慈しまれたこと

こどものころ、抱きしめて慈しまれたことを覚えている人は、どれだけいるのだろう。

わたしはこどものころの事を、
中学も高校も含めてほとんど覚えていない。

私は特に裕福でも、かといって物凄く貧乏でもない家で、
溺愛されていたわけでもなく、かといって、特筆すべき大きな問題があるわけでもなく育った。

父親がリストラにあった事とか、母親が気分屋で旅行の最中ずっと機嫌が悪くて腫れ物を触るように過ごした事とか、
金銭的な理由で進学を諦めた事とか、そういう、別に凄くしんどい訳ではない事の積み重ねの中で、
踏まれることに慣れた。

大人になってから、いい人もたくさん会ったし、可愛がってくれる良い先輩にも恵まれた。
ただ、その中には、びっくりするくらい露骨な嫌がらせをされた期間もあった。
踏まれることに慣れすぎてて大丈夫だったけど、
強烈に、大抵の人は敵だと思った。

4年前に今の部署に配属になった。
希望した部署で希望したポジションだった。

本当に、なんのご褒美なんだろう、と言うくらい環境や人に恵まれた場所だった。

配属されて1年たった頃、楽しいことの方が多い1年だったな、と心から思えたし、そんな事ははじめてだった。

そこから更に半年くらいたった頃、部署の飲み会で別の担当の課長に
「俺の担当で一緒に仕事しないか」と誘われた。
私は希望した職種で、すごく楽しくすごしていたので、すぐに断った。
それに、その課長となんて、ほとんど話したことがなかった。
なのに課長は自信満々に私に
「俺はお前を1番うまく使える」と言い切った。

結局、その次の年、私はその課長の担当に異動になった。
異動して最初、たまたま何人かで飲みに行く事があった。
そのとき、課長に「お前は俺直下だから、他の人は気にしないで好きなようにやれ。」と言われた。
「俺がお前をまもってやる」

そのあと私は何回も課長に、俺がまもってやる、と言われたし、実際本当にまもられていた。

先回りして話通してくれたり、私がやりやすいようにタスクを他の人にまわしてくれたり。
「頑張って働いて結果だけ出せよ」と私に笑って言っていたけど、結果を出せるようにしてくれていたのは課長だった。

私がいる会社は、それなりに大きくて、
子供の頃から優秀だったような、育ちのいい人が多い。

一方、私は派遣社員から上がってきた、ほとんど野良犬みたいなもので、
当然だけど同じ仕事をしてても会社からの期待値が天と地ほど違うことを、
もらうサラリー以外からも感じていた。

だからこそ、自分が本当にやりたいことを誰にも言えなかった。
どんなに生産性を上げたところで、やりたい仕事も行きたい部署も、私には道も権利もないと思っていた。

そんなとき、社内の公募があった。
とても興味のあることだったけれど、私は「やりたい」と言えずにいた。
そういった公募はどうせ私ではなく、会社が期待している社員が通ることも解っていたし、
私のようなものは対象ではあるものの、
頭2つ3つ抜けていなければ選ばれないと解っていたから、余計に言えなかった。

ただ、課長なら話くらいはきいてくれるかもしれない、となんとな思っていた。

結局ぐずぐずと1週間悩んで、締切ぎりぎりの時間外になって、やっと課長に言えた。
「雑談なんですけど」と、深刻になりすぎないように、わざと軽口みたいに、手をぎゅっと握りながら伝えたら、「いいんじゃない?」と拍子抜けするほどあっさり許可してくれた。

「そういうのは、どんどんやったほうがいいよ。お前のためになるから」

そうやって、私はまもられて、せなかをおされて、そしてなにより可愛がられて

たった1年だけ一緒に働いた。

課長が異動する時、最後に2人で飲みに行った。
いつもみたいに、どうでもいい話で盛り上がって、
課長もだいぶ酔っ払って、楽しそうで悲しくて、私は最後の最後に泣いてしまった。
いままで自分の希望が上手に言えなかったこと、
やってもいいと言ってくれたから頑張りたいとおもったのに、
結局その公募は通らなくて申し訳ないと思っていたこと、
課長がいないと心細いこと。

泣きながら喋っていたとき、課長がずっと隣で聞きながら、すごく嬉しそうな顔で私を見て、言った。
「セクハラになるかもだけど、だきしめていい?」

あの聞き方は、正直どうかと思うけど、
それでも私は抱きしめられて泣いていたし、課長はずっと私に「おまえが心配だ」と言っていた。

課長は、子供の頃からエリートみたいな人たちの中で、
少しだけ違う道筋で出世をしていて、それが少しだけコンプレックスのように感じている人だった。

課長は、私に自分を見ていたんだと思う。
だから私にあんなに自信満々に「うまく使える」なんて言えたのかな、と思ったけど、本当のところは解らないし、別にわからなくてもいいな、とも思った。

ふたりで終電に乗った。
肩を並べて他愛のないおしゃべりをして顔を見合わせて笑い合っていたとき、慈しまれている、と思った。

小さな子供に戻ったようだ。
私のまわりにあった何かが溶けて小さくなって、頑なである必要がないと、最後の最後にやっと理解した。

課長が異動したあと、私はしばらく心細くて家に帰っては泣いていた。
たった1年間甘やかされただけでこうで、
こんなんなら、全員敵だとおもっていた頃のほうがずっと楽だと思った。

思っていた。

この間、「この人は人の話を聞いてないというか、人を見下しているな」と思うような対応をされた。
どうやって言い返そうか、と考えていたとき、
ふと「こいつにどう思われてもどうでもいいわ、課長は私の味方だし」と思って、一気にどうでも良くなった。

課長はお守りのようだ。
いないのに、私を守る。

私は踏まれることに慣れていると思っていた。
他人は私をそう扱うだろう、とも思っていたし、だからこそ全員敵だと思っていた。

でも、もしかしたらずっと、踏まれた私を立ち上がらせて砂をはたいてくれるような、そんな味方が欲しかったのかもしれない。

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