見出し画像

自分という矛盾。ずっと悩まされたトラウマについて話します。

「어두운 면을 드러내는 건 내가 자유로워지는 하나의 방법이다. 이것 또한 나라는 걸 내 소중한 사람들이 꼭 알이주면 좋겠다. (暗い面を表に出すのは私が自由になる一つの方法だ。 これもまた、私というものを、私の大切な人たちにぜひ知ってもらいたい。)」  

『죽고싶지만 떡볶이는 먹고싶어 (死にたいけどトッポギは食べたい)』という、10年に渡り、鬱病を抱えてた作者が治療の全過程を記録したエッセイ集から抜粋しました。

こんにちは。少し重い話題になりますが、子どもの頃からずっと悩まされてきたトラウマ、そして辛い過去、及びそれらがどう今の生活に影響をしているかを書きまとめたいと思います。

話を始める前に、今までの人生経験を要約すると、

1997 年東京江戸川区にて、中国系日本人(Chinese Japanese)としてこの世界に生まれる。2004年中国広州市に移住、日本人学校入学。2010年広州日本人学校を卒業、重慶市にある現地校に入学。2013年現地校を卒業、インターナショナル高校に入学。2016年インターナショナル高校を卒業後、アメリカオハイオ州にある、オハイオ州立大学に入学。2017年韓国に交換留学。2018年台湾に短期留学。2019年夏休みを利用して東京でバイト生活。2020年5月オハイオ州立大学卒業見込み、それから韓国へワーホリに行き、一年後に日本に戻り、大学院に通い、修士号獲得後に日本で就職する予定。

自分の家族史についても少し触れたいと思います。

父側の家族は中国重慶市にルーツを持ち、「趙(ちょう、北京語ではズアオと読む)」と言う名字を使用していました。母側は中国貴州省貴陽市にルーツを持ち、「余(北京語ではカタカナの「ユ」に近い発音)」という名字を使用していました。両親は幼馴染らしく、中国で修士号獲得後に日本へ留学に来て、そのまま帰化、結婚、そして僕が生まれました。2004年に、親の仕事の関係で再び日本から中国に移り住み、それから今に至るまで二人とも中国を拠点にしています。ちなみに、両親は僕が10歳の頃にとある原因で離婚を決意し、親権は父側に行ったため、ずっと父、祖父母と一緒に暮らしていました。

父側には叔父さんが二人いて、それぞれ中国の大学を卒業した後に日本に留学、そのうち一人はアメリカに移住してアメリカ国籍を取得して結婚、もう一人は中国国民として日本の永住権を獲得、今でも日本にいます。

こんな感じでバックグランドを大まか把握したところで、話を始めたいと思います。大まかにまとめると、子どもの時からずっと心の奥底に存在していた不安感は五つの要素から成り立ちます。

1)心が通じ合う「家族」がいない

ほとんどの人にとって、「家族」、もしくは「家庭」という単語を見て最初に思い出すのは、おそらくひとつの屋根の下で父、母、兄弟、ペットと共に暮らす日常生活だと思います。家を出るときの「行ってきます!」、帰ったら「お帰りなさい」、そして家族全員でテーブルを囲み、雑談したりテレビを見ながら晩御飯の時間を楽しむ。そんな「ごく普通の生活」を10歳の時に失い、もう取り戻すことはできないものの、僕はそんな「ごく普通の生活」を再び過ごせる時をずっと待ち望んでいました。

2010年、僕がまだ広州日本人学校にて小学四年生になった時に、諸事情で親は離婚しました。親権は父親に渡ったため、父、父側の祖父母と一緒に暮らし、母親は広州市に別の家を購入して、そこに住んでました。それから月一か月二の頻度で母親とも会っていたんですが、あまり親近感は無く、困った時や悩んだ時に相談できるほど親密な関係にはなれませんでした。それに、母親は昔からコントロール欲が比較的に強く、責任感は強いものの、過干渉する場合も少なくないので、母親と接する時には多少の抵抗感もありました。例えば、高校二年生の時にSAT(アメリカの大学入試試験、日本で言うセンター試験)と TOEFLを準備するために塾に通うことにしたのですが、どの塾に通うかで意見の相違もあり、母親が「自分のいう通りにしないと(親子関係を)絶縁する!」まで言いだすほど、自分の想定通りに物事を進めたがる人でした。すなわち、母親とは父が離婚した後から親密なコミュニケーションはなく、親でありながら少し遠い存在になり、今もあまり頼ったり、相談したり、悩みを打ち明けません。(親としての責任感は強く、誰よりも僕のことを思ってくれているのは否定しません。)

