはじまった。
 そして弘治三年の冬。
『十一月 癸丑 尾張から使者がきた。勘十郎さまは、信長さまを見舞うために清洲城に入られたところ、川尻秀隆らに切られたという。むごいことだ。勘十郎さまが私の諌めを聞き入れてくだされば、こんなことにはならなかったのに』
 このとき信長は病気と称して城に閉じこもり、見舞いに訪れた弟を謀殺したのである。
 短い文章に、愛する弟子を亡くした悲しみが凝縮されているようだ。だがこの一文を読んでいる最中に、加奈子は軽い眩暈を感じた。
 この文章を目にしたとたん、記憶の封印が打ち破られて、いつか見た夢がなまなましく蘇ったのである。
 観世音菩薩に向かって、ひたすら祈っていた女。そして切り取られた首を持ってやってきた男。
 あのときの哀しさや怒りがふいに蘇って、胸が押しつぶされそうに苦しくなってきた。
 もしかしたらあの夢は、信長が殺した弟の首をもって、濃姫のところにやってきたところではなかったのだろうか。
 まさか、そんなことはありえない。どこかで見た時代劇の一シーンが、夢の中に紛れこんできたのだ。それ以外に考えられないではないか。
 放っておけば、どこまでも膨らんでしまいそうな妄想を抑えながらも、加奈子は自分が濃姫の血を引いているかもしれないということを、はじめてリアルに感じた。
 勘十郎の死によって、在平と織田家のつながりは断ち切られたように見えたが、翌年になって思いがけない事態が発生した。
『八月 庚申 赤子を抱いた女人が、北畠具教さまの家臣に連れられて私を訪ねてきた。驚いたことにそれは濃姫さまで、赤子は勘十郎さまの子であるという。しかも姫の美しい顔には、信長さまに切られたというむごい刀傷があった。勘十郎さまが殺された後、その子を宿していることに気づいた濃姫さまは、伊勢の国主である北畠具教さまの元に逃れたのである。そして私に、信長さまを調伏してほしいという。到底、引き受けられる話ではない』
 だがその年の冬、もう一人の陰陽師が信長と敵対して伊勢に逃れてきた。
『十一月 乙亥 津島より、村主大善太夫がきた。村主は津島の牛頭天王社の神官で、陰陽道の秘法を受け継いだ者だが、信長さまに疎まれて、縁故のある伊勢に逃げてきたのだ。村主が濃姫さまに信長調伏の方法をお教えしていると聞いて、お諌めするために訪ねたが、姫さまの祈祷は驚くほど力があった。もともと素質があったのだろうか。もしかすると、この笠縫という土地には呪力を強めるものがあるのかもしれない。しかし、村主のような者と親しくすることは謹んでいただかねばならない』
 と、在平は濃姫の素質を誉めている。だがそんな濃姫の力をもってしても、信長を調伏することはできなかった。
 それどころか信長は今川義元を討ち取り、美濃の斎藤家をも滅ぼして、いまや東海一の大名になりあがった。そして伊勢に向かって進撃を開始したのである。
 永禄十二年、名門北畠氏はついに信長の軍門にくだった。
『十月 甲辰 北畠具教さまは和睦して、信長さまの三男に北畠家を譲ることに同意された。このとき笠縫の村人の中に、濃姫さまが隠れ住んでいることを信長さまに告げるものがあった。信長さまは、ただちに追っ手をさしむけた。濃姫さまは息子の信清さまを私に託し、館に火を放って自害された。』
 在平の日記は、ここで終わっていた。
 この濃姫と勘十郎の間にできた信清こそが、津田家の先祖だというのだ。
 加奈子は歴史の知識がないので、どこがおかしいとはいえないが、ここに書いてあることは、いくらなんでも荒唐無稽すぎると思った。
 そんなことを考えていると、「えらい熱心に読んどられましたが、もう読み終わったんですか」と言って、さっきの男がやってきた。
 ふと時計をみると、本を借りてからもう二時間がたっている。時間の経過も忘れるほど、熱中していたのだ。
「さっき、事実でないこともあるようだと言われましたが、どこがそうなんでしょうか?」
 加奈子のストレートな質問に、男はちょっと困ったようであった。
「まあ……織田信行が殺されるまでは史実が多い。ただし、濃姫が伊勢にきてからは、いわゆる史実とは違いますな」
