道を探して(第一話)

 思春期に起きたことは、今より深く感情を傷つけ、尚且つ心に痛み響くものか、と傍観者のように思ったりする。事実私は思春期の時もそれ以降も度々辛酸をなめる思いをしてきた。その回数は数えきれないが、それらの経験とは反対に喜び踊る出来事ももちろんあったからだ。
 私は5人兄弟、姉が上に3人、順番は長女、次女、三女、兄がすぐ上にひとりいて、私は5番目の末っ子だった。
 中学に私が入学して、新しい環境に馴染み、勉強やスポーツにも励んでいた時、順調に見えた私の生活に不穏な影が差し込んできた。それは私の両親をはじめ、家族の皆んなの上に暗い雲を立ち込めさせてきた。
 一体何が…
 それは三女の姉の精神が混乱して、精神疾患を発症してしまった、ということだった。
 なんて、可哀想なことだろう!悲痛な思いが私の頭も心も体も貫き、ただただ最善のことが何なのかもあまり分からず、刺激をさせないように姉Mを見守ることだった。M姉さんは高校受験に失敗してしまった。そして、滑り止めの私学に通うことになった。M姉さんは、中学生の時は持ち前のリーダーシップを発揮して、不良で有名だった岡村中学を立て直すために努力した生徒のひとりだった。だから教育者たちからは心強い存在の生徒だった。
 ところが不良校では、誰かが突出するとそのことが目立ったり、不良グループに気に入られず、結局は不良グループからいじめを受ける、というような正義が何かが中学生でも分からなくなる悪循環があった。
 M姉さんは父の話だと高校受験で第一志望の試験でテストを白紙で提出したようであるから、受験の少し前から精神が不安定だったのだと思う。家族として、身近な妹として、そのことに気がつかなかったのは悪かったと思う。
 そして校則が堅くて理不尽な私学に進むと、先ず、先生から、髪型の天然パーマを「パーマをかけているから直してきなさい」ときつく言われ、説明を許されることもなかったため、泣きながら家に帰ってきて、家族に説明を後にして、ストレートパーマをかけに美容院に行ってしまった。私はM姉さんのクルクルっとしたきれいな天然パーマが似合うと思っていたし、好きだった。姉の辛い体験に胸が痛んだ。
 次にM姉さんの学校では、M姉さんの書く毎日の日記に対する先生同士での回し読みが始まった。この高校では、生徒に毎日日記を書かせて担任に提出する、という決まりがあったのだ。M姉さんは、その自分が書いた日記のことで、先生方から叱責されることがあった。日記には主に校則の理不尽さや、学校側が改めた方がいいことを綴っていた。中学生の時リーダーシップを発揮していたM姉さんらしい日記だった。しかし、先生方からみたら、反抗精神丸出しの面倒な生徒に思われたようだ。

 M姉さんは、心が崩れていった。

 最初に症状に気付いたのは妹の私だった。「出かけよう!」と少し興奮気味のM姉さんとふたりで山下公園を歩いていると、M姉さんは急に近くにいるカップルに接近してぶつかるのだった。そしてそれを何回も繰り返した。
 「M姉さん、大丈夫?帰ろう!」と私が両腕を掴み、M姉さんを押さえて、家にバスで帰った。私は帰宅まで胸が震えんばかりの悲しさで、目に涙をためてM姉さんを連れて帰った。

