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『坂田一男 捲土重来』@東京ステーションギャラリー

 1920年代にフランスに留学し、フェルナン・レジェに直接学んだ坂田一男は、おそらく当時の日本では、キュビズムとそこから派生する造形の問題を最も深く考察した画家だろう。1933年に帰国した坂田は故郷の岡山にアトリエを構え、東京や関西の都会の芸術運動とは距離を取りながら造形の探求にのめり込む。

 フランス時代には人物をモチーフにしたキュビズム風の作品を多く手がけている。ピカソやブラックらキュビズムの人物像では、人体のパーツが切子面に分割されて部位ひとつひとつに焦点があてられる。あるいはレジェは人体を円筒に還元し、構築しなおした。一方坂田は、対象となる人物が画面上に描かれると、その背景や画面の他の部分との間に相互関係が生じることを問題にしているようだ。ある絵画では、人物は背景をなすフォルムの背後に退き、また別の絵画ではただの色面が人物よりも前景化する(色面の唐突な前景化はアロギズム時代のマレーヴィチを思わせる)。

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 同じモチーフを繰り返し描く坂田だが、「コンポジション」というタイトルの油絵やエスキスで手榴弾を何度も描いている事実は極めて興味深い。画家岡崎乾二郎の解説によれば、坂田の絵画には、壺や器、空気を孕んだ鯉のぼりといった、内部に空間を内包するモチーフが繰り返し現れ、絵画という空間に別の空間が潜在することが示される。ただし、楕円のフルーツのような弾丸に持ち手がついた手榴弾は、その形態自体が魅力的である。画家は、繰り返し描くことで、手榴弾を兵器ではなくオブジェと捉え、その不気味さを緩和させようとしたのではないだろうか。同様に兵士を描いたエスキースでも、ヘルメットのまるいフォルムと斜めに掲げられた長い銃剣が強調されている。


 坂田の作品には、画面の一部が剥落したり、ダメージで絵の具が剥がれ落ちてしまったかのような、穴のある絵画が存在する。穴もまた絵画の中でひとつのフォルムを形成し、経年劣化も作品の一部となっているかのようだ。だが完成後の劣化のみならず、何度もエスキスを描き、一度できたものを描きなおして完成される絵画は、そもそも制作プロセスという時間を内包しているといえよう。とりわけ抽象画となれば、制作プロセスを中断し、ときには前のプロセスに立ち戻り、フィニッシュを決定するのに特別な判断を下さなければならないだろう。坂田の絵画の中には、塗り重ねによってかつて描いた下の絵の具の色が見え隠れしているものや、あまりに塗り重ねたために割れ目の入った部位も存在する。全ての絵画が多かれ少なかれ制作プロセスやその逆戻りという時間を内包しているのだ。


 バルザックの『知られざる傑作』という小説がある。老画家が自分の信念を貫き、十年かけて最高傑作「美しき諍い女」を完成させるが、やっとの事でそれを目にする機会を得た若い画家が見たのは「ごちゃごちゃに寄せ集めて、無数のヘンテコな線で押さえてある色」だけだった。この小説は、あまりに長大な絵画制作のプロセスにおいてフィニッシュを決め損ねた、あるいは常人には理解できない地点にフィニッシュを定めた画家の物語である。
 「黙示録」と題された展覧会の最後の展示室には、「コンポジション」というタイトルの、あるいは題不詳の膨大な数のエスキスが展示されている。これらは黒く塗りつぶされていたり、煙が立ち込めているように不定形であったりして、何が描かれているのか判然とせず、見る者を戸惑わせる。制作プロセスを絵画に内包させるのが坂田の絵画の特徴であるとするならば、これらのエスキスは彼の「知られざる傑作」なのかもしれない。

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