輪島の海女&漁師の一家を応援することを決めたハナシ その3
早瀬家を訪問すると、千春さんが出て来てくださいました。
先祖代々、能登で海女を続ける家系に育った千春さん。震災後、海に入れない日々なのが一番辛いと話してくれました。
千春さんたち、輪島の海女さんたちが本来活躍しているのは、輪島市の沖合、48キロに位置する「舳倉(へぐら)島」という島です。
震災になるまでは、その島近郊を漁場として、およそ160人の海女が活躍していたのだとか。輪島の海女による伝統的素潜漁は重要無形民俗文化財。更に世界農業遺産にも指定されています。
海に入るのがDNAに刻まれた海女さんが海に入れないのは、相当キツイものがあるようです。
実は輪島の海女は「日本の海女発祥の地」とされる福岡県宗像市の鐘崎と深い縁があるのだそう。
「筑前鐘崎漁業誌」などによると、今からおよそ450年あまり前、筑前国鐘ヶ崎の海士又兵衛(あままたべえ)ら、男女13人が春から漁期の間は能登半島に滞在。秋になると九州へ帰る「アマアルキ」と呼ばれる季節移動を繰り返していたそうです。
その後、「アマアルキ」ではなく能登半島に定住するようになった彼らは、半島から48キロ沖にいる舳倉島などで漁をしながら生計を立てるようになり…。
そして1649年(慶安2年)江戸幕府3代将軍「徳川家光」の時代に、加賀藩から1000坪の土地を拝領して移り住んだのが、現在の輪島市海士(あま)町。
海士町には、宗像三女神の神様・奥津姫を祀る、奧津比咩神社がありました。
実は私も宗像大社さんと少しばかり縁があり、東京宗像会というものに属しているので、幾度となく宗像大社や鐘崎漁港にも行っていますが、まさか、ここに来て神様繋がりで支援させていただくことになるとは、驚きでした。
さて、早瀬家に伺った日のことに話を戻しましょう。
千春さんに挨拶を終えると、千春さんから、義理の姉である隆子さんを紹介してもらいました。
実はこの家や蔵は、もともと隆子さんのご実家だったのだそう。ご主人で漁師や釣り船船長をしている輝邦さんと暮らしていたところに、今回の震災で家が全壊した千春さん家族、土砂崩れの危険で居住禁止となった、息子のユウさんなどがやって来て、大人数で暮らしているということでした。
ちょうど、山田さんの取材に新潟のテレビ局がその現場にいて、千春さんや隆子さん、そして私までインタビューを受けることに。
そして、そのまま蔵の中を案内されると、沢山の箱の山。この中に輪島漆器があるというのです。
厳密なことをいえば、蔵の中にあった家宝の輪島漆器は、隆子さん所有のもの。でも早瀬家みんなの宝物です。
箱には明治や大正の文字が。千春さんやお兄さんたちもそうですが、隆子さんの家も先祖代々、漁師と海女の家系。そのご先祖様たちが、少しずつ、家の宝物として使っていた冠婚葬祭用の輪島漆器。
中には、未使用だろうな、と思う傷一つない漆器も多々あり…。隆子さんやユウさんの話によると、家宝として大切にして来たので、冠婚葬祭のような特別な時以外は使えなくて、蔵に入っていたのだそう。
既に半分ぐらいは、既に洗って持ち出せる状態にありましたが、
まだ、埃を被っているものも多数あり…。山田さんの提案により、持って帰る分は、みんなで洗って、拭いて、綺麗に整えることにしました。
一緒に作業をしながら、蘇っていく器たちを見ると、大切なモノが息を吹き返したような実感が。
そして、隆子さんと私で何を東京に持って行くのか相談をして、千春さんや享ちゃんと共に、みんなで箱に詰める作業をしました。
作業を終える頃、早瀬家の男性たちも帰って来たこともあり、私たちは早瀬家の皆さんの為に、スペシャル珈琲タイムをプレゼント!コーヒーサーバーやポットなども全て準備してきたので、ハミングバードカフェの珈琲を飲んでもらいながら、茶の間で団欒タイムを共に過ごしました。
この時、初めてその底抜けに明るく愉快で、笑いが絶えない早瀬ファミリー皆々様の心にふれ、私は一気に早瀬家の皆さんが大好きになりました!
やはり同じ支援するのなら、気持ちの良い心持ちの人たちを応援したくなるのは、人情というものでしょうか。
翌朝、再び作業のため早瀬家を訪問する約束をして、山田さん、そして夕方から合流した同じプロジェクトで珠洲市の方を支援する長崎のユキさんと共に夕食を食べに行き、
ようやくその日の宿にチェックイン。
泊まった輪島の宿は、漆の宿でした。
つづく…
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