見出し画像

デス・ヘッド Death's Head

第一章 伊勢の洋館 
 

 
 四月の下旬。
 伊勢地方では田植えがまっさかりのとある日曜日、達也は南都スクールで初めての授業を行った。
「新学期になってからの、みなさんの英語のテスト結果は見せてもらった。長文読解力はあるけど、発音がいまいちの人が多いね」
 そう言って、達也は教室の中を見回した。
 生徒たちは、この春高校に入学したばかりの新一年生である。
 外見は東京の高校生と変わらないが、全体として真面目な印象を受ける。
 自分のことを言われたと思いこんで頭をかく生徒もいれば、自分は関係ないと見返してくる生徒もいる。やる気のありそうな生徒が多いのが嬉しかった。
「自己紹介のかわりに、まずはぼくの失敗談をみんなに聞いてもらおう。これはアメリカに行ったときの話だ」
 そう言うと、達也はホワイトボードに『フィッシュ・アンド・チップス』『フライド・フラワー』とカタカナで書いた。
「ある日、現地の友達といっしょにレストランに入った。そしたら彼が、フィッシュ・アンド・チップス(F&C)という料理を注文したんだ。みんな知っているかな?」
 達也はホワイトボードを指さしながら、生徒たちに質問した。
 二〇〇三年当時、田舎の高校生でF&Cを知っている生徒は、ほとんどいなかった。一番前に座っていた生徒が、「魚とポテトチップですよね?」と遠慮がちに発言した。
「うん。よくわからなかったので、What kind of food is it? と尋ねた。そしたら友人は面倒くさそうに、「フライド・フラワー」と答えた。でも、フライド・フラワーってなんだろう?」
「花を油で揚げたやつ?」
 べつの女子生徒が発言した。
「実は、ぼくもそう思った。ところが出てきたのは魚のフライとポテトだけで、花はどこにもない。そこで友人にWhere is the flower? と尋ねたんだ。そしたら友人が腹を抱えて笑いだした。なぜだと思う?」
 達也は、教室をグルッと見回した。
 巧みな話術に乗せられて、生徒たちは口々に自分の意見を述べはじめた。
 そのとき後ろのほうで、「フラワーちがいや」と言った生徒がいた。
 声のした方をみると、このクラスの中でただ一人だけ、髪を赤く染めた男子生徒がニヤニヤ笑っている。
 座席表を見ると、佐波和人という名前の少年であった。
「佐波くん、答えてくれ」
 達也が指名すると、和人は頬杖をついたまま答えた。
「フラワーは、花のflower と違うて、小麦粉のflour やったんです。そやから先生の友達は、小麦粉をつけて揚げた魚やと言いたかったんでしょう?」
「そのとおり。きみ、やるじゃないか」
 達也はその生徒を誉めると、テストによく出る発音の問題について解説しはじめた。
 最初の話で生徒たちの心を掴んだおかげで、次々に質問が飛び出し、大盛況のうちに授業は終わった。
 そして教室を出ると、授業を聴講していた一色美里という若い女性講師が話しかけてきた。
 彼女は南淵の秘書のような仕事もしているので、おそらく達也の授業ぶりを調査していたのだろう。
「城戸先生、すばらしい授業でしたわ。うちの生徒たちは、花と小麦粉の発音がそっくりだということを、一生忘れないと思います」
 美里は、称賛の眼差しで彼を見つめた。
 そのさわやかな笑顔がまぶしくて、達也は思わず目を伏せた。
 そして、自分もまだ捨てたものではない。この土地でやりなおせそうだと、自信のようなものが湧いてきた。
「私は数学を教えているのですが、これからもよろしくお願いします」
「いや、こちらこそ」
 社交辞令をかわしながら、達也はふと彼女の視線が、自分の左手首に向いているのを感じた。
 手首には、まだ生々しい傷跡が残っている。それを隠すために、薄いサポータを巻いて長めのワイシャツを着ているのだが、それがかえって目を引いたのかもしれない。
 美里はすぐに視線をそらすと、「慣れない土地でたいへんだと思いますけど、お手伝いできることがあったら、なんでも言ってください」と言い残して、隣の教室に入っていった。
 そのすらりとした後ろ姿に、惹きつけられるものを感じながら、達也は職員室に戻った。
 すると待ち構えていた南淵が、「こっちの生徒はどうや?」と尋ねてきた。
「まじめで、よく話を聞いてくれる。教えがいがあるよ」
「そう言うてもらうと、ありがたい。それより次の授業まで一時間あるし、家を見に行こか」
「家?」
「おお。ええ物件が見つかったんや」
 ためらう達也を無視して、南淵は車のキーを手にして立ちあがった。
 達也は、いまのところは単身赴任なので塾の宿舎に寝泊りしているが、家族を迎えるためには家を買うか、借りるかしなければならない。
 いままでは授業の準備に精一杯で、とても家を探すような気分にはなれなかったが、南淵にここまで言われては断わるわけにもいかず、同行することにした。
 