「フィクションなんですか?」
「そうとは言いきれません。そもそも濃姫について書かれた記録は非常に少ないですから」
「じゃ、ここに書かれていることは、本当かもしれないんですね?」
「その可能性が、ないとはいえませんね」
男は、断定的なことをいわないように苦心していた。だが、
「その子孫が、津田さんの先祖なんですか?」
 加奈子がそう尋ねると、男はびっくりしたように彼女を見つめた。
「あなた、津田先生をご存じなんですか?」
「はい。この本のことは、津田さんにうかがったんです。津田さんって有名な方なんですか?」
「そりゃあ、郷土史家としては実績がありますから。この本の現代語訳も、半分は津田先生がされたんですよ。ところで先生はお元気ですか?」
 思いがけないところで人間関係がつながって、加奈子は少し驚いた。そして正弘の病状を伝えると、男は今日にでも見舞いに行くと言った。
 加奈子が正弘の知り合いだとわかったせいか、男はすっかり打ち解けて、加茂家文書の時代背景や登場する人々について、面白おかしく話してくれたのであった。
「でも、濃姫が信行の子供を産んで、伊勢に逃れたというのはロマンチックすぎると思うんですけど」
 と、加奈子がいうと、男は首を振った。
「たしかに史実とは言いきれませんが、ありうる話なんです。実はこういう本がありましてね」
 と言って、小走りに書庫に駆けこむと、A4サイズに引き伸ばした写真の束を持ってきて机の上に置いた。
「これは、『勢州夜話』という江戸時代の初めに書かれた本の写しですが、ここにも濃姫が笠縫に住んでいたという記述があるんです」
「つまり、二つの本が同じことを言っているわけですか?」
「そうです。だから私は濃姫に関する話は、まるっきり出鱈目とはいえないと思うんです」
「読んでみたいけど……」
 加奈子は、漢字で埋め尽くされた本の写真を、恨めしそうに見た。
「昔の文章って、どうしてこんなに漢文ばっかりなんですか?」
「当時の日本では、教養のある人は、漢文で文章を書くことが多かったですからね。実は、この文章を津田先生に現代語訳してもらおうと思っていたんですが、ご病気だとそうはいきませんねえ」
 男は困ったように頭をかいた。
「ご自分でなさったら、どうなんですか?」
「ぼくの文章は、味もそっけもないので……でもまあ、せっかくの機会やし、濃姫に関係したとこだけは訳して、あなたにもお見せしますわ。それと、遅くなりましたが私はこういうものです」
 立ちあがりながら、男は名刺をくれた。
 それには『学芸員 鏡竜樹』と記されていた。
 加奈子が珍しい名前に注意を奪われていると、「かわった名前でしょう? 家が寺なものですから」と男は笑った。
 

 
 同じ頃。
 資料館からほど近い南都スクールでは、達也が南淵に呼ばれて校長室に入ったところであった。
「まあ座ってくれや。きみは本当にようやってくれる。生徒の評判もええし、ぼくも鼻が高いわ」
 見え透いたお世辞を言いながら、南淵は達也にソファーをすすめた。
「そう言ってもらえると、ありがたい。しかし、まだまだこれからだよ。勝負は夏休みだな」
「そうそう。合宿もやるで、あんじょう頼むわ。ところで、きみは百八銀行になんぞコネでもあるんか?」
「どういうことだ?」
 達也は訊き返した。
 百八銀行というのはこの地方では最有力の銀行であり、南淵も融資を受けている。
「いや、実は百八銀行から、君が東京で開発したインターネットの英会話システムを、三重県で販売しないかという打診がきてね。なんで銀行が、そんなことを知っているのかと驚いたんや」
 南淵は、にこにこ笑いながらそう言った。
 だが、その目は少しも笑っていない。自分の頭越しに、銀行と取引することは許さない。とでも言いたげに、じっと彼を見つめている。
「俺の方が、びっくりだよ」
 事実、達也は地元に知りあいなど一人もいないのだから、寝耳に水とはまさにこのことであった。