 両親に先ずことの次第を報告した。

 両親は父親の方の兄が耳鼻科医、弟が内科医をしていたため、「どこか精神のケアがよい医療機関を教えてほしい」と相談したようだ。結果としては県立の大きな精神病院を紹介された。
 両親がM姉さんを父の運転する車で、母と一緒に病院へ行ったところまでは私も知っているが、確か即入院になったと思う。
 保護室という隔離部屋に入った。神奈川県立K病院のB病棟の2階の部屋に入院した。母が重苦しく「入院になってしまったの。」と顔を曇らせて家族に伝えた。
 我が家は、キリスト教のカトリックを信仰する家だったので、皆んなで、M姉さんのためにお祈りした。
 父は黙っていたが母以上に強いショックを受けていた。
 病院に見舞いに行ける状態になると、初めてM姉さんの待遇の悲惨さを知り、驚いた。M姉さんは保護室から大部屋に移っていたが広間ではヨロヨロ歩き、口は呂律が回らなかった。顔は土気色で、非常におとなしかったが、手名付けられた猫のように看護師について行ったりするその素直すぎるところにかえって違和感があった。なぜなら、メリハリがあってハキハキしていたM姉さんと別人で廃人のような操り人形のようだったからだ。病院の印象はもうあまりに暗くてジメジメして、古い建物に周りは鉄格子だらけで、見るからに精神病に関する偏見を植えつけるにもってこいのような雰囲気に感じてしまった。トイレは不衛生で垂れ流した便で床が一面まみれていた。

 さて、この時14歳だった私は、とりあえず反抗期などするような環境ではなかったので、必死で今、M姉さんのことで近所からも悪い噂を立てられている家族の名誉のために学業を頑張った。成績を上げてクラスで2番は必ずキープしていた。時々科目によってはトップになることもあった。両親にテストの結果を伝えても、両親にはM姉さんのことが頭の中を占めていて、満点をとった時も、軽く「頑張ったね」と言ってくれるのみだった。私は末っ子だから、甘えていたかもしれないが確実に父からの愛情はより可哀想なM姉さんにと向けられていると感じた。
 また、その頃に私は高校受験をして、長女Kと次女Aが通った学区別でトップの高校に進学したいと思ったが、浪人をして六大学に入った経験があるK姉さんから、姉たちふたりと同じ高校に行かれても中々六大学には入れないから、エスカレーター式で推薦の法政大学女子高等学校に進学した方がよいことを勧められた。私はその時少しばかり悔しかったが姉たちの意見に従った。

 時は経ち、法政大学女子高等学校の
門をくぐり、部活動にいそしむ自分がいた。
 M姉さんは、あの時から何回か入退院を繰り返した。病気がひどく症状にでて大変な時は重い薬を処方され、その副作用のためか夜中に頭や首がそり返るひきつれを起こし、苦しんで叫んでいた。私たち家族はその姿を非常に気の毒に思っていた。首に自分の手をあてがったりして支えたり、枕を高く一部分をしてあげたり、夜中ずっと看病した。それでも無理してM姉さんは退院すると学校に通学しようとした。しかし、父の話だと車が学校に近づき始めると、顔が青ざめ、震えているので引き返した、と。ある時は父は学校の先生に「教室でお宅の娘がおかしくなっている。現場を見に来てください」と言われたこともあった。そして合わなかった高校を退学して、夜間の定時制高校に進んだ。合わなかった高校と父は裁判をしたが結果は和解という形で終了した。
 その後、定時制高校に進み、M姉さんは試行錯誤で努力をした結果、部活動で陸上部や柔道部で活躍し、短大に進学するまでに至っていた。

 そして、今、18歳になった私は…
精神の病を持ったM姉さんを身内としてみてきた私だった…
 まさか自分の人生がこんなにも荒波で揉まれていくとは!
 苦しくて息ができず死んでしまったかのような恐怖にさいなまされる日々がこれから続くとは思わなかった。