 塾から車で十分あまり。伊勢市と笠縫町の境を流れる宮川までは住宅が密集しているが、川を越えて五分も走ると、あたりは広大な田園地帯に姿を変える。
 自然が残されているといえば聞こえはいいが、ようするになにもない田舎だ。
 東京生まれの加奈子が、この土地になじめるとは思えず、達也はため息をついた。
 彼の心を読んだように、南淵が言った。
「伊勢市内やったら、なんぼでも物件はあるけど、おたくは笠縫町に住まないかんで、そこがしんどいわな」
 まさにそれが、最大の問題なのだ。
 というのも、加奈子は伊勢市に隣接する笠縫町の役場で、福祉担当の職員として採用される見通しがついた。
 ただし、そのためには町民でなければならないという条件があった。つまり伊勢市に住んだら、仕事に就けないのだ。
「わかってる。だからしばらくの間は借家に住んで、時間をかけて家を探そうと思ってるんだ」
「それも一つの方法やけど、この物件を見たら気持ちが変わるぞ」
 そう言っているうちに、左手に古くて大きな民家が見えてきた。
 そのすぐ先を左折して、車がようやく通れるくらいの細い道に入った。
 その行く手に大きな二階家が見えたとき、達也は思わず目を見張った。
 煉瓦造りの外壁に、緑色の三角屋根がよく映える美しい洋館で、部屋が七つか八つはありそうな邸宅だった。
「どうや、ええ家やろ」
 南淵は得意そうに言いながら、車を門の正面に停めた。
「これは、すごいな。しかし、こんな豪邸はとても買えないよ」
「いや、そうでもないと思うぜ。なんせこの家は、千四百万で売りに出とるんや」
「冗談だろう。建物だけで、確実に五千万はするぜ」
「そやから、掘り出しものなんや。まあ中を見ながら詳しい話をしようや。鍵も預かってきた」
 南淵は、得意げに鼻をピクピクさせながら玄関の鍵をあけ、手招きした。
 

 
 一方、吉祥寺に残った加奈子は、日々の仕事に加えて家の売却までも任されて、目がまわるように忙しい日々を送っていた。
 二億円を請求してきた会社は、あれからなにも言ってこないが、そのことは常に頭から離れなかった。
 しかし、それよりも、転校するのをいやがる娘を説得するのが大変であった。
 娘のゆかりがしぶしぶ納得して、ようやく家族そろって伊勢に行く準備ができたのは、五月初めのことだった。
 達也も前日に上京して、これで見納めになる我が家に泊り、一家そろって車で伊勢に行くことになった。だがゴールデンウィークの真最中とあって、東名高速道路はひどい渋滞で、朝の五時に家を出たのに、名古屋についたのは午後一時すぎだった。
 ゆかりは後部座席で眠ってしまい、運転している達也も眠そうな目をしてハンドルを握っている。
 その手首の傷はもうよくなっているはずなのに、いまだにサポータを巻いているのが、加奈子は気に入らなかった。
 エアコンを入れっぱなしにしていても、三人の吐く息で車内の空気はじっとりと湿っている。
 かといって窓を開けると、排気ガスの混じった熱気が入ってきてたまらない。
 加奈子は気分がめいってしまい、口をきく気にもなれなかった。
 だが紀伊半島を南に進むにつれて交通量が減り、四日市をすぎたあたりから、達也はいままでのうっぷんをはらすように、アクセルを踏みっぱなしで、追い越し車線を走りはじめた。
 速度計は百六十キロを軽く超え、窓の外をびゅんびゅんと景色が遠ざかっていく。スピードがあがるにつれて、加奈子の気分も少しずつ晴れていった。
 そして笠縫インターで高速道路をおりて県道に入ったところで、目をさましたゆかりが窓の外を見て、「あっ、きれいな鳥!」と、声をあげた。
 ゆかりの視線を追いかけると、道の左側には田植えが終わったばかりの水田が広がり、そこに白鷺の群れが舞い降りていた。
 東京では見ることのできない、美しい光景である。
 しかしこれからのことを考えると、いささか憂鬱だ。
 ここは景色を観るために来るならいいところかもしれないが、住むとなると買い物も不便だし、娘の通学もたいへんだろう。
「あなたが気にいった家って、まさかこのあたりじゃないでしょう?」
 加奈子は尋ねた。
「この近くだよ。とにかく、見るだけでも見てくれ」
 達也は、自信ありげに笑った。
 その横顔を見ているうちに、加奈子はじわじわと腹が立ってきた。
「なんだか詐欺にあったみたいな気分だわ。伊勢は歴史のある街でしょ。だから南淵さんから話があったときは、古い石畳とか、格子戸のある家とか、そういうところに住めると思っていたの。でもここは……」
 いささか子供じみてはいるが、それは偽らざる気持ちだった。
 加奈子は、笠縫町の役場で働くためには町の住民でなければならないということがわかったとき、かなり悩んだ。
 伊勢市に住んで、他の介護の仕事を探そうかとも考えたのだが、給与や待遇から考えると、やはりこの仕事を逃すべきではないという結論に達したのだった。
「私って、ほんとに運が悪い女だわ」
 加奈子はぼやいた。
「そう悲観したものでもないさ。すごい田舎だが、ここから伊勢市内までは車で十五分だ。国道沿いには家電量販店からレストラン、病院まで、東京にあるものは何でもそろっている」
「ないのは人家だけね」
 皮肉を口にしたとき、道がカーブして、左側に大きな民家が見えてきた。
 そのすぐ先を左折して、行く手に二階建ての洋館が見えたとき、加奈子は思わず目を見張った。
「どうだい?」
 達也は得意そうに言いながら、車を門の前に停めた。
「これが、あなたの言っていた家なの?」
 加奈子はシートベルトを外すのも忘れて、フロントガラスの向こうの威風堂々とした邸宅を見あげた。
 すると後部座席のゆかりが、「すごい!」と声をあげ、ドアを開けて外に飛び出していった。
 後を追いかけようとする加奈子の手をとって、達也は熱っぽい口調で囁いた。
「俺がここを気に入っているのは、いままで住んでいた家より、はるかに立派だからさ。ここならゆかりに、父親が事業に失敗したから田舎に引っ越したという、惨めな思いをさせないですむ。そう思わないか?」
「それはそうだけど……」
 達也の言葉は、加奈子の心を優しく掴んだ。
 学校が倒産して以来、夫が自分や娘のことを考えてくれたことは一度もないと思っていた。
 でも、そうじゃないことがわかって嬉しかった。しかし、
「いまの私たちに、こんな家を買う余裕はないでしょ?」
 加奈子は、おそるおそる尋ねた。
「いくらだと思う?」
「知らないわ。じらさないで、教えてよ」
「一千四百万」
「なんですって?」
「いっせん、よんひゃく、まん」
 妻の反応を楽しむように、達也は一語一語を区切って伝えた。
 だが、加奈子はむしろ心配になってきた。
「いくら田舎でも、安すぎるわ。なにか欠陥があるんじゃないの?」
「俺もそう思ったから、いろいろ調べてみた。この家のオーナーは、津田さんというこのあたりいちばんの金持ちで、養子を迎えるためにこの家を建てたらしい。しかしその話が破談になったので、売りに出しているってわけさ」
「でもこれだけの家なら、三千万円出しても欲しい人はいるんじゃない?」
「おれもそう思ったが、このあたりの人は、こういう洋館はいやがるらしい。町内では買い手が見つからずに、伊勢市で買い手を探していた。南淵がそれを聞きつけて、紹介してくれたというわけさ」
 達也は、家を見あげて笑った。
 その顔は自信に満ちていて、加奈子がいちばん好きな達也の表情だった。
 加奈子は嬉しくなってシフトレバー越しに達也の左手を握り、そして抑えがたい衝動にかられて、手首に巻いたサポータを剥ぎとった。
 その傷跡はピンク色の筋になって残っていたが、もう目立つほどの大きさではなくなっている。
 しばらく傷跡をなでていた加奈子は、「もう、こんなものはいらないわね」と言って、サポータをグラブコンパートメントに投げこんだ。
 達也は照れ笑いしながら妻の肩を抱き寄せた。そして二人の唇が触れかけたとき、ふいにクラクションの音がした。
 はっとして振り向くと、いつのまにか後ろに白いセダンが停まっていた。
 その運転席では、南淵がニヤニヤと笑いながら手を振っていた。
 
