卒業アルバムを開いて
生まれて初めての恋をしたのは、まだ小学生の時。
友達とケンカした放課後、買ってもらったばかりの靴を隠されてしまい泣いていたわたしに、どうしたの、と尋ねてきた男の子だった。
わんわんと泣くばかりで言葉は断片的になり、うまく形になっていなかっただろうに、彼はとても真摯に耳を傾けてくれた。日が暮れるまで一緒に靴を探してくれたけれど、結局、靴は見つからないままだった。
しかし次の朝、靴は実にあっさりと靴箱に戻ってくることになる。きっと、親に叱られでもして、でも直接謝ることもできなくて、こっそり戻したんだろう。
そのことに拍子抜けしつつ、でも、見つかったよ、と彼にお礼を言えることが単純に嬉しかった。けれど、それは終ぞ叶わなかった。今度は彼が見つからなかったのだ。名前の一つすら聞いていなかったわたしは、彼がどこの誰なのかを知らなかったというマヌケなオチ。
次に彼の姿を見たのは、運動会だった。
リレーのアンカーで三人をごぼう抜きにして一位を取った彼を、仲間たちが囲んだ。中には女の子もいた。背中を叩かれ、いてーよ、と叫び、体をもみくちゃにされていた。声の感じは怒っている風だけど、実は全然怒ってなんかいなくて、楽しそうに友達とじゃれていた。その時になって、ようやくわたしは彼が二つ年上の先輩だということを知った。
自分でもびっくりするくらいショックを受けた。
大人にとっての二年と小学生にとっての二年って、結構大きな違いがある。行事は一緒にならないし、学年ごとにフロアも違うからすれ違うことすらなかなかない。
その後、小、中、高とわたしは先輩を追いかけるように進学するのだが、お礼どころか、言葉の一つも交わせないままの日々だけが、まるで雪のように深々と降り積もっていった。
毎年買ったチョコレートは、いつも二月十五日に自分で食べることになった。それでも、毎年毎年、ドキドキしながら可愛くラッピングされたチョコレートを買いに走った幼いわたしを、今のわたしはいじらしいと思う。
ああ、そうだ。
バレンタインデーといえば、高校二年生の時、当時放送していたドラマかなにかの影響で、好きな人の写真を生徒手帳に挟んでいると告白が成功する、みたいなものが流行ったことがある。
隠し撮りしたり、知り合いに頼んだり、部活の集合写真だったりと、誰もがあの手この手でお目当ての男の子の写真を入手していたけれど、わたしにはツテなんてものがなく、結局一枚の写真すら手に出来なかった。告白の成否は別にして、あの頃、わたしは好きな人の写真を手にした女の子たちを羨ましく思っていたっけ。
さすがに大学まではどこに行くのか知らなくて、さんざん悩んだわたしは、結局、東京の大学へ進学することにした。受かった中で一番レベルが高かったし、なにより日本の首都だ。先輩がいる可能性が一番高いかも、なんて理由もちょっとだけあった。けれど、しばらくして先輩は大阪の大学に進学していたのだと風の噂で聞いた。
人から先輩のことを聞いたのは、それが最後になった。
「何、考えてんの?」
「ん? 初恋のことを思いだしていた」
「初恋~?」
「結構、長かったのよ。小学校から始まって、まあ、大学に入るくらいまで」
言うと、途端に彼は顔をしかめた。分かりやすい人なのだ。ああ、分かりやすいなんて言うと拗ねるかな。素直な人。真っ直ぐな人。うーん、わたしの好きな人、なんて。そこまで言うと、調子に乗るから口にしないでおくけれど。
先日、彼にプロポーズをされた。
わたしは、はい、と頷いた。
職場の同期になった男だった。
わたしたちは今、結婚式で流す写真の選別していた。
「ちょうどいいや。写真、見せてよ。どれ? 判定してやる」
「ちょっと、やめてよ。それに当時の写真は一枚も持ってないの。二つ上の先輩だったから、声もかけられなくて。同級生だったら、卒業写真くらいは手元に残ったのだろうけど」
「卒業写真、か」
どこか感慨深く呟いた彼が、そう言えば、と大判の本を三つほど順に広げていった。開き癖がついているのだろう、すぐにそのページは開かれた。卒業アルバムだった。
小中高と、三冊分にもなるスナップ写真。小学校の時は、運動会。中学は遠足。高校は文化祭。彼はいつも仲間と肩を組んで、満面の笑みを浮かべている。
と、その三枚の写真の背後には、どれも一人の女の子が映っていた。
見覚えがある、どころじゃない。
「これも、これも、これもさ。全部、君だろ」
「え?」
「ずっと、気になってたんだ。だから、入社式で会った時、運命だと思った」
大学院まで進学していたわたしの二つ年上の同期は、そうして、長い長い、ただ長いだけの、何も残さないまま終わるだけだったわたしの初恋を見つけてくれた。胸がじんわりと熱くなる。彼の後ろで、その姿をいつも見ているだけだったわたしがそこにいた。
「で、話を戻すけど。どこのどいつなわけ。君が好きだった男は。二つ上なら、どこかにいるだろ」
なんて、勘が良いのか悪いのか。
彼は、鼻息荒く唸っている。
さて、どう教えてやろう。それとも、焦らそうかな。ああ、それも可哀相かも。
と、開けていた窓から桜が一枚、はらりと舞って落ちてきた。写真の中のわたしと彼のちょうど真ん中。ハートの形をした花弁を、わたしはちょんと突いた。光を反射して、きらりと輝いた。
眩しさに目を眇めつつ、
「ここの」
わたしは花弁をそっと拾い、まず小学生だった彼を指さした。
「ここの」
次は中学生だった彼だ。
「ここの」
そして、高校生の彼を経て。
「こいつ」
最後に、あれから十数年かけて成長し、大人になったわたしの旦那様へ。
「ありがとう。靴、ちゃんと見つかったよ」
「靴? なんのこと?」
「分からないなら、いいや」
ん、と両手を甘えるように開くと、彼がすっと胸の中に飛び込んできた。とても自然な感じ。空気を吸うのに、少し似ている。何かが確かに満ちていく。
「ね、キスして」
「いいよ」
まずは額に、次は頬にキスをしてもらう。それが終わると、お互いの額をくっつけて、くすくす笑う。彼がこんなにも近くにいる。
伝わってくる振動はわたしのものか、彼のものか。
まあ、でも、どっちでもいい。うん、どっちだって一緒だ。
気持ちはもう共にある。
最後にこらえきれなくなって、唇と唇を重ねた。
そんなわたしたちの傍には、あの頃、あれだけ欲しがっていた彼の写真がいくつも転がっていた。これから、もっともっと増えていくだろう。
卒業写真みたいに、ただ彼を見ているだけじゃない。
彼の隣で彼と同じものを見ているわたしが、きっとそこには映っている。
春の風が吹いた。
手の中の花弁をさらっていった。
桜の甘い香りに、二人で笑った。
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