見出し画像

なぜ教育は「今」変化を求められるのか

こんばんは、ヨシバです。

今日は、僕の考察を含めながらこれからの教育の変化について少し話させてください。

今、教育って結構熱くて、気合い入れて変わろうとしています。ただ、変えたくない力も同じぐらいデカイ。私は、今までの教育を否定しませんが、これからの教育は変わるべきというスタンスでいます。

歴史と一緒に考えたほうがわかりやすいと思うんで、
過去をさかのぼりながら説明させてください。

そもそもなんですが、
知識偏重型教育はけしからん!みたい話をよく耳にしますが、
この教育のあり方は間違えてはいなかったと思います。

なぜかというと、テクノロジーが発達する前に育った人たちの知的活動の中心は、「記憶と再生」だったからです。当時、記憶は人間にしかできないものでしたから、学識ある人の市場価値は高かったわけです。

だからこそ、学校はそういった人材を育成することは当然だし、ここに非難もくそもありません。結果として、学校教育は「記憶と再生」を中心とした知的訓練場となってしまいました。知識や情報のインプットとアウトプットの練習が社会に出たときに生きる力になったということです。

しかし、問題は今です。コンピューターやAI技術が進歩したことで、人間の長所としてた記憶が太刀打ちできないわけです。
社会が変化すれば、求められる力も変わります。教育もOSと同じで、アップデートをしなければ時代に置いていかれてしまうんです。
社会で生きる力を育てるのが学校の役割だからこそ、社会全体で学校の役割はなにかもう一度考える時期だと思います。

知識偏重型の教育に固執しといて、AIに多くの未来の仕事を奪われるとかギャーギャー騒ぐのはどう考えても矛盾です。

だから、「今」変わらないといけないんです。創造性だったり、論理・判断・思考力を高める授業、それを問う試験を作りましょうよ。と、文科省の人たちは頑張ってます。

しかし、ここにも問題があって、それは公平性という壁です。目に見えづらい力こそ、客観的な採点がめちゃくちゃムズイんす。ルーブリック評価ですら若干主観は入りますからねぇ…。

だから、すっごい揉めてるんですね。

個人的は、入試改革はした方がいいし、教育の平等性にはグダグダ言わないのに、公平性になると文句ばっか言い続けるやつなんなんだよとは思ってます。。

物事には、一長一短ありますし、どの主張をするかはその人の自由です。しかし、お互いの背景や考えを理解してこそ、議論です。テレビのあの人がなしって言ってたから私もなし、のような低俗な議論にならないようにただただ願うばかりです。


参考文献


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?