 南淵は、一階のリビングルームに加奈子たちを案内した。
 分厚い木のドアを開けて中に入ったとたん、加奈子はその内装に圧倒された。
 長い間人が住んでいないので、埃がたまってはいるが、床は重厚な天然木の板を張り、光沢のあるパイン材を張りめぐらせた壁板はゴージャスな雰囲気を備えている。
 マントルピースの縁取りに使われているタイルは、おそらくヨーロッパからの輸入品だろう。
 そして南に面したテラスの窓を開けると、庭にはオリーブの若木が枝を広げ、そのまわりにバラの花が咲いていた。
 庭を取り巻く錬鉄製の柵の向こうには、レンゲの花が咲き乱れる草原があり、白や黄色の蝶がひらひらと飛びまわっている。
 さらにその南には、常緑樹が鬱蒼と繁る小山があった。
「あの山は鷺の営巣地になっとってな、朝は鷺が飛びたつのが見えて、絵のような眺めらしいぜ」
 南淵が言った。
「えっ? 鷺ってのは、水辺に巣があるんじゃないのか?」
「水辺におるんは餌をあさるときだけで、塒(ねぐら)は山の中や」
 そんな二人のやりとりを聞き流し、加奈子はテラスに身を乗りだしてまわりの景色を眺めた。
 南側だけではなく、東側の古い民家のまわりにも森があり、西側にも松の木が生えた小山がある。
 この家は三方を木々に囲まれて、北側だけが道路に向かって開けているのだ。
「なんて、きれいなのかしら……でも、近くにある家は、あの民家だけなの?」
 美しい景色に魅了されながらも、加奈子は少し不安を感じた。
 すると南淵はまぶしそうに目を細めながら、西の方を指さした。
「ここの住所は笠縫町大字鹿田やが、その鹿田の中心地はここから五百メートルくらい先で、そこには五十軒くらい家がある」
「そんなに離れているの?」
「加奈子さん、それは東京人の感覚やで。このあたりでは、どこへ行くのも車や。五百メートルというのはほんとの隣や。それにこの町では、ここ三十年あまり犯罪らしきものは起きたことがない」
「そんなに治安がいいのか?」
 達也が横から口をはさんだ。
「みんなが顔見知りやから、悪いことができんのや」
 南淵の冗談ともつかぬ一言に、加奈子はなるほどと思った。
 考えてみれば、ここは日本でもっとも伝統のある地域の一つなのだ。東京と同じような感覚でいては、いけないのだろう。
 するとテラスで大人たちの会話に耳を傾けていた娘が、「ゆかりはここがいい!」と声をあげ、そこにあったサンダルをつっかけて庭に飛び出した。
「待ちなさい!」
 達也は慌てて娘を追いかけていったが、加奈子は元気いっぱいに駆けまわる娘の姿を見て、ここに住もうと決心した。
 結局のところ、大人に振りまわされていちばん苦労したのはゆかりなのだ。
 ここなら娘に惨めな思いをさせなくてもいいという達也の言葉は、正しいのかもしれない。
 そう考えて自分を納得させると、加奈子はさっそく吉祥寺の自宅にある家具を、どの部屋に、どう配置しようかと思案しはじめた。
 