父親と一緒に暮らしたと書きましたが、父親も仕事の都合で出張や他の都市に住む事が多く、あまり家にいた事がないぐらいでした。仕方ないとは理解しつつも、親密なコミュニケーションはなく、自分の悩みを相談してもらったり、頻繁に遊んでもらえなかったから、心の距離はどこかしら遠く、母親と同じく、自分の弱い面を決して見せたくもなく、あまり頼りたくもなくなりました。僕にとって、父親もまた遠い存在です。さらに、2015年に父親が再婚相手ともう一人の子供を授かり、新たな三人家族が出来てしまったので、尚更僕が入り込めるスペースがなくなりました。

18歳になるまでほとんどの時間を祖父母と一緒に過ごしました。広州市、重慶市では父側の祖父母と、そして貴州省貴陽市では母側の祖父母の家で寝泊りをしていたのですが、同じく心のコミュニケーションはほぼなく、日常生活の面においては面倒を見てくれたのですが、困った時に助けを求めれる存在ではありませんでした。即ち、幼少期から弱音を吐ける、もしくは心理的な問題に会った時に助けを求めれる人はなく、家族と呼べる人たちの間に大きな壁が存在していました。その為か、問題に直面した時は誰にも頼らず、自分で考え、自分で判断して、何があっても自分で全て消化する習慣を身につけました。

2)度重なる環境の変化

前にもお話しした通り、小学校、中学校、高校ー大学をそれぞれ文化と言語が異なる環境で過ごしました。広州日本人学校では日本語で、日本人のクラスメート達と共に日本のカリキュラムを学びました。中学校段階になると、中国語(北京語と重慶方言)で、中国人のクラスメート達と共に中国のカリキュラムを学び、高校から大学は英語でアメリカ式の教育を受けてきました。慣れた言語を全て捨てて、新たな文化、言語を一から学び、そしてその言語で専門知識を学ぶ。今になってはこういう経験が恩恵になりましたが、当時の僕にとっては苦しみでしかありませんでした。例えば、現地中学校には「月考」(北京語:イウエーカオ)と言う月一に行われる大テストがあり、テストの合計点がランク付けで全学年に発表されるシステムでした。2010年(入学した年)1回目の「月考」では、問題ですら理解できなかったので、悲惨な点数になりました。幸いな事に、広州市に住んでた時にハイレベルな英語を叩き込まれたので、英語だけが取り柄でした。国語(中国語)91/150点(これも先生の情けでギリギリ合格点)、数学38/150点、英語130/150点、政治20/50点、歴史18/50点、地理16/50点...と、合計点のランクは360人中、下から数えて7位でした。週7の主な時間を授業と勉強に使い、自分で効果的な勉強法を編み出したりして、中学二年生の下半期には全学年TOP 60まで入り込み、国語は110/150点, 数学も110/150点, 英語は140/150点, 歴史、政治、地理、生物は40/50点取れる様になりました。テストの度に合計点とランクが上がるのは最大のモチベではありましたが、テスト問題や概念の説明文も読めず、一つ一つ辞書を引きながら勉強したあの期間は常に苦痛と絶望感が伴いました。

高校に入り、英語で行われる授業の割合が増えていき、やっと中国語で授業をとるのになれたと思ったら、また一からのやり直しでした。中学時代から英語は常に学年トップで、三年間鍛えられてきたので英語を喋ったり、書くのには自信があったのですが、英語で高度な知識を勉強するとなるとまた違うケースです。例えば、英語でAcademic Essayの構成を教わったり、Calculus の概念を理解するのに最初はとても力を費やしましたが、中学時代の(日本語から中国語へ)ノウハウもあり、前ほど苦労はせず、高校二年から普通に英語で高等数学、物理、化学、心理学、世界史、統計学などの科目を問題なく聞き取れて、テストでもそこそこ悪くない成績を叩き出せました。さらに、高三になると日本語かスペイン語の履修を義務付けられてた為、校長先生に直談して、日本語教師として一年間日本語の授業、テストの出題と採点等も担当できて、唯一の「生徒であり教師」というスターテスと、(給料は出なかったものの)食堂が無料になるなどの教師待遇も満喫できました。