「ただ、ネットの英会話システムは、むかし雑誌で紹介されたことがあるから、それを銀行の人が読んでいたということは、考えられるな」
「ああ。そうか、それや!」
 南淵は、ポンと手を打った。
 猜疑心が強い一方で、もっともらしい理屈をいわれると、すぐに信じてしまうのも南淵らしいところである。
「実は、銀行側と今晩話しあいをすることになっとるんやが、君も出てくれんか?」
「それはかまわないが、うちの塾の資金力では実現はむずかしいぞ」
「ええのや。これをきっかけに銀行と深いつながりができたら、うちにとってメリットがある」
 そう言われては断わるわけにもいかず、達也は夜の会合に出席することを引き受けた。
 
 その夜。
 授業が終わって、南淵と二人で指定された料亭に駆けつけたのは、午後九時をまわったころであった。
 奥まった座敷には、銀行の支店長と本店の企画室長に加えて、秘書役の若い銀行員が二人を待っていた。
 そして名刺交換をしたとき、企画室長の『佐波俊之』という男が、意味ありげに彼を見つめて、「お世話になります」と頭をさげた。
 そのとき、閃くものがあった。
 この男は、先日電話で話し合った佐波和人の父親なのかもしれない。
 あの電話をしてから、和人は人が変わったように勉強するようになり、母親からも感謝の電話がかかってきた。
 もしかしたら、この男は礼をするつもりで、この話を持ちこんだのかもしれない。
 達也はそう思ったが、もちろん口にはしなかった。
 それぞれの紹介が終わると、すぐに話題はインターネットを使った英会話授業のことになった。
「基本的なシステムはテレビ会議と同じですから、メーカーに頼めば、機材はいつでも提供してくれます。むしろ教師を育成したり、ユーザーにあわせた教材を準備するほうがたいへんなのです。それは私がやるとしても、はたして三重県下に収益をあげるだけの英会話需要があるかどうかが心配です」
 達也がそう言うと支店長が、「当初は収益のことは心配しなくていいんですよ。まず、うちの銀行のためにそういうシステムを作ってもらいたいのです」と返答した。
「と、いいますと?」
「もう何ヶ月も前から、うちの行員にインターネットで英会話の勉強をさせようという企画が進行していたのです。そんなとき、城戸さんが何年も前に開発された実績があるという噂を聞いて、声をおかけしたのです。ですから、制作費はうちが負担します」
 支店長が説明し終わると、企画室長の佐波が補足した。
「もし、いい英会話の教材ができたら、うちとあなたのところの共同事業として、地元の企業にも紹介したいと思います。そのつもりでいてください」
 佐波は、ぜひ引き受けてもらいたいというように達也を見た。
 すると、すぐさま南淵がそれに反応して、「検討させてください。城戸くんと話しあって、必ずええものを作ります」と声をあげた。
 社長がそう言う以上、口をはさむわけにはいかず、達也はそのシステムを立ちあげるのにどれだけの人手と時間が必要かを、頭の中で計算していた。
 やがて食事と酒がでて、和気藹々とした雰囲気で会合が終わったのは午後十一時すぎであった。
 そして、いつもは社用でタクシーを使うことを禁じている南淵が、達也のために自分で車を手配してくれたのが、なんともおかしかった。
 
 帰りの車中で、達也は少々複雑な気持ちだった。
 銀行は英会話システムのことを知っているくらいだから、自分が東京で事業に失敗したことも知っているだろう。それは仕方のないことだ。しかし、たった一本の電話で子供が立ち直り、それがこれほど大きな成果を生むというのは、ありがたい反面、恐ろしくもあった。
 そのとき、達也の携帯電話が呼びだし音をあげた。
 電話番号を確認せずに受信ボタンを押すと、「先生、今日の会議はうまくいったんですか?」と、女の声が言った。
「美里くん? どうして……」
「佐波くんのお母さんから、聞いていたんです。だから心配で」
 やはりそうだったのかと思いながら、達也は美里の心遣いが嬉しかった。
「おかげで、うまくいったよ。いつかお礼をしなくてはね」
「今夜、ダメですか?」
