春の歌を、もう一度
また桜を一緒に見てくれる、なんて。
そんな在りきたりな約束に期待をしてから、随分と月日が流れた。言葉だけの、なんの制約もない約束だった。守らなくても、誰も罰を与えない。誰も罰せられることはない。
故に、誰をも強制させることはできない。
去年とも、その前とも、そのさらに前とも同じ暖かな風が頬をなぶる。そうすると、まるで一つだけ欠けていたピースがぴったりとはまるみたいに、僕の中にあの日の僕が帰ってくる。
確か、そう。
花見をすることになったんだ。
クラスのみんなで。
仲のいい男友達に誘われるままにノコノコと集合場所に出向いた僕は、そこで彼女が来ていることを知った。ろくに話したことのない女の子だった。 けれど、ふとした時、僕は彼女を目で追っている自分に気付く。教室に、廊下に、グラウンドに。いつでも彼女を探していた。初恋だった。
クラスのまとめ役だった男がやがて、おーい、と手を上げ、声を上げた。みんなが彼を見ている中で、僕だけがずっと彼女を見ていた。河川敷に場所取ってるから、そっちに移動するぞー。ういーっす。
僕たちはぞろぞろと連れ立って、移動を始めた。
当初、僕と彼女の間には、三人分の距離があった。それが、スーパーの前に来た時には、二人分になっていた。公園の角を曲がると、さらに一人減る。そして、いつの間にか。本当に不思議なのだけれど、河川敷を歩く頃には僕の隣には彼女がいた。まるで、魔法かマジックのように。
『ねえ』
『な、なに?』
名前を呼ばれるだけで、やたらと緊張してしまう。今までだって、何百回も何千回もたくさんの人に呼ばれた名前だったのに、彼女の声が彩る僕の名前だけが特別だった。
『君は、わたしのこと好きなんでしょう?』
その瞬間。
時間が僕だけを一人置き去りにしていった。なんてことだ。彼女が僕を残して、トン、とジャンプする。一人、先に春を行く。視界を埋め尽くす桜吹雪の中で、白のワンピースだけがふわりと浮かび上がる。彼女の赤い靴の周りに落ちていた桜の花弁が、少し遅れてステップを踏んだ。
停止した時間の中で、僕はいつまでも小さな背中を見ていた。その背中が震えていたことになんて、気付く余裕もないままに。
と、答えが返ってこないことが答えだと思ったのか。
「……そっか、違うのか」
彼女がぽつりとこぼした。
どこか残念そうな声。
そして、僕からゆっくりと離れていこうとする。
ああ、待って。違うんだ。だけど、声が出ない。くそ、どうすればいい。どうしたら伝わる? まるで分からない。でも、待って。行かないで欲しい。だから。
ただ、必死になって手を伸ばした。そうして細い手首を掴んでいた。ドクンドクン、と速くなっていく彼女の鼓動を手のひらに感じた。彼女が振り向いたのが、気配で分かる。
別に何かを告げたわけじゃない。そんな勇気、あの頃の僕にはなかった。だけど、それでもよかったらしい。彼女は不意に笑い、当時流行っていた歌を口ずさんだ。
春の歌だった。
『また桜を一緒に見てくれる?』
『うん』
頷くだけで、精いっぱいだった。
臆病で幼い、微熱のような日々。
そんな奥手な僕だったから、結局、彼女との間にはそれ以上特筆すべき劇的なことなどないままに卒業を迎え、今日にいたる。
「おーい」
友人が僕を呼ぶ。
あれから何度目かの春。
僕はあの日と同じように桜を見ている。
「河川敷に場所取ってるから、そっちに移動するってよ」
「ああ、今、行――。いや、一つ忘れ物を取りに行ってから、すぐに追いつく」
そう告げて、僕は歩き出した。今度は魔法なんかじゃなく、マジックなんかじゃなく、偶然でもなく、人任せでもない。僕は僕の意思で、美しく成長した彼女のそばに近付いていった。
数年ぶりの同窓会だった。
「あのさ」
名前を呼んだ。やたらと緊張してしまった。今までだって、何百回も何千回もたくさん聞いてきた声だったのに、彼女の名前をした僕の声だけが特別だった。
「僕は君のことが好きだよ」
「え?」
「随分と遅れたけど、あの日の答え。もう、遅いかな?」
ずっと、ずっと好きでした。
今も好きです。
きっと、これからも。
ストールを羽織り直した彼女が、そっか、と嬉しそうに息を吐く。それから、悪戯に笑う。試すような光が、瞳には宿っていた。
「あの約束はまだ有効?」
なんのことかは、すぐにピンときた。
彼女も覚えてくれていたことが、嬉しくて、ただ嬉しかった。
「もちろん」
「だったら、きっと遅くはないよ。ずいぶん、待ちはしたけどね」
行こうか、と差し出された手を掴む。少し前に流行った歌をご機嫌に口ずさむ彼女と一緒に歩き出す。一緒に歌って、と視線でせがまれる。少し恥ずかしいけれど、だから歌った。
春の歌だった。
恋の歌だった。
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