今振り返ってみれば、この二度に渡る環境と教育の変化(のちに韓国に行き、3度目もあったがw)に挫けなかったお陰で得るものはたくさんあったものの、当時は辞書を引きながら勉強して、必死に食らいつくのがやっとでした。そして、1)でも申し上げた通り、一番悩み、人生の一番辛い時期に相談できる家族もいなかったので、苦しみも全て自分で背負うこととなり、心にある程度の傷跡はやはり残りました。

3)二つの「祖国」による衝突ーアイデンティティーの問題

家族背景でも少し触れましたが、僕は「中国系日本人 (Chinese Japanese/Japan Born Chinese)」であり、中国重慶市にルーツを持ちながらも日本で生まれ、日本の国籍を持ち、日本の文化と価値観を持ちながら育ちました。しかし、日本と中国、2カ国の対立や家族内でのアイデンティティーに対する認識の相違によって長く苦しめられてきました。具体的に説明すると、祖父母の世代は中国で生まれ育ち、毛沢東らが率いる中国共産党の革命にも参加するほど中国(中華人民共和国/PRC)の価値観に染まり、父親世代も大学院卒業まで中国(中華人民共和国/PRC)を出たことがない為、仕事の都合上で日本国籍を取得しても心は中国人でした。しかし、僕や従兄弟を含む世代では全く違う考えを持っていた為、家族内でも統一したアイデンティティーがなく、時々口論に発展するほどでした。例えば、小学校の時に、親戚から「母国語はなんなの?」って聞かれて「日本語だよ!」って答えたら、父が急に怒りだして、「違う!中国語だ!そしてお前は中国人だ!」と怒鳴りつけました。東京、広州、重慶、コロンバス、ソウル、台北といろんな都市で生活してきましたが、自分が中国の血を引いてるだけで、日本人である事に間違いはないと信じてきたものの、家族内のプレッシャーと環境に影響され、時折「自分はどこの人なの?」と自分を疑うこともありました。

2011年に野田政権が尖閣諸島の国有化を宣言した時、日本と中国の対立が再びヒートアップしましたが、それは国同士の対立だけでなく、僕の内心では「日本人というアイデンティティー」と「中国人の血を引いてるから中国人」という、二つのアイデンティティーによる衝突を引き起こしてしまいました。現地中学校に通っていた為、歴史の授業では必ずと言っていいほど歴史の先生が、「いいですか、皆さん!钓鱼岛·(尖閣諸島の中国語名称)は我々中国の領土であり、日本のではないことを今一度心に刻んでください。私たちは中国人として絶対に守らなくてはなりません!」と繰り返し、「日本は過去に中国を侵略し、南京大屠杀では30万もの命を奪った!」など、尖閣諸島に関する紛争と太平洋戦争などを何度も何度も強調しました。家に帰っても、CCTV(中国国営テレビ)は毎日のように「日本船がまたもや我が領土、钓鱼岛に領海侵犯しました」と放送し、同時に日本のニュースでは「中国船が尖閣諸島に領海侵犯しました」と報道していたので、どちらを信用して良いのかがわからなくなり、自分を見失いました。今思えば、この出来事が大学で東アジアの歴史と国際関係を学び、外交に興味を持ったきっかけになったのかもしれません。来年の春に習近平国家主席が日本に国賓訪問するほど両国間の関係は改善していますが、日本と中国、隣り合う大国間の政治的・軍事的な対立がなくならない限り、自分の葛藤も治らないと思います。

「日本vs中国」と言うアイデンティティーの衝突は政治、国際情勢などによって引き起こされましたが、文化的な面でも深刻になってきました。中国にて生活していた時は普通に春節、中秋節などを家族と一緒に過ごしていましたが、大学になるとまた「春節、中秋節といった、中国伝統の祝日を過ごすべきなのか」という葛藤が発生しました。自分自身を一人の中国人だと思った事はなく、自分は中国の血を受け継いでいるから必ず祝わないといけない、という考えも持った事はありません。しかし、毎年春節や中秋節が近づくと、「過ごしたくないけど祝わないと」というプレッシャーが湧き上がります。と言うのも、親や親戚、そして周りの中国人友達が過ごすので、みんなに合わせなきゃと言う圧力もあり、親からも「早くおめでとうと私達、祖父母、親戚にメッセージを送りなさい!」と必ず連絡が来ます。「自分は中国人じゃないし、春節を過ごす文化は自分の中にないから僕にとっては祝日でもないし、あくまで普通の日だよ」と説明はしたものの、「しかし家族や親戚にとってはおめでたい日だよ?」と返され、嫌々「おめでとう」メールを送ってますが、「自分にとっては祝日でもなんでもないし、自分の文化でもないから過ごさない」と言うスタンスを取っています。

