信念の反転

ステータスという罠

こんにちは、ヨシバです。

突然ですが、人間というのは、小さい頃に体験した痛みを回避する行動を取るらしい。

常日頃から感じていることが一つあって、
日本人の行動基準として「周りからの評価」が占める割合はかなりかなと。

周りからどう評価されるか、という理由で、学校選択であったり、就職をした人も結構多いのでは?

資本主義のアメリカ(individualism)でも言えるけど、collectivism の日本ではもっとその雰囲気を感じてて、「周りからの評価」を気にする根源には、「痛み」としての「評価」が関係してる、というのが私の考えです。

実際に、誰もが周りからの評価によって一度は心に傷を負ったことがあると思います。

低い評価を受けた子は、心の中で、自分には価値のないという「3.信念」を持ち、自分の価値を認めてもらいたい、高い評価をもらいたいという「4,回避行動」へ。

高い評価や地位は獲得したけれど、なぜか満たされない心。幸せってなんだっけと感じる虚しさ。(5.不本意な現実)

何が言いたいかというと、私たちが学校教育で受けてきた優劣をつける評価は、「痛み」を作り出す原因になっているのではないでしょうか、という私の仮説です。

じゃあ、どうすればいいんだと。

「痛み」を癒やすしかないんです。

自分のありのままの価値を認めること。
さらに言うと、目指すべき教育はここだと考えます。

「自分のありのままの価値を包容し、それを伸ばす教育。」

成績表は…?そうなんです。

でも考えてみてください。成績表の目的ってなんですかね。
こんなにもテクノロジーが進歩してオンライン上で教員と保護者が繋がれるの関わらず、
義務教育段階において、生徒の学習成果だったり、日常生活の記録をわざわざ一学期分まとめて渡す必要があるのかどうか。

成績に関することはまた時間があるときでも。


今回の参考文献です。時間がある方は読んでみてください。





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