 私は精神病院に入院した。

 M姉さんと同じ病院に…

 私は通っている高校が法政大学の附属だったので、大学に進学するための試験を内部でするテスト期間の二日目に、試験そのものを体調がひどく悪く放棄した。三日間もしくはそれ以上はまともに睡眠が取れなかったからだ。頭は疲れて思考は混乱していた。法政大学に進学するための大切な試験だったのに。高校時代は、体育会系の硬式テニス部に入っていたので、他の大学を受験するほど勉強もあまりできていない私だった。せめてエスカレーター式に上がる試験はクリアしたかった。
 だが、私は学校を休んで精神病院に向かって行った。母からは「5,000円あげるからM姉さんの通っていた精神病院に行ってほしい」と私からするとデリカシーのない言葉をかけられた気がした。が、やはり、その判断が適切だったのだろうか。
 そして、病院に連れて行ってくれたのは、なんとM姉さんだった。M姉さんは数年の精神疾患との闘いを乗り越えた。さらにその頃は就職先の切符も手に入れていた。主治医からも、「もう薬は必要ないね」と病院から縁が切れていた。
 私はM姉さんの紹介で、M姉さんの主治医だった医師から初診を受けた。
数時間ほど医師と話していた。思い出すと私が興奮して一方的に話した感がある。医師は言った。「状態はよくなるでしょう」
 先ず、私の精神病院に連れていかれるようになった経緯は要因が複数あったと思う。部活動で後輩とうまくいかなくなってきたことや、亡くなる寸前まで祖母を在宅介護している親戚の家に通い、徹夜をしたり体に無理をかけたこと、また、M姉さんからの私的な告白によるショック、店を経営している父の経済的な苦しさに接していたことなどによる不安感を常にその時期一度に抱えていたことである。
 我が家の親族には精神疾患を患う人は、M姉さん、私以外は、後にも先にもいない。むしろ社会的には医師だったり、恵まれて成功している人が多かった。しかし、たくさんの精神疾患の本を読んだけれど、私には病気になる因子があったのだろう。私の中学時代は正義感いっぱいの性格で、学級委員をやったり、周りの友達とも仲良くしていて、M姉さんの病気の心配以外は問題なく、快活な学生生活を送っていた。しかし、こんな中学時代の私も精神疾患を発症してしまった。
 精神病院から家に帰り、帰宅した私が相変わらず眠らないで動き回ったり、テレビにひとりで呼応する姿を見て心配した両親が私をM姉さんの次はS美まで…と落胆し、非常に深妙な様子で、「病院へ行こう」と再度私を促し、父の運転する車に母と一緒に乗った。私はその時日中から学校を休んでいるのを近所に何か思われないかと勝手に余計なことを心配し、高校の制服を着て病院に行った。
 病院まで着くと、はっきり順番を覚えていないのだが入院が先に決まったのか、検査が先に決まったのか…おそらく今までの手順からいくと、入院が決まったから、心電図などとったのかもしれない。
 古いカビでも生えそうな薄暗い一室で、医師の指示で心電図を受けることになった。心電図を受けるのに技術士の言う通りに私は制服のジャンパースカートを肩から腰まで下ろし、下着のブラジャーを外した。この状態で心電図の技術士は男性だったのだが、自分ひとりが牛耳っているその部屋で、異様に男性として、息をハァハァと荒げて興奮していた。直ぐに終わるはずの心電図が中々終わらす、たいへん不安だった。昔から医師の叔父から、「女性の患者にたいし、男性だけで対処してはいけないよね」と言われていたため、この状況に対して「最低!」と思った。ただでさえ精神病院に入院することで辛く、不安なのにのっけからスタートはこんな感じだった。
 もうやめてほしい…
 早く終わって!
 盗撮されているのではないかと内心思ったくらいだ。 
 そして、大部屋に入院することになった。
 大部屋に入るとまたもや悲劇が…
ちょうど部屋の窓から、両親が入院が決まった私のために入院に必要な衣類や様々な物を取りに帰るため、車で病院を後にする姿が見えた。
 私は「行かないで〜!」と泣きながら張り裂けんばかりの声を張り上げた。
 すると看護師さんと見られる人が4,5人病室に入ってきて、私のパンツをめくり、ブスっと釘くらい太く感じるほど痛い注射を打った。私は尾骶骨をかするようなその痛い注射の後、気絶したかのように一瞬で意識を失った。
 ようやく目覚めた時は、私は自分が今どこにいるのかしばらく認識できなかった。
 6畳あるか、ないかの真っ暗な部屋…むき出しの灰色のコンクリートで床も壁も冷たく、やはりむき出しの和式便器がポツリと置いてある。毛布が一枚あり、私はそれに包まれていたが、ベッドはなく直に床に寝ていたようだ。