 
 家の契約はとんとん拍子に進み、五月の下旬に一家は新居に引っ越した。
 引っ越し当日、とりあえず大型の家具はそれぞれの部屋に配置したものの、ダンボール箱はすべてリビングルームに積みあげたまま、一家は二階のベッドルームに引きあげた。
 ゆかりは最初、お気にいりのキティーちゃんの枕が見つからないといってぐずっていたが、ベッドに入ると三つ数える間に眠ってしまった。
 加奈子と達也はパジャマを入れたダンボール箱を探しだせず、Tシャツを着たままベッドに入った。
 達也はすぐに寝息をたてはじめたが、加奈子はなかなか眠れずにいた。
 体は疲れきっているのに、頭のどこかにスイッチの切れない回路があって、そこからいろいろな思いが間欠泉のように噴きだしてくる。
 もうすでに人手に渡った吉祥寺の家のこと。ゆかりの学校のこと、そして自分自身の仕事のこと。
 考えてもどうにもならないことはわかっているのだが、考えずにはいられない。
 いつまでたっても眠れずに寝返りをうっているうちに、先に眠ったはずの達也がいつのまにか目をさまして、自分を見つめていることに気がついた。
 きまりが悪くなって目をそらすと、達也が腿に手を伸ばしてきた。
 一瞬、むきだしの電線に触れたような、不快な衝撃が体を駆け抜けて、加奈子は反射的にその手を払って背中を向けた。
 その仕草が、達也の嗜虐的な欲望を刺激したのかもしれない。
 達也はいきなり後ろから加奈子を抱きしめると、右手で彼女の口を塞ぎ、獣のようにのしかかってきた。
 怒りにかられて、加奈子は思いきり夫の手を噛んだ。
 普段の達也なら、それだけで引きさがってしまっただろう。
 だが今日の彼は違った。ひるむどころか一層猛りたち、うつぶせに加奈子を組み敷くと、下着を引きちぎるようにはがした。
 烈しい痛みが下腹を貫き、加奈子は悲鳴をあげそうになった。
 だがその痛みの奥から、なにか別の感覚が首をもたげ、蛇のように背骨を這いあがってきた。
 
 愛しあった二人が眠りに堕ちるのを待っていたかのように、子供用のベッドで眠っていたゆかりが、フッと瞼を開いた。
 その表情は、ふだんの彼女とはどこか違っていた。
 いつもなら夜中に目をさますと、心細くなって必ず母親を呼ぶ口元に、ついぞ見せたことのない大人びた笑みが浮かんでいる。
 そして、熟睡している両親を蔑むようにチラッと見ると、上掛けをはねのけ、ベッドから降りて窓に歩み寄り、背伸びをして掛け金を外すと大きく窓を開けた。
 すると、草木の匂いを孕んだ心地よい風が吹きこんで、カーテンをふくらませた。
 中天には満月があって、白々とした光を地上に投げかけている。
 窓の下には、オリーブの若木が白い小さな花をつけている。
 庭を囲む錬鉄製の柵の外にはレンゲ畑が広がり、その向こうには鬱蒼と木々の繁る小山が、瘤のように大地から盛りあがっていた。
 ゆかりは、その小山を見あげてつぶやいた。
「私を呼んだのは、だれ?」
 するとゆかりの声に応えるように、山の中から飛びたった白鷺が、純白の翼に月の光を照り返しながらゆっくりと庭に舞い降りた。
 そしてゆかりに挨拶するように、長い足をかがめて優雅に頭をたれた。
 それを見たゆかりは、満足そうに微笑みながら手を振った。
 そして鷺が飛び去ると、糸の切れた操り人形のように床に倒れこみ、クークーと寝息をたてはじめた。
 

 
 翌日は一家の再出発にふさわしい、五月晴れのすばらしい天気になった。
 しかし、その天気にそぐわない、ちょっとしたハプニングがあった。
 加奈子が早朝に目覚めると、ゆかりが窓の下で、すやすや眠っていたのだ。
 慌てて抱き起こしたものの、ゆかり自身も、自分がどうしてベッドから出て、そんなところで眠っていたのか、まるで記憶がないという。
 もしかすると、環境が変化したことによるストレスのせいなのかもしれない。 今日は、ゆかりの初めての登校日なのだが、はたして学校に行かせていいものかどうか迷ったが、同じ地域の子供たちが迎えに来てくれたので、行かせることにした。
 慣れない環境で、苦労はするだろう。
 しかし、それは娘が乗り越えなければならない試練なのだと自分に言い聞かせ、加奈子は買ったばかりの軽自動車に乗って、町役場に向かった。
 
 家の前の県道を横切ってまっすぐ北にゆくと、道の両側には柿畑が広がり、その先を川が東西に流れている。
 朱鷺田川という宮川の支流である。その向こうには、田丸城という安土桃山時代に築かれた城の石垣がそびえていた。
 その川に沿った道を西に向かって十分ほど走り、途中で南に曲がって山を一つ越えたところに町役場がある。
 まだ始業時間には間があり、新聞を読んだりおしゃべりしていた職員たちは、加奈子が入っていくと一斉に顔をあげて彼女の方を見た。
 地味な服装をしてはいても、整った容姿や、モデルをしていた時代に身に染みついた立ち居振舞いは、いやでも人目を惹きつけてしまう。
 加奈子自身は男性の視線には慣れっこだが、女たちがどんな風に自分を見ているかはちょっと気になった。
 なにしろ人口五千人のうち、六十五歳以上の老人が二千人を超える町だから、福祉に携わる職員も多い。
 正職員は加奈子をいれて八名だが、その下にはパートのヘルパーが二十名もいて、総勢二十八名のスタッフは課長を除いてすべて女性だ。こういう職場で同性に嫌われたら、なにかと面倒である。
 だが、東京に比べれば人の心もおっとりしているのか、女たちの自分を見る目に、嫉妬ややっかみはないように感じられた。
 これなら大丈夫と、加奈子は密かに胸をなでおろした。
 それからスタッフ全員に紹介され、ひととおりの挨拶をすませると、直接の上司である山口小百合がさっそく仕事を指示してきた。
「ケアマネジャーをしていた人に、ヘルパーをさせるのは申し訳ないけど、こっちの人情とか老人の事情をわかってもらうために、三ヶ月間は町内を巡回してほしいの。やってくれる?」
 小百合は、加奈子を頭のてっぺんから爪先まで遠慮なくじろじろと見ながら、そう言った。
 高飛車なところもあるけれど、豊富な経験の持ち主だということは直感でわかったので、加奈子はしおらしく頷いた。
 それからすぐに町内の地図と、担当する老人のファイルを渡され、今日訪ねる四軒の家を指示されたのだった。
 
