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わからなさについての考察 2

家族の受験への景気付けにデリバリーでうなぎを頼んだら、いつになっても届かなく、確認すると配達済みになっていて、どうやら配達員が食べてしまったらしいという話を聞いた。友達がバイトで下げたうどんか何かの汁を耐えきれず飲んだというカミングアウトは大昔に記憶にあるけれど、そんなことがあるのかと驚いた。
『今』を生きている配達員の行動はもしかしたらとてつもなく深く笑えない話かもしれないし、逆におふざけかもしれないけれど、それでも配達員はクビにならないらしい。

わたしの父は近所の人さまの飼い犬に餌をあげ続けている。
初めてホームセンターのビニール袋に入った『餌』が玄関に置いてあるのを見たとき、意味がわからず、父に尋ねると「餌付けだよ」と言った。

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「ね、」と言って小さな息子と目を合わせた父に、
人の犬に餌をあげちゃだめでしょと呆れ怒った。それから父は餌をわたしに見つからないように隠して、行動し、でもたまにベビーカーに置き忘れた。
息子の保育園のお迎えを頼んだ日には、餌を持参し、帰り道にあるワンコの家で餌をあげて続けていると感じた。なぜなら、ワンコは完全に餌付けされていて、あるときからわたしと息子が家の前を通ると、吠えずにしっぽを振ってくるようになっていた。父は飼い主に初期に注意されたらしいが、「変な餌じゃないですよ(国産なので)」と言ったらしい。

国産関係ないでしょと何回言っても聞かない父のことを友達に相談すると、飼い主の方に直接聞いてみたらとアドバイスされた。飼い主の方にたまたま会ったときに謝ると百も承知という感じだった。かなり恥ずかしかった。
わたしが飼い主だったら怒り狂いそうなのに、なんというか飼い主の方には『受容』という感覚があった。
父の世代にはあるのかもと思った。
犬も子どもも「みんな(近所)」で育てる的な大らかさがわたしにはわからない感覚であるのかもしれない。たまたま大らかな方だっただけかもしれないけれど。

父はもうわたしに隠さず、「最近会ってないからワンワンのとこ行ってみるか」と息子と話している。「おじいちゃんワンワンに会いたくなっちゃった」と。餌をあげたかったのは父本人だったのだと知ったとき、そういえば父が犬が好きだったことを思い出した。

絶対にやってはだめでしょと瞬間的に思ったことが何年にもわたって続くと
だんだん間違っていたのはわたしの方なのか?とわからなくなってくる。
もし「ボクらの時代」にわたし、父、飼い主の3人が出演したら、ワンコを愛している父と飼い主が盛り上がって話し、わたしはつまらない一般論をいう人なのだろう。

きりきりしないで、「(餌)たくさんでなければ良いですよ。この子(ワンコ)ももう歳なので」と言ってくれた飼い主の方の大らかさ、見習いたいです。


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