 ここは、そう保護室と呼ばれる隔離部屋…

 開かずの間にただただ放り込まれた感がある。私には生きていた人生で初めての大変恐ろしく辛い経験だった。
 家族との日常に一刻も早く戻りたかった。
 あまりに辛くて泣き叫んで、厚い鉄の扉を叩いた、手や腕の力が尽きると今度は、足を使って蹴り上げたり、座った姿勢で両足を前に出してドアを叩きまくった。泣いてる声はもはやかすれ、涙も乾いた。
 私が泣きながらドアを叩いたからといって事態は何も変わらない日々だった。寝てふと目覚めるとお盆に乗せられた食事が床に置いてあった。
 たまに看護師が出入りする時は鍵をかけた後、鎖のジャラジャラという音がして、ドアノブが鎖でがんじがらめにされていることを知り、ぞっとした。
 しばらくして、泣いたり、叫んだり、蹴ったりする気力もなくなり、大人しくしていると、実はそれが病院ではいちばんよい方法なのだと気付かされた。医師と話す機会が与えられ、ようやく保護室から出られるようになった。いちばんは何よりも家族に会いたかった。

 しかし、私の保護室によるトラウマは後にこれ以上に激しく続くのであった。

 年月が経ち、私は大学生になっていた。法政大学のエスカレーター式の内部の試験を病気のため放棄したので、成績がふるわず、法政の二部に進学することになった。二部というと、働いている苦学生や理由がある人を抜かすと、いかにも成績が悪そうに思えて、自尊心が傷つけられた。
 昼間の3時過ぎに通学すると法政大学市ヶ谷校舎に近い外堀の桜並木を下校する普通課程の生徒とすれ違う。生徒同士声をかけ合ったりもするが、私は自分が二部なんだということで激しい落ち込みに気分が沈み、鬱っぽくなってきたりもした。そして、電車で通学する時、悪魔の誘いのようにホームからフラフラッと飛び降りたくなるような衝動に駆られたこともあった。しかし、私が仮に自殺したとしたら、どれだけ父も含めて家族が苦しむかを想像し、それだけは食い止めた。
 今、生きている自分は幸せだ、と自分を懐古するのもしばしばある。
 ところがその時は、自分の乏しい頭の中では、大学の昼間に通っている生徒たちと同じように自分があの時試験を棄権しなかったら、同じような大学生活を送っているだろう、と華やかに見える学生を見て自分を追い詰めてた。私は入学して半年もしないうちに休学に踏み切った。両親には最初、「学校が苦になるから退学したい」と伝えたが、両親の説得により、一年間の休学にしたのだった。
 休学の一年間は、自宅からバスで一本で行かれる観光地で有名な横浜の山手通りにある喫茶店でアルバイトをしていた。手作りケーキが美味しく洋館で素敵なお店だった。母親が見つけた求人記事を見て母の勧めに従いアルバイトすることになったのだ。親は何もしないよりはいいのかとアルバイトを勧めたのかもしれない。私は何の前向きな感情が湧き起こるわけでもなく、ただ淡々とウェイトレスとして接客をしていた。オーナーの息子さんがいつも一緒に働いていて、穏やかな年上のその男性が寛容なタイプだったのでお店の従業員の他のあるバイトの仲も良好だった。病み上がりの私には負担のないアルバイトだったに違いない。オーナーの方は私がほぼ営業日は出勤していたので、「あなたに制服作らないとね」と言っていたが制服のないまま私服で通って一年はあっという間に過ぎようとしていた。
 私は復学への準備がいつの間にかしなくてはいけない時期になっていた。
 まず、くだらないことに思うかもしれないが、復学に先立ち、運動によるダイエットを始めた。薬の太る、という副作用や自分の怠惰な生活によって相当太ってしまったからだ。
 ありがたいことにダイエットは成功した。お金が高いエステサロンでも無駄だったダイエットが自分の意志で運動でなんとか体重を減らしたのだ。見た目も変わり、若いせいか気持ちに多少なりとも自信がついた。

