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エッセイ「桂花陳酒」

震災の津波に自宅が流される前、我が家の庭に金木犀の若木があった。
自宅の新築と、末娘の誕生を祝った記念樹。
まだ幼かった三人の子供を育てるために奮闘していた頃、金木犀の庭にいつも子供たちの声が聞こえていた。
まだ小学生になったばかりの娘が、地面に落ちたオレンジ色の花を両手いっぱいに集めて見せに来てくれたことを今でも覚えている。
小さな手は金木犀の香りがした。

 かつて我が家があった場所に再び金木犀を植えたいと思った時、震災から8年が過ぎていた。荒れ地になってしまい、植物を植えるには適さない場所になってはいたが、この場所に金木犀を植えたいという気持ちは抑えられなかった。
掘ればスコップがすぐに瓦礫や石にあたり、1メートルほどの金木犀を植える穴を掘るにも難儀し、やっとの思いで金木犀を植えたが、1年目、2年目と花はつかず、3年目で数えることが出来る程度の花が咲いた。
そして4年目の秋、自宅跡地に来て車を降りた瞬間から濃い香りが風に漂うまでになった。

金木犀の花がほころぶ季節に、山形で学生生活を送っている末娘が二十歳の誕生日を迎えた。

(生んでくれて、育ててくれてありがとう)

あぁ、LINEの文字で良かった。
この言葉を直接娘の口から聞いたら、私は涙が止まらなかっただろう。

(さっそく今、少しお酒をいただいているところだけど、私、意外とお酒飲める体質かも)
と娘。

(ちょっと、あまり調子にのらないでよ)
私は心配になってしまう。

(はいはい、分かっています。大丈夫)

 翌日、インターネットで金木犀の活用法に関する記事が目に留まった。
毎年、咲いて散って終わりの金木犀の花で何かをしてみたいと考え、いろいろ調べた結果、金木犀でお酒を作ってみることにした。
金木犀を白ワインに漬けたお酒は中国では桂花陳酒と呼ばれ、楊貴妃が好んで飲んでいたと言われる。成人式をこの冬に迎える娘のお祝いに桂花陳酒とやらを作ってみよう。
 翌日、私は自宅跡地に金木犀の花を摘みに行き、オレンジ色の小さな花をひとつひとつ、丁寧に摘み取った。
家に戻ると花をやさしく洗ってやり、ペーパータオルの上に広げる。
キッチンは金木犀の香りに満ちている。
3日ほどして花が乾いたら、白ワインと氷砂糖を入れた保存容器の中に花を
散らす。
手を洗っても洗っても私の指先には金木犀の香りが残って震災前の懐かしい光景が蘇るが、そこに感傷的になる心は無く、金木犀の香りに満ちたキッチンは無常の静けさだ。
飽きもせず、金木犀の小さな花たちが白ワインの中をゆらゆら漂っている様子を毎日観察していると、日に日に花の色が溶け出てきて、透明な白ワインは漬けて2か月経つ頃には濃い琥珀色になった。

 1月、成人式に出席するために娘が帰省する。
その時に、自家製の桂花陳酒を開け、家族でささやかな祝杯をあげたいと思っている。

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