 突然そう言われて、達也は絶句した。
「いつか、夜の志摩半島ドライブにつきあってくれるって、約束したでしょう。いまなら行って帰って、二時間もかかりません。ダメですか?」
「いいけど、いまどこにいるんだい?」
 その一途な気持ちに衝き動かされて、達也は思わず了解してしまった。
 
 タクシーをUターンさせて伊勢神宮の外宮前で降りると、境内の外に停まっていた白いマークXが、すべるように近づいてきて助手席のドアが開いた。
 美里は顔をこちらに向けながら、目線を交わそうとはせずに、唇をキュッと結んでいた。
――デートって雰囲気じゃない。まるで、決闘にでも行くみたいだな。
 達也は、苦笑しながら革のシートに腰をおろした。
 車内はエアコンがききすぎるほどきいていて、清潔な感じがした。
 そして達也がドアを閉めると、美里は国道に向かってハンドルを切りながら、強くアクセルを踏みこんだ。
 タイヤが路面を引っかいて、キキッと大きな音をあげた。
「ずいぶん荒っぽい運転だな。こんなところで事故を起こしたら、元も子もないよ。ゆっくり行こう」
 達也が冗談めかせて言うと、ようやく美里の口元に微笑が浮かんだ。そしてスピードをあげながら「よかった」と、明るい声で言った。
「なにが?」
「わがまま言ってしまったから、先生が怒ってるんじゃないかと思って」
「きみのような可愛い人に誘われて、怒る奴はいないさ。ただ、ぼくは妻帯者だからね」
 達也が釘を刺すように言うと、美里の顔からたちまち笑みが消えた。
「二時間だけでいいんです。それだけつきあってくださったら、もうわがままは言いません」
 その思いつめたような言い方に、達也は息苦しくなって窓を開けた。
 吹きこんだ夜風が車内の重苦しい空気を払い、肩のあたりで切りそろえた彼女の髪を巻きあげた。
「いったいこのぼくの、どこが気にいって、真夜中のデートになんか誘うんだ。きみにふさわしい男は、他にいくらでもいるだろう」
 それは達也の本音であった。
 彼は加奈子と結婚してから三十代の半ばになるまで、女性に対しては友人たちがあきれるほど潔癖だった。
 他の女性を誘ったこともなければ、誘われたこともない。
 もう十年あまりも、そういう生活をしてきただけに、美里がなにを考えているのかよくわからなかった。
 もしあのとき、手首の傷を見せられなければ、こういう誘いに乗ることもなかっただろう。
 だが彼のそういう思いは、なおさら美里の心を波立たせたようであった。
「人を好きになるのは、理屈じゃありません」
 美里は、叩きつけるように告白した。
 そう言われたら、達也はもう黙るしかなかった。
「塾長が先生のこと、なんと言っているかご存知ですか?」
「いや……」
 そんなことは知りたくもないと思ったが、美里はしゃべりつづけた。
「あいつが死にかけたところを俺が助けてやった。そやから、俺の言うことはなんでも聞くって」
「つまり、東京でぼくが失敗したことは、みんなが知っているわけだ」
「いえ、そういうわけでは……」
「たしかに、あいつならそのくらいのことは言いかねない。しかし彼は、困窮したぼくに声をかけてくれた、たった一人の友達なんだ。その友情は本物だと信じたい。だからこうして働いている」
 達也は苛立ちを抑えつつ、懸命に平静を装った。
「先生、それは甘いです。あの人は損得しか考えない人です。先生が有能だから、貸しを作って、徹底的に利用するつもりなんです」
「それはそれで、いいんじゃないか」
 達也は、さっきまで高揚していた気持ちが、なえてしまうのを感じていた。
 こんな話は聞きたくない。信号で車が停まったら、降りてしまおうとさえ考えた。
 そんな達也の気持ちを察したのか、「うっとおしいかもしれないけど、最後まで聞いてください」と、前置きして、美里は語りはじめた。
「私、いまのアルバイトしながら、名古屋の大学に行っていたんです。そこで、すごく格好いい人とつきあってました。夢中でした。でもあるとき、同じ学部の男の子からエッチなメールを送りつけられて怒ったんです。そしたら『ネットで、ナマを見せてるくせに』と言われたんです。どういうことかわかりますよね?」
 達也は返す言葉もなく、ただ黙っているしかなかった。
「私がつきあっていた男が、知らないうちにセックスしている写真を撮って、エッチ系サイトに売っていたんです。しかも私の写真、アクセス回数がトップだったんですって。笑っちゃいますよね」
 そう言いながら、美里の頬を涙が伝った。
「そのときに、最初のリストカットをしたんです。そして病院にかつぎこまれて、なにもかも終わったと思ったんです。でもそうじゃなかった。その男、私が退院すると、またつきまとってきたんです。もう一回やらせろ。そうでなきゃ、写真をばらまくって。私バカだから、また……」
 嗚咽に言葉がとぎれ、それでも喘ぎながら美里はしゃべりつづけた。
「手首を切ったんです。そのとき見舞いにきてくれたのが南淵でした。どんな風に話をつけたのか知りませんが、南淵は男に二度と私に近寄らないと念書を書かせたんです。そのとき南淵は、私になにも要求しませんでした。もう大丈夫だから、好きなようにしていいよって。そんな風にされたら、だれだって感激しますよね? 大学を卒業してここの専任講師になったとき、私は彼の愛人みたいになってました」
「できれば、そこで話が終わるとありがたいんだけどね」
 達也は自棄ぎみにそういって、窓の外を見た。
 


 車は、志摩の山中を貫く高速道路を走っていた。開け放った窓から吹きこむ風に潮の香りが混じり、遠くに鳥羽湾が見えてきた。
 達也は、美里が自分の過去を話さずに黙っていてくれたら、どんなに素敵なドライブだったろうと思い、早く家に帰って加奈子やゆかりの顔を見たいと思った。
 そして、そんな自分の身勝手に気づいて自嘲した。
「いまから半年前のことでした。彼が海外旅行に出かけたとき、パソコンのウィルスが塾の中で広まったんです。いろいろ調べたら、ネットで侵入したものではなくて、ディスクにくっついてきたらしいということになって、南淵のパソコンもウィルスに感染していないか調べたんです。そのとき、ちょっと古いCDを見つけて中を見たら、前のカレが撮った写真や、南淵とエッチしたときの写真がいっぱい。あの人、そういう人なんです」
 話を聞いているうちに、達也は吐き気がしてきた。
 南淵のいやらしい面にも、そんな男に頼らなければ生きていけない自分にも、そして知りたくもない話を聞かせた美里にも、怒りを感じた。
「そんな男の下で、どうして働き続けているんだ? さっさと辞めてしまえば、いいじゃないか。あるいは弁護士に相談して、告訴でもすればいいじゃないか」
「ええ。弁護士には相談しています」
 美里は、そう言って悲しげに微笑した。
「ただ、いやらしい写真を持っているというだけでは、なんとでも言い逃れができるし、後でなにをされるかわかりません。だからあの人がミスを犯すのを、ずっと待っていたんです。そこに城戸先生が入ってみえたんです」
「ぼくは、巻きこむのにちょうどいい相手だったというわけか?」
「違います!」
 美里は、鼓膜を貫くような声で叫んだ。
「先生は、嘘をつかない人です」
「冗談だろ。ぼくは筋金入りの偽善者だ。自分に都合の悪いことは、なにも言わない」
「そうかもしれません。でも、決して嘘はつきません。言ったことは必ず実行するし、できないことをするなんて言いません。それがどんなにすばらしいことか、だれもわかってないのよ……」
 美里は泣いていた。
 感情が制御できなくなったのか、ハンドルがぶれてガードレールを擦りそうになり、達也は慌てて手を伸ばして車の向きを変えさせた。
 美里は「ごめんなさい」と謝りながらも、スピードを緩めようとはしなかった。そして車はいったん鳥羽市内に入った後で、海岸道路を走りはじめた。
 志摩半島の東側は、切り立った断崖が数十キロにもわたって海に突きだし、その入り組んだ海岸線に沿ってパールロードと呼ばれる自動車道が敷設されている。
 五秒とまっすぐに走れる道はなく、連続するヘアピンカーブを、美里は見事なハンドルさばきで走り抜けていく。
 対向車はなく、後続車もなく、ただ潮風が吹き抜ける暗い道をヘッドライトが切り裂き、その光の中に松林が浮かんだかと思うと、次の瞬間には大海原が眼下に広がり、すぐまた陸地に姿を変える。
 そのスペクタクルな景観には目もくれず、美里は憑かれたように路面を睨みつけ、ハンドルを操っている。
 そのはかなく、美しい姿を見ているうちに、達也の胸の中には凶暴な感情が渦巻きはじめていた。
 美里には、男の嗜虐的な欲望を煽りたてるなにかがある。
 もしかしたら彼女と接した男は、多かれ少なかれ、そういう欲望を感じるのかもしれない。
 そう思ったとき、美里はスピードを緩めて、海に向かって突きだした展望台に車を乗り入れた。
「私、約束は守ります。一時間でここまできました。少しだけ潮風に当たったら、帰ります」
 美里はエンジンを切って外に出た。
 後を追って車外に出ると、びょうびょうと吹きつける潮風が、顔を叩きつけた。
 月のない深夜の海は闇に溶けこみ、岸壁に打ち寄せる波が、幻想的な白い飛沫をあげている。
 美里は無言のままコンクリートの柵をまたぎ越えると、海のほうを向いて、柵に腰をおろした。
 風に吹かれて細い身体が揺らぎ、いまにも前のめりに転落しそうになり、達也は慌てて駆けより抱きとめた。
「いいかげんにしないか! 危ないじゃないか」
「大丈夫です。慣れていますから」
「慣れている?」
「ええ。もう、何十回ここに来たかわかりません。来るたびに、ここに腰かけて海に向かって足を突きだすんです」
「バカだな……」
 そう言いながら、達也は優しく彼女の髪をなでた。
 すると美里は達也の左腕をとり、手首に唇を寄せた。そして、「私の気持ちをわかってくれるのは、先生だけ」とつぶやいた。
「あまり、買いかぶるもんじゃない……」
「ほんとはね、いままで何人もの友達をここに連れてきて、そのたびにいまみたいなことをしたの。たいていの人は、バカって怒ったわ。さっさと死ねばいいのにと言った奴もいる。でも、先生みたいにやさしく撫でてくれた人は、一人もいなかった。いなかった……」
 声は小さくなり、やがて嗚咽に変わった。
 達也は、手首に彼女の涙を感じた。
「この街を離れて、どこか遠くに行けよ。きみにはその方がいい」
 達也は美里を柵からおろして、地面に立たせた。
 すると美里は、「いやだ。先生のそばを離れたくない」と叫んで、首にしがみつき、唇を押しあててきた。
 彼女の唇は花びらのように薄く、甘く、やわらかかった。
 夢中で吸い返したとき、ふいに加奈子の顔が脳裏に浮かび、達也は反射的に身体を離そうとした。
 だが美里は彼の首に腕をまわして、さらに強く身体をすりつけてきた。
 すると、また加奈子の顔が目の前に浮かび、烈しい罪悪感が胸をしめつけた。
 妻を裏切りたくはない。帰らなければ。頭の隅でもう一人の自分が叫ぶ。
 だが、もう達也の身体は欲望に支配され、愛欲を求めて猛りたっていた。
「先生の、好きなようにしてください」
 身体を押しつけながら、美里が囁いた。
 応えるかわりに達也は美里の腰を抱えあげて、車のところに連れて行った。
 助手席の鍵を開け、手探りでシートを倒して美里を横たえると、スカートのホックを外し、抱きしめた。
 小さな叫び声をあげて美里は体をそらし、腿の内側の筋肉が烈しく痙攣した。
 腰に手をかけ下着を脱がせ、左手で腰を抱えるや、達也は荒々しく彼女の中に入っていった。
 快楽の泉は一度では枯れなかった。こんこんと湧きだす愛欲は、体の隅々にまでゆきわたり、二人の身体が同じリズムで円を描きはじめる。
 身体がこわばり、烈しく痙攣しながら美里は頂点にのぼりつめ、小さな唇をいっぱいに開き、悲鳴のような叫びをあげた。
 身体に燃え残った欲望が蒸発しつくすまで、彼女の胸に額を押しあててじっとしていた達也は、眩暈をこらえながらゆっくりと上半身を起こした。
 すると、美里は青白い可憐な顔に、幸せそうな笑みを浮かべて、じっと達也を見つめていた。
 開いた唇から覗くピンク色の舌が、ぞっとするほど艶めかしかった。