 さて、私の復学が始まった。

 入学式には出ないものの、また1年生としてスタートだ。
 全く家族はその様子を心配するまでもなく、普通の日常の一コマのように通学した。いわゆる無関心とは違うけれど、放任主義なのであろうか?
 私は意外にもこの新しい環境を楽しむことができた。新しい仲間と新鮮な授業。私は心身ともに回復して、以前のような、一年前のような自己卑下した感情を持たなくなった。
 お堀に沿って咲いているほのかなピンク色のソメイヨシノの下で新入生の歓迎会をやっているサークルがいくつもある中、私は履修要項をカバンに入れて仲良くなった友達より一足早く夜桜の道を去っていった。

 一年生で履修した科目で印象に残っているのが体育の授業の「山」だ。「山」では夏に三泊四日で連日登山することとその前の一週間は体育館で体育の授業の一部でバトミントンをやる、というカリキュラムだった。記憶は朧げだが、Tシャツに短パン姿の「山」を履修した生徒で和気藹々と楽しんだ。
 そして8月に入り、「山」のクラスで念願の山に行くことになった。体育館でのバドミントンの授業で結束した男女10人くらいのメンバーで、青春18切符を使って夜大学の前で待ち合わせをして電車に乗って翌日集合場所の長野県の白馬駅に着いた。道中立ち食い蕎麦を食べたり、おしゃべりを楽しく軽く仮眠をとった程度で長野に行った私たちは青春の一コマのようだった。

 私は大学に復学してもこの後卒業しても自分が精神の病気があることを大学時代の友達の誰にも言わなかった。友達は私は、こんな性格で、こういういいところもあるけれど、こんなドジなところや、任せきれないこともあると思っていたかもしれないが普通に接して友達付き合いしていた。
また、まだ精神障害福祉手帳の取得もまだだった。病院には通っても薬を飲まないこともこの頃はあった。

 さて、「山」の授業の話だが最初に登ったのは白馬岳。白馬岳は北アルプス北部の後立山連峰にある標高2932メートルの山だ。長野県と富山県とにまたがっているそうだ。山を登っていくと所々に岩の陰から高山植物の可愛らしい花が咲いていた。とても珍しくて、見ているだけで心がほんわか温かくなる気がした。翌日は唐松岳に登った。こちらも同じく北アルプス後立山連峰にある2696メートルの山で長野県と富山県の県境に位置する。この唐松岳に登った印象は今まで自分が登山した経験でかなりきつく感じたことである。唐松岳から眺めたパノラマは力強く、登山という魅力を大いに感じさせた。最後に白馬大雪渓に登った。いちばん楽な登山ではあったが夏でも雪が残っているため、傾斜が強く苦しい登りはスリップに注意してアイゼンというものを靴底に装着した。 
 そんな三泊四日の「山」だったが、毎日8時間くらい費やした登山の後、周囲が呆れていたが私は合宿所のテニスコートで体力を持て余した同士でテニスを楽しんでした。

 お陰様で体育の成績はAだった。

 そんな私だが精神の病から立ち直っていったように側からも自分としても思うもののそんなに甘くはなかった。

 大学の在学中にも軽い入院したこともあった。入院なのであるから、「軽い」とは決していえないかもしれないが、私はこの後、徐々に精神的にしんどい入院、いや、これ以上に辛い経験はないくらいの入院を30代になってしているので、その私からしたら、軽い入院に感じたのであった。

  一年生が無事終わって自分の成績が出たとき、私は長野県の奥志賀高原のスキー場のあるホテルでリゾートバイトをしている真っ只中だった。仲良くしているサークルの同じ学年の友達に成績表を代理で取りに行ってもらった。後で聞いて自分でも驚くほど成績がよかったので意外だった。。サークルの仲間も一年間明るく過ごすことができた元気でおっちょこちょいの私、しか知らないためとてもびっくりしていた、と友人が教えてくれた。

 今思えば後のまつりではあるが実は法政大学には二部の夜間から一部の昼間に編入できる試験というものがあったらしい。しかし私がその存在に気付いたのはボロボロになって卒業するころのことだった。編入試験問題集もが校内の購買で売られていたらしい。私はなんだかんだ二部を結果として自分で認めたくない、強い学歴コンプレックスがあるようだ。