 最初の家は加奈子の自宅からも近い、朱野(あけの)という集落にあった。
 朱野は朱鷺田川(ときだがわ)の南側に広がる水田のど真ん中にあり、由緒ありそうな宮の森のまわりに五十戸あまりの農家が集まっていた。
 加奈子が担当する松井満夫という老人の家は、その奥まった一郭にあった。
――この家は、すごい荒れようね。
 車を道端に停めて、加奈子はまじまじとその家を見た。
 築地に囲まれた広大な敷地は、かつての松井家の繁栄ぶりをしのばせる。
 しかし今は雑草が茂るにまかせ、ナンバープレートのない二十年ほど前の軽トラックが錆だらけのまま放置されている。
 資料によると、松井老人は現在八十四歳。太平洋戦争が終わってからソ連に抑留されていて、帰国したのは一九五四年。それからずっと独身でいたため、身寄りも少なく、孤独な暮らしをしているという。
 また、戦場で負った傷がもとで、左足が不自由なために、身体障害者の認定を受けている。肝臓の具合もよくないようだ。
 草ぼうぼうの庭を横切り、外から「ごめんください」と声をかけたが、返事はない。
 横開きのガラス戸に手をかけて力をこめると、ズズズと砂をひっかくような音をたてて戸が開いた。
「ごめんください。役場の福祉課からまいりました」
 明るく声をかけて、靴を脱いであがったとたん、なにかを踏みつけてヌルッとすべった。
 見ると、黴の生えたうどんの切れ端が落ちている。
 不快感がこみあげてきたのをぐっと堪えて靴下を履きかえると、テレビの音のする部屋に急いだ。
 そこでもう一度声をかけて襖を開けると、ベッドの上では、つるりと頭の禿げた赤ら顔の老人が、テレビの落語を見ながらコップ酒をちびりちびりとなめていた。
「新しいヘルパーさんやな? 洗濯物は風呂場の籠に入れてあるで、適当に洗てんか」
 老人はこちらを振り向こうともせず、投げやりに言った。
「松井さん、スケジュールによると、今日はお散歩をしてから、掃除と洗濯をすることになっています。お体のためにも、外に出られた方がいいのではありませんか?」
 加奈子は、わざと大きな声で言った。
「ほっといてんか。わしは体を動かすのは嫌いなんや……」
 面倒くさそうに振り向いた老人は、ハッと息を呑み、それからまじまじと加奈子を見つめて「あんた別嬪やな」と言った。
 加奈子はなんと応えていいのかわからなくなって、黙りこんでしまった。
 松井は好奇心も露に、話しかけてきた。
「あんた標準語をしゃべるけど、東京から来たんか?」
「はい」
「名前は?」
「城戸加奈子です」
「歳は?」
「三十一です」
「独身か?」
「いいえ。夫と小学校三年生の娘がいます」
「ほお。さぞかし娘さんは、かわいいやろなあ」
 松井はカラカラと笑って酒を飲み干すと、「わるいけど、その酒を取ってんか」と、斜め後ろを指さした。
 そちらを見ると、どっしりとした本棚があり、その前に地酒の一升瓶がある。
 すっかり相手のペースにはまりそうになった加奈子は、ここでしっかりしなければと自分を励ました。
「松井さんは肝臓の具合がよくないのでしょう? お酒は控えたほうがいいのではありませんか?」
「余計なおせわや。わしは飯を食うかわりに酒を飲んどる。散歩なんかせんでええから、酌のひとつもしてくれや」
 そう言いながら、コップを突きだした。
 さすがの加奈子も、怒るよりもあきれてしまった。
 東京でもさまざまな老人の世話をしたが、酌をしろといわれたのは初めてだ。
「とにかく、昼間っからお酒を飲むのはやめてください!」
 加奈子は松井の手からコップを奪いとり、洗濯をするために風呂場に行った。
 それからしばらくして部屋に戻ってみると、松井はどこからか出してきた新しい湯呑に酒をついで、うまそうにすすっていた。
 
