精一杯生きる醍醐味
『克服』という本を出版した現在の私
あれは、かれこれ10数年前に遡る。
私は子供の頃から作家に憧れていた。
とある、出版会社の宣伝に目がいき、締め切り間際の3日間か4日間で自分の作品を書いて、出版社に送った。二週間もしないうちにその出版社の担当、という人から電話がかかってきた。共同出版という名のもとの自費出版だった。ドラマ化も有りうる、などと調子のよい話がでたが、なんだか少し驚き、この可能性にかけてみようと思いつつ、嫌だな、とも感じていた。しかし、私は高額な代金を払って出版に踏み込んだ。
私は常に、今は亡き父のことが心配で、父が生きていいるうちに何か大きなことを成し遂げて父を喜ばせてあげたいと思っていた。
実際、成し遂げた、とまではいかないものの、父を喜ばすことはできた。
出版したことはそんなに売れなかったがこんなもんでいいい、と今は思っている。3、4日間で書いた作品には急いで盛り込んだ内容や構成に問題があり、読んだ方には本当に申し訳なく、こんなのにお付き合いいただきありがとう、という気持ちである。自費出版はおそらく他人には勧めないと思う。金銭的な問題という意味合いからである。あまりに高すぎるからだ。もちろん金銭面を気にしない方であれば前進する一歩のチャンスだとも思う。
まず、自分史は失敗するものだとどこかに書いてあった。
私は自分が高校3年生のときに精神障害という病を患ってしまったものだから、その自分を覆すかのように、自己に対する承認欲求が人一倍強いのかと感じている。
以前に出版した『克服』は自分の病からまた立ち直っていく様を部分的に取り上げて書いている。
さて、現在の私は7年前に父を病気で亡くし、それを境に精神科に関しては通院と服薬のみで、入退院は一切していない。精神病院やそういった病気に携わるNPOで講演会をする機会を得るほど私は心の病、という面では体調がよい。ここ3年間は障害のある会計年度任用職員として区役所で安定して働いている。
私の最初の病名は統合失調症、次に統合失調感情障害、現在は双極性障害である。
精神の病気は差別や偏見があるし、当事者は皆辛いと思う。次に家族や近い人たちも悩むことは多いだろう。
私はいくつかのネット小説などにも精神病を抱えた自分を吐露しているのでいささか書くことに辟易している。ただ、自分自身の未熟な「書く」という能力のためにまとまってきちんと仕上げたネット小説もない。
精神障害で何が辛かったかといえば、入院中の隔離され保護室というひとり部屋で看護師の中の意地が悪いひとたちに暴力を振るわれたり、セクハラを受けたことであった。
このことについては全て記憶に刻まれているが書く、という作業にえらく疲れるのでこのような事実が入院回数17回ほどの私にはあったこと、また保護室にいる間は家族が面会に来れない期間もあったため、常に孤独で悪夢を見る毎日と戦っていたこと、だけにとどめたい。
障害者と認定を正式に受けたのは発症してから約20年後だった。その間障害を持ちながらも、高校、大学を卒業している。大学は4年制の大学を卒業した後、通信制の大学にまた入学した。それは卒業できず、満期退学だがかなり楽しい学生生活を経験した。アメリカのカリフォルニア州をあちこち旅して回るような移動型巨大遊園地(カーニバル)で半年働いたりもした。
恋愛、というものもしてお付き合いをした方もいたが、私が自分の病気について正直に告白すると皆離れていった。若かったから、ただ遊ばれていたのかもしれない。その辺りは分からないがそういった別れも繰り返して傷ついていた。
東大の博士課程を満期退学した主人と出会ったのは夢のような話である。主人は今までお付き合いした人とは違かった。彼に関していえば、正直に私が精神障害があることを伝えても、「なんだ、そんなこと?」とすぐに受け止めてくれて私たちは出会って3か月後には結婚の約束をして、私の父が「1年間は婚約期間を設けなさい。」と言ったので、それに従った。婚約期間中も私は精神病院に入院した。それでも主人は頭が疲れないように、という配慮で自然の景色や動物の赤ちゃんの写真集などを持ってきてくれた。
こうして結婚をしてから、その後も入退院をしていた私だった。私の場合はショッキングなことがあって不安定になり、結果、入院となる。結婚してからは、主人も任意入院や医療保護入院、強制入院、措置入院の区別が頭で分かっているだけだったので、私は主人の働きかけで措置入院を経験することにもなった。警察署内で女性の警察官と格子の中の拘留所で一晩体当たりしてもみ合っていたこともあった。そういう時は異様なパワーがあるので、女性ひとりの警察官では私を押さえられず、2人の女性警察官が時間をかけて私を押さえつけた。朝方には病院に強制入院だった。この頃のショッキングなことは私にとっては父親の病気が深刻になったことが大きかった。
父は末期腎不全になり、人工透析をすることになった。昭和一桁生まれの父は他人はどう感じるかはさておき立派で筋が曲がらなく信念があった。
幼少期は今は高級住宅地である横浜の山手の丘の西洋館に住んでいた。横浜から往復6時間かけて東京の小学校へ通っていた。フランス語で学校内は会話する私学だった。兄弟はふたり医師になった。父は大学を出ているがもっぱら労働力で家族の経済を支えた。
7年前の父の葬儀には近所の人がひとり参列しただけで、あとは身内のみだった。葬儀に参列者が少なったからといって蔑むことは全くない。
父の人生はあっぱれ、だった。
私は現在、公務員として一応働いているが絵で少しずつ賞をとったりして自分の表現活動は相変わらずしている。
体調としては、精神の方は問題はいまのところはない。ただ、5年前に腎臓の難病が分かり静かに進行している。父の遺伝性の病気を受け継いだのである。
毎日、これでもかというくらい精一杯生きている。そして、その今の自分を大切にして、私の経てきたような、辛く、弱い人たちを助けられるように心がけている。
『克服』という本を出版して感じたことは、「克服」は厳密には難しい言葉である。しかし、前進して希望を持つのはよいことだと思う。
人生の醍醐味は自分自身が納得する旅だから・・・
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