道を探して(第三話)

 イギリスで痛い思い出ある私だが英語の力も昔よりついたし、病状も落ち着いている時期だったので勇気を出して家族にサマージョブという制度をもとに六カ月の就労するという留学がしたい、と正直に話した。両親は考えた末、まずは病状も安定しているし、主治医が薬を多めに出して母親が受け取って足りなくなる前に航空便で薬を送ることにするという策がとれることが分かり私のわがままを聞きいれてくれた。アメリカの同時多発テロが起こったあとのいちばん安いアメリカンエアラインに搭乗したことはよく覚えている。行きは海外旅行がてら母と次女の姉Aがアメリカまで一緒だった。初めの三泊くらいは一緒にサンフランシスコや見て回ったり、ヨセミテ国立公園までガイドと観光したりと良い思い出となった。カリフォルニアの北のほうで就業が決まっていた。母と姉Aとは途中で別れた。就業先はアメリカではっきり伝わる私の仕事内容としてはカーニバルのチケット販売と案内所係でよいと思う。カーニバルは屋外の広い公園の空きスペースに観覧車やメリーゴーランド、ティーカップ、ゴーカートなどの遊園地でのアトラクションを一日で組み立ててしまい、一週間はその土地に滞在して、そのあとまた別の公園に移る、というような移動型遊園地のことであった。カーニバルで働く人の身分は以上に低い。はっきりいって差別されている。支払われる賃金も低い。狭いトレーラーハウスに何人も泊っている。トレーラーハウスも何十台もあった。働いている人はインディアンであったり、黒人であったり、更生者であったり、移民と貧困国からの出稼ぎ留学生だ。このカーニバルでサマージョブの制度を利用して十人の日本人が就業していたが私が就業に着くトップバッターだった。  初のアジア人の就業で皆驚いていた。しかも日本人ということで出稼ぎ留学生は本当に意外に思っていたらしい。出稼ぎ留学生の出身国はスロバキアがもっとも多く、ついでポーランド、ブルガリア、ベルギーだった。彼らの英語はとても上手だった。アメリカのいい加減な団体が仲介に入りさらに日本の代理店を通していたので私たち日本人が語学不足という基準でそのような仕事が斡旋されたようだった。

 カーニバルでの就業はとても楽しかった。仕事はきつかったが人間関係の絆は外国人との間ではよくできていた。チケット売りとインフォメーションの仕事が与えられ、それにお金の管理がチケットショップのブースで私がいちばん正確だからと残業代があるわけではないが売上のカウントも現地のアメリカ人と一緒に残って夜遅くまでやった。深夜カーニバルを移動させるための取り外し作業や掃除も大変だったが日本人の中で私は一生懸命だったので誠意が伝わりそれなりに評価された。段々とカーニバルの就業を辞めて去っていく人が多い中、私は六カ月のビザが有効な期間までアメリカにいたいと思ったので約三カ月くらいをカーニバルで働いて過ごし、週三百ドルもらえる給料をためながら最後はボスに辞める話をしてボスに「君はよく頑張っていたよ。最高だったよ!」とハグをして気持ちよく他の仲間にも挨拶して去ることができた。 さてカーニバルで無事就業を終わらせた私はロサンゼルスのリトルトーキョーの日本人の多い安宿に滞在していた。無料で行かれるカリフォルニア州の州立のフリーアダルトスクール、コミュニティカレッジに毎日通い、英語を何時間も勉強していた。そのスクールは自己申告制でレベルが確定するとそのレベルの授業をいくつでも取ってもよかった。私はインターミディエイト、中級クラスにいた。日本人は少なく私意外には演劇俳優を目指していると話した男の人しか記憶がない。中南米からの移民が大多数だった。そのあと大きく差があって韓国人や中国人がいた。スイスからたまたまきていた中国系スイス人のウィリーはいまでも友達だ。他にもメキシコに帰ってしまったシルビアやデリアは未だにその学校に通っているシシともメールなどで連絡を取り合っている仲だ。 最後はニューヨークで旅を終了した。有効期間ギリギリで日本に帰国した。

 アメリカでのことは全て完ぺきであったわけではない。大きな交通事故も起こした。左ハンドルで運転していたのは私だった。レンタルした車は見事に潰れて大破。私は80マイルのスピード、おそらく140キロくらいのスピードでフリーウェイを走っていて交通事故を起こしてしまったのだ。場所はラスベガスからグランドキャニオンに向かう途中のアリゾナ州だった。
 この件の他にもいろいろあったが全て無事こうして自分のことを語れるのは色々な出来事が今の私に新しい経験と価値観と自信を与えてくれたからだ。。この貴重な体験は精神疾患という病気を持つコンプレックスのあった私を健常者と同じように自分も生きることができるという気持ちにさせてくれる画期的なものだった。私の影を落としていた暗い部分にも光をあててくれるようになった。私は高校時代の発病前くらいまでに精神的な部分で回復していった。慶應の通信の勉強も再開し、スクーリングやレポートを提出し、試験もきちんと受けた。また厳しく難解な授業も積極的にとった。そして果敢にチャレンジする意欲が湧いてきた。英文学のレポートでシェイクスピアのハムレットについて論じなさい、という課題ではAという今まででいちばんいい成績もついた。法政大学時代にイギリス文学に最後のほうで親しんだのを思い出した。 あるとき卒業してから何年も経っているのに急に法政大学が懐かしくなり市ヶ谷校舎を訪れた。びっくりしたのは私が学生時代だったときとキャンパスが変化してまるっきり違うように思えたことだ。ボアソナードタワーという高いビルもあるし、昔の左翼に傾倒していたような薄汚れた校舎で張り紙がべたべた貼ってあった頃とは大違いだ。ボアソナードタワーに入ってみるとエクステンションカレッジの案内があって私は思わず英会話のコースを受講することにしてしまった。あれだけ私には殺風景に移っていた法政大学も今じゃ自分史の中の一部なのだ。エクステンションカレッジの英会話は皆真面目に受けていたがアメリカでフリーのコミュニティースクールに通っていて勉強と人間関係を同時に楽しんでいた私には少々物足りなかった。その上語学学校から派遣されている女性のアメリカ人の講師に「あなたの発音はテレフォンレディーのようで甘ったるくって男性受けにはいいかもしれないけど、もっと直したほうがいいかもね」と言われひどく気分を害してしまい傷ついて最後まで受けることはなかった。
 
 そんなころまた、私は入院することになった。私の悪夢のような日々がまた始まるとは全く思っていなかったのに…

 

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