 松井老人を訪ねたときほどではないにしても、加奈子はどの家でもカルチャーショックを受けた。
 二軒目に訪ねた一人暮らしの老女には買い物を頼まれたが、トイレットペーパーから台所の洗剤まで、一つひとつの品物について買う店を細かく指示された。
 いちばん近い店でも車で十五分もかかる場所にあるので、それでは買い物以外のことはなにもできなくなると諌めたのだが、それでもかまわないと言われてしまった。
 三軒目では、介護の対象者よりも、共稼ぎの娘夫婦のために洗濯や掃除をしてくれと頼まれた。
 これがこの地方の訪問介護の実態なのだと思うと、加奈子は少しめげそうになった。
 そして四軒目は、加奈子と同じ鹿田に住む老人であった。
 訪問するにあたって、あらためてファイルを読み返した加奈子は、ちょっとびっくりした。
 介護するのは津田正弘という八十四歳の老人だが、妻は絹子と書いてある。
 いま住んでいる洋館の前の持ち主が、やはり津田絹子という名前であったことを思い出したのだ。
 家を買うときには代理人と顔をあわせただけで、前の持ち主とは一度も会わなかった。
 所有者が女性だったので意外に思って尋ねたところ、津田絹子はこの地方では一番の資産家で、夫は養子なのだと教えられた。
 もし同一人物なら不思議な縁だと思いながら、加奈子はその家に向かった。
 津田家は朱鷺田川に面した小高い丘にあって、駐車場には小型の四輪駆動車が停めてあった。
 外からはそれほどの豪邸には見えないが、玄関の引き戸を開けて中に入ったとたん、これはすごいと息を呑んでしまった。
 入り口から奥に向かって、黒光りする廊下がつづいており、床には継ぎ目のないスギの一枚板を使い、柱はヒノキの巨木がそのまま使われている。
 東京でも、これほどの家は見たことがない。
 緊張に身を引き締めながらもう一度声をかけると、軽やかな返事とともに奥の障子が開いて、白髪の老婦人が姿を見せた。
 そのとき突然、加奈子は妙な胸騒ぎを覚えた。
 全身がこわばり、わきの下に滲んだ冷汗が、ツーと糸をひいてウエストのくぼみを伝わって下着に吸いこまれていく。
 いますぐここから逃げ出したいという、わけのわからない衝動が突きあげてきた。
 いったい自分は、なにを恐れているのだろう。
 老婦人は縁なしの眼鏡をかけて、いかにも旧家の奥さまといった感じの上品な笑みを浮かべているではないか。
 加奈子は不安を払いのけ、とびっきりの笑顔を浮かべて津田絹子と相対した。
「あなたが城戸さん? 福祉課の山口さんから話はうかがっているわよ。とってもいい人がくるっていうから、期待していたの。さっ、あがって」
 絹子はスリッパを揃えると、軽やかな声でしゃべりながら奥に向かって歩きはじめた。
 いままで、この地方独特の言葉を話す老人ばかり相手にしてきた加奈子は、絹子の標準語に少し驚いてしまった。
 それだけではない。
 顔つきや物腰はたいへん穏やかだけれども、この老婦人には鋼のような芯が通っている気がする。
 この人の相手をするときは、気を引き締めてかからなければならないと、自分を戒めた。
 津田正弘はベッドに横たわって、気の弱そうな笑みで加奈子を迎えた。
 正弘は交通事故で頭部を強打して右脳をやられ、そのせいで左半身が麻痺しているのだった。
 特に左腕は拘縮が進んで、ずっと手を握りしめているので、かすかな異臭を放っている。
 タオルで丁寧に垢を拭いながら指を一本一本開いていくと、指の付け根の皮がむけて、爪が白く変色しているのがわかった。
「手のひらが痒いとか、痛いといったことはありませんか?」
 加奈子がそう尋ねると、正弘は面倒くさそうに首を横に振った。
「では、皮膚科のお医者さまに診てもらっていますか?」
 と問いかけると、絹子が口をはさんだ。
「整形外科の先生には診てもらっているけど、どうして皮膚科に診てもらわないといけないの?」
「はい。白癬菌に感染していらっしゃるようなので」
「白癬菌というのは、水虫やろ? 私は水虫やないぞ」
 正弘が、不快そうに口をはさんだ。
「白癬菌はどこにでもいて、ちょっとしたきっかけで発症するものなんです」
「困ったわね。治療には時間がかかるのかしら?」
 絹子が露骨にいやそうな顔をするので、加奈子はちょっと正弘が気の毒になった。
「このくらいなら、お薬をつけるだけで、すぐによくなると思います」
「ああ、そうなの。それじゃさっそく明日にでも病院に行くわ。教えてくれてありがとう」
 絹子は一転して穏やかな笑みを浮かべると、もう介護はいいからお茶でも飲みましょうと言って、隣の部屋に誘った。
 加奈子が恐縮して辞退すると、正弘も「私のことはええから、家内の相手をしたってんか」と、促した。
 この家の主人は正弘ではなく、絹子なのだということを象徴する一コマであった。
「あなたは若いけど、とっても頼りになるわね。長くこのお仕事をしているの?」
「はい。もうすぐ十年になります」
「まあ、じゃあ大ベテランじゃない。これからも、いろいろ教えてね」
 絹子は楽しそうにしゃべりながらお茶を煎れ、ケーキまで出してくれた。
 今日一日、生活習慣の違いに戸惑った後だけに、こうして利用者と打ち解けることができたのは本当に嬉しくて、最初に感じた警戒心はどこかに吹きとんでしまった。
 そして、しばらく当り障りのない世間話をした後で、絹子はさりげなく、「あの家は気にいった?」と尋ねてきた。
「えっ? それじゃ!」
 やはり売り主はこの人だったのだと、加奈子はあらためて絹子を見つめた。
「山口さんから、今度のヘルパーさんは私の家を買った人だと聞いて、どんな人かと楽しみにしていたの。あなたでよかった」
 絹子は、まんざらお世辞ともつかぬ口調で言った。
 本当に不思議な縁だと思っていると、居間にある電話が鳴った。
 なにか込み入った話のようだったので、加奈子はそっと頭をさげて津田家を後にした。
 そして車に乗りこんだとき、チリンと鈴の音がした。
 なにげなく音のした方を見ると、門のところで、首に鈴をつけた三毛猫が尻尾をピンとたてて、こちらを見つめている。
 生れてまだ半年というところだろうか。いかにも絹子が好みそうな愛らしい猫だった。
 加奈子が窓から手を振ると、猫はミャーと鳴いて敷地の中に駆けこんでいった。
 