また、大学にて東アジアの近現代史、国際関係などについて学んでからは自分の政治的な観点も持つようになり、習近平政権の政策ややり方に賛同できない、中華人民共和国に対して多少否定的な態度をとるようになり、ますます自分の中にある「中国人らしさ (Chineseness)」を否定するようになるました。

4)大学の専攻は自分の得意分野でもあり、同時に最も自分を傷つけるもの

高校まではバリバリの理系で、微積分を使って統計学や物理問題を解くのが何より好きで、休み時間を利用して後輩達に微積分、統計学や物理を教えてました。大学受験する時も応用数学(Applied math)を選択するほど数字を計算するのを楽しんでましたが、友達のように仲がいい先生に「君、東アジア研究(East Asian Studies)に向いてるんじゃない?応用数学よりその専攻をお勧めするよ!」と言われ、結局オハイオ州立大学の歴史専攻東アジア史学科(History Major with concentration on East Asian Histroy)を選択して大学生活を始め、数学とは一切関わりがなくなってしまいました。

数年間勉強して、自分でもこの専攻に向いてるなと発見しました。東アジアと言えば日本、中国(中華人民共和国/PRC)、(中華人民共和国)香港およびマカオ特別行政区、台湾(中華民国/ROC)、大韓民国 (Rep. of Korea)と朝鮮民主主義人民共和国 (D.P.R.K)のことを指しますが、これら7つの国・地域の言語だけでなく、歴史、政治、価値観などに関しては他の学生より詳しく、比較的な観点から物事を捉えることができるので、歴史や国際関係の分野では各授業にて教授とも仲良くなり、それなりにいい成績を収めました。

しかし、東アジアの歴史や国際関係を研究するにあたって、日中関係、中台関係、南北関係、日韓関係、日朝関係に触れないわけには行かず、日中関係や太平洋戦争などをテーマにした授業では、自分の「アイデンティティーの衝突」により情緒不安定になることや、感情的になってしまい、結果的に自分を痛みつけていることになります。例えば、前学期に取った第二次日中戦争(The Second Sino-Japanese War, 1937-1945)のゼミではドキュメンタリー鑑賞もありますが、日本軍と中国国民党軍が正面衝突するシーン、お互いの軍人が血まみれになって戦るシーンなどを見ると瞬時に情緒不安定になり、戦争によって人々が命を失っていくのを見て心を痛めたり、侵略したのは日本なのに、戦ってる日本の兵士もただ命令に従っているだけで、クラスメートが一方的にどちらが正義でどちらが悪(例えば「日本が侵略したんだから日本が悪い」)なんて討論をしてるのを聞くとついつい感情的になってしまう、なんてことも頻繁に発生しました。自分のルーツがある国(中国)と自分がその国民であることを誇りに思える国(日本)の対立、そして過去の戦争について話すとなるとどうしても「正しい、間違い」が結論付けられ、両国が歴史問題で揉めるのを見ていると、どっちも視点が違うだけで言い分があり、「結論のない争いをいつまでしてるんだ?」とどうすることも出来ず、もどかしくなります。従って、東アジアの歴史や国際関係にて敏感な話題に触れると、自分の内心にある、パンドラの箱を開けてしまう結果になるため、メンタル的にきつくなる事もしばしばあります。

5)自分が「家」と思う場所に、家がない

実家がなく、自分が家だと認識している都市に戻ってもそこに住める家がないため、無力感と虚無感を感じる事があります。生まれてから東京、広州、重慶、サンフランシスコ、コロンバス、ソウル、台北といろんな都市で生活をしてきて、「果たして自分の家はどこにあるのだろうか?」と言う問題についても考えました。その結果、自分にとって本当に帰りたいところは子供の頃生まれ育った東京であり、もっとも長く住んだ中国(広州、重慶、合計12年)はあくまで外国だと言う、自分でも納得いく結論にたどり着きました。しかし、東京にある実家は2004年から他人に貸し出しており、毎回東京に戻ったら友達の家にお世話になるか、Airbnbに泊まるかの二択しかありませんでした。東京の色んなところを散策できで、常に新しい発見が見つかると言うメリットはありますが、自分で「家」と定義している東京でも心のよりどころが見つからず、「ホームレス」状態で東京を彷徨う事になると考えたら鬱々しくなります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?