 その後の学生生活は一年時で成績がよかったことに油断して学業がおろそかになった二年と三年だった。アルバイトをしすぎて学校に行かれない。本末転倒であった。その上精神的には相変わらずデリケートでかかりつけの精神病院で薬をもらい、服薬し、定期的に三週間ないし四週間に一度はカウンセリングも受けていた。当時の主治医は病名もを聞いても「あってないようなもの」とオブラートに包んでぼかすところがあった。それも全て私自身がショックを受けないための配慮だったように思う。薬も粉薬で何と何が入っているのかさっぱりわからなかった。後に個人的に主治医から服薬している自分の薬の名前を聞いて、私は同じ病院で精神を患わっているおじさんに「こころの病の薬が分かる本」という本を紹介してもらい、すぐに書店に買いに赴き、自分の薬の効果や副作用などや何に作用するのかなどを読んでマーカーや付箋をはったりした。こんなふうにいわば病み上がりと一緒の状態であったので授業で受けた「心理学」の授業で先生が精神的な病状のある患者の動向に触れて面白おかしく話している様子にいたたまれなくなり、聞いたとたん「早退させてください」といきなり授業を抜け出したこともあった。

  そんな私は友人や周囲の人に精神的な病気を持っていることを話さなかったので卒業しても全くそんなことがあったなんて知らなかった、という知り合いが多かった。大学在学中に身体の変調をきたし入院することもあったが二週間から四週間くらいまでの幅で数回入退院を繰り返していたので誰も言わなきゃ気付かなかったのだ。精神病院に通っている、という自分を認めたくなくて障害の認定や障害者年金の受給は拒んでいた。私自身、このことは自分が当事者でありながら偏見を持っていることが分かり自分でも自分自身が情けなかった。昔から社会的ないわゆる弱者という立場の人たちへボランティアをやっていたので自分には偏見というものがない、と自負していた感があったが実際は違っていたのだ。また、ポロっと話した自分の病気の噂が広がって意外な接点のない人にまで知られていった経験を高校時代にしていたので二度と同じ轍は踏まない、と自己防衛本能が働いていたことも確かだ。
 1994年の四月の武道館での入学式の出来事を思い出す。私は1990年に入学して一年休学をしているのでちょうどそのころは法政大学の三年生だった。何故その時大学三年生の私がこの年の武道館での入学式に関係があるのかというと二つ年上の兄Kが専修大学に入学した。そしてその入学式がちょうど武道館であり、その晴れ舞台に写真などを撮ってあげるために付き添いで行くことになったのだった。
 兄は兄で可哀そうなことが過去にあった。
兄Kは高校時代の大学受験のころ、全く知らない高校の生徒八人に「がんつけている」と急にバス停の前で頭を中心に暴行を受け、蹴られたり、殴られたりした。そのため受験が思うようにいかず、とりあえず応急処置として入学が簡単な某アメリカの大学の日本校に入学した。しかし、本人には経済を学びたい気持ちがあって特に日本の大学に入りたい、と願っていた。そしてチャレンジした受験で専修大学に入学することになったのだった。兄の気持ちが理解できるから私も入学式についていってあげよう、と思えた。兄はカメラの前でニコニコして満足そうだった。

 専修大学の入学式の帰りに千鳥ヶ淵を歩いてさらに多くの写真を撮った。ところが 家に帰宅したときカメラをうっかり千鳥ヶ淵付近で置き忘れてしまったことに気付いた。兄は残念そうだったが私は落胆せず最後の期待を込めて千鳥ヶ淵周辺の交番に電話をすると「落し物として届いているカメラがある」と警察官に伝えられた。翌日交番に赴き、詳しく置き忘れた場所やカメラのメーカーなどや特徴を伝えると、無事失くしていたしまったと思っていたカメラが自分に手渡され返ってきた。
 晴れ晴れした兄Kの笑顔が頼もしかった。

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