 
 一日の仕事を終え、さらにミーティングをして役場を出たのは、午後六時すぎだった。
 仕事が終わると、急にゆかりのことが気になってきた。
 学校はどうだったのだろう。新しいクラスメートに苛められたりはしなかっただろうか。気になりだすと、悪いことばかり想像してしまう。
 家に帰りつくまで待ちきれなくて、運転しながら携帯電話をかけると、すぐにゆかりが出た。
「ママよ。元気でお留守番をしていてくれた?」
 ことさら明るい声でそう言うと、ゆかりは「うん」と返事をしたきり、なにも話さない。
 加奈子の帰りが遅いので拗ねているというわけではなく、しゃべる気力がないという感じの沈黙に、不安が膨れ上がってきた。
「もう少しで家につくから、待っていてね」
「うん……」
 ゆかりは沈んだ声で返事をすると、電話を切ってしまった。
 胸騒ぎがして、制限速度が四〇キロの道を八〇キロですっとばし、駐車場に車を入れると、加奈子は家に飛び込んだ。
「ただいま」と声をかけても、ゆかりはチラッとこちらを見ただけで、携帯電話で誰かにメールを打っている。
 学校で辛いことがあったのだろうと感じた加奈子は、シュークリームと紅茶を準備して、「ねえ、お茶しようよ」と誘った。
 ゆかりは聞こえないふりをしていたが、加奈子がもう一度声をかけると、携帯電話を手に母親の隣に座った。
 しかし、身体が触れるのを避けて、微妙に距離を置いている。
 機嫌が悪いときのゆかりは、いつもこうなのだ。
「学校はどうだった?」
「わかんない」
「そうよね、一日だけじゃ、わかんないわよね」
 加奈子は娘の気分を盛り上げようと、意味もなく相槌をうった。すると、
「ねえ、どうやったら関西弁をしゃべれるの?」
 と、ゆかりが訊いてきた。
 一瞬、それがどういう意味なのか解らなかったが、しばらくして、娘の標準語が、周囲の子供たちに違和感を抱かせたのだと気づいた。
「言葉が、変だっていわれたの?」
「ううん。でも、私がしゃべるとみんな黙っちゃうんだ」
「そう……」
 おそらく子供たちには、ゆかりを仲間外れにするつもりはなかったのだろう。
 けれどもこの地方の人々は、標準語を聞いただけで身構えてしまうようなところがあるのだ。
「ママもね、今日はいろんなことで、びっくりしちゃった。でも一週間もしたらきっと慣れるから、それまで我慢して」
「うん」
 ゆかりは素直にうなずいて、シュークリームをほおばった。でもまだいつものゆかりとは、どこかが違う。
 加奈子は娘を刺激しないように、細心の注意をはらって言葉を継いだ。
「友達に、なれそうな人はいた?」
「うん。同じクラスの楠田信吾くんとはうまくやれるかも。でも、その子は少し頭がよくないの」
「それなら、ゆかりがいろいろ教えてあげなくちゃね」
 やさしくフォローすると、ゆかりはとうとう不満をぶちまけ始めた。
「いっしょに通学するグループに、すっごくいやな男の子が三人もいるの。北条靖がいちばん嫌い。だって平気で女の子を殴るんだよ。その子分みたいな村田健治も嫌い。それから赤松秀行っていう奴は、すごく陰険なの」
「ゆかり、あまり人の悪口を言うもんじゃないわ。第一印象は悪くても、本当はいい子かもしれないでしょ?」
 加奈子が戒めると、ゆかりは堰を切ったように泣きだした。
「東京に帰りたい。佳子や、唯のところに帰りたい。どうしてここにいなきゃいけないの? パパのせいよね。パパの学校がつぶれたからよね」
 子供らしい感情をむきだしにした言い方に、加奈子はドキッとした。
 たしかに達也にも責任はある。
 でも、そのことで達也を責めたくはない。
「パパのせいで学校がつぶれたわけじゃないの。パパは運が悪かったのよ」
「じゃあ、だれが悪いの? 校長?」
「そうね。でも校長だって、好きで学校をつぶしたわけじゃないと思うわ。むずかしいかもしれないけど、そういう運命だったんだと思う」
「そんなのやだ!」
 ゆかりは、涙に濡れた目で母親を睨み、叫んだ。
 加奈子はたまらなくなって、娘を抱きしめた。
 
 その夜達也が帰宅したのは、ゆかりが寝入り、あたりが静まりかえった午後十一時すぎのことであった。
「ただいま。新しい職場はどうだった?」
 居間を覗きこんだ達也は、機嫌よく尋ねた。
「戸惑うことばっかり。東京とはまるで違うんだもん。それより、おもしろい人に会ったのよ」
 加奈子は津田絹子のことを話そうとしたのだが、達也は「ふーん、そうか」と生返事をすると、そのままバスルームに入ってしまった。
 加奈子の胸に、怒りがこみ上げてきた。でもまあ、達也の仕事は順調そうだ。意気消沈しているよりはいいと自分に言い聞かせながら、ふと思いたってカレーの鍋に唐辛子をぶちこんだ。
 しばらくして、タオルで頭をこすりながらバスルームから出てきた達也は、加奈子が夕食の準備をしているのを見て、ちょっと困ったような顔をした。
 たぶん外で食べてきたのだろうとは思ったが、加奈子は素知らぬ顔をしてカレーを盛りつけた。
「きみは、もう食べたのか?」
 達也が訊いた。
「ええ、ゆかりと」
「そうか」
 達也は気のすすまないような顔をしてカレーを口に運び、あまりの辛さにびっくりして、慌てて水をガブ飲みした。
「これ、ちょっと辛すぎないか?」
「そう? 薬味をきかせたのだけど。まずかったかしら?」
「い、いや、うまいよ。ところで、おもしろい人ってのは、だれのことだい?」
 達也は、おもねるように訊いてきた。
 加奈子が、この家の前の持ち主を介護することになったのだと言うと、さすがに驚いたものの、達也はそれ以上なにも訊かずに、さっさと食事を終えて、自分の部屋に行こうとした。
 それでとうとう、加奈子は堪忍袋の緒が切れた。
「あなた、ちょっと待って!」
「なんだ?」
 達也は階段に足をかけたまま、けげんそうにこちらを振り返った。
「あなたの仕事が順調なのは結構だけど、ゆかりのことは心配じゃないの?」
「そんなことはないよ。ゆかりも苦労しているんだろうな。でも、あの娘なら……」
「大丈夫だと思う?」
 加奈子は腰に手をあてて、つかつかと歩み寄った。
「ゆかりは学校になじめなくて、帰ってからずっと泣いていたのよ。あの娘は、好きで引っ越してきたんじゃないんですからね」
「わかってる」
 沈んだ声でそう言うと、達也は足音をしのばせて階段を上がり、そっと寝室のドアを開けて中を覗きこんだ。
 そしてゆかりがすやすやと眠っているのを確認して、静かにドアを閉めた。
 その表情を見て、少しは反省しているようだと、加奈子は溜飲をさげた。
 
