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哲創10 二項対立と分析統合


科学的思考というのは必ずしも一義的な意味合いが強いというわけではないのだろうけれども論の立て方として組み立て方は一義的なもので矛盾しないかどうかを判定しているのは事実であるだのろう。西洋流な自然科学の真理追求ではそのもとになった考え方がこのような二項対立なるのだと思う。

二項対立とは自と他、主体と客体というような思考をいいます。こればかりでなく、「何々はこうである」「こうでないと矛盾する」よって「こうである」というような論理もまたこの分離法によっている。この二項を対立させて議論するのであるけれども、自分の考えが日本的であるという自信もないですけどこの分離法は科学的思考の一つにはなるのでしょうがしっくりこない面もあるのです。

科学的思考は「論理的に摂理や事実を説明し、説得される。あるいは理解できる。」というような根拠を持った解釈を与えるものですが、そうした対峙性の元で考える場合に生まれてくる思考であってそうでなければ考えもしないのです。ですから公園の芝生の上から対面にある木を眺めながら、木陰のそよ風を感じているときには 何の木で広葉樹なぞと考えてはいない。桜の木を意識するのは花が咲いているとか、そこに虫がいるとか観察や風情などの中での感じ方となります。そのような感じ方から解放されても何かその対象にフォーカスしたとき、その時間的に近い深層を内在した捉え方をしていることが多いように思われます