6 



 
 加奈子が、キッチンを片付けてベッドに入ったのは、午前一時を少しまわった頃であった。
 それまでは両方の瞼がくっつきそうなくらい眠たかったのに、電気を消して横になったとたん、目がさえてしまった。
 何度も寝返りをうって、ようやく眠りについたのは午前三時頃だった。
 そしてハッと気がつくと、加奈子はどこか高いところから、見知らぬ部屋を見おろしていた。
 頭の隅で、これは夢なのだと囁く声がした。だが夢にしては、なにもかもがあまりにリアルだった。
 ここは中世の貴族か、武家の館なのだろうか。床には檜の板をはりめぐらし、一段高くなったところに畳を敷いて、華やかな小袖を身に纏った、髪の長い女が座っている。
 歳のころは二十歳になったか、ならずか。どこか加奈子に似た、キリッと引き締まった顔立ちの美しい女である。
 だが、これだけの豪壮な館なら、侍女たちの話し声や人馬のざわめきが聞こえるのが当然であろうに、不気味なまでにあたりは静まり返っている。
 だが、その美しい女の不安とやるせなさは、ひしひしと伝わってくる。
 胸がつぶれてしまいそうな不安を堪え、女は観世音菩薩の木像にむかって手を合わせ、一心に呪文を唱えはじめた。
「ナムニケンダ、ナムアジャハダ、ソバカ、ナムアジャラソバカ、インケイイケイ、ソバカ」
 声は聞こえなくとも、女の唇の動きで唱えている呪文はわかった。
 あたかも使い慣れた挨拶文のように、記憶の底から難解な呪文がすらすらと湧きだしてくるのだ。
 これはいったい、どういうことなのだろう。
 傍らには枝を広げた木のような形をした鏡台があり、その枝にかけた金の鈴が、女の祈りに唱和するように音もなく揺れていた。
 と、なにかの異変を感じとったのか、女はピクッと身体を震わせて祈りをやめ、耳をすました。
 ややあって侍女が部屋に飛び込んできて、なにかを叫び、床に平伏して泣きだした。
 女は真っ青な顔をして侍女を問いつめたが、侍女は身を震わせて、顔をあげようともしない。
 なにか恐ろしいことが起こりそうだ。
 一刻も早く、ここから逃れたい。
 逃れたいのに、身じろぎすることもできずに、加奈子はただ傍観者として見つめることしかできないのだ。
――これは夢なのか。夢ならさめて……。
 加奈子は悶えた。
 そのとき御簾をはねあげ、幾人もの従者を従えた男が入ってきた。
 端正な顔立ちの、眼光の鋭い、いかにも癇の強そうな美男子である。
 だが、その男を見ていると、なぜかわけもなく憎しみが沸いてくる。
 なぜ?
 加奈子が男に注意を奪われている間に、女は床に両手をついて頭を垂れた。
 しばしの間、暗い目でじっと女を見つめていた男は、おもむろに後ろを振り返って顎をしゃくった。
 すると後ろでかしこまっていた侍が進みでて、床に膝をつくと、白木の台に乗せた生首を、女に向けて差しだしたのである。
 人形のように美しいその若武者の首は、口元にうっすらと悲しげな笑みを浮かべ、瞼を半眼に閉じていた。
 そして切断面から滲んだ鮮血が、首台を伝って床に滴りおちた。
 いまにも息が絶えるのではないかと思うほど、真っ青な顔で首を凝視していた女は、溢れる想いを堪えきれずにその首を奪いとり、胸にかき抱いて泣いた。
 侍女はおびえて部屋の隅にうずくまり、侍たちは痛ましげにそっと顔をそむけた。
 だが男は冷ややかな笑みを浮かべて、女を見くだしているばかりだ。
――許せない。
 怒りが理性を突き崩し、加奈子は声にならない叫びをあげた。
 加奈子の心の叫びに呼応するように、女は涙に濡れたすさまじい顔で男を睨みつけた。
 その目の奥では、蒼白い情念の炎が、男を焼き尽くさんとするかのごとくに揺らめいていた。
 男はキッと眦をつりあげるや、短刀を抜き放って切りつけた。
 その剣先が女の額を切り裂いた瞬間、加奈子は悲鳴をあげてハッと目をさました。
 そこは我が家の寝室であった。
 とうてい夢とは思えない生々しい感覚におそるおそる額に手をやると、眉間には痺れるような痛みが残っていた。
 そして冷汗が、手のひらをじっとりと濡らした。
 時計を見ると、時刻はもうすぐ午前六時になるところだった。
 隣を見ると、ダブルベッドの真ん中を占領して、夫が眠りこけている。
 傍らの子供用のベッドでは、ゆかりがスヤスヤと寝息をたてている。
 意識がはっきりしてくるとともに、夢の記憶はうすれはじめた。
 錦絵のごとき女たちの装束も、若武者の首も、もうはっきりと思い出すことはできない。
――あの夢はなんだったんだろう。
 急速にうすれていく夢の記憶をたどりながら、加奈子は朝食のしたくをするために立ちあがった。
 するとカーテンの隙間から射しこみはじめた朝日が、徐々に部屋の暗闇を追い払っていった。

https://note.com/aya_nishitani/n/ne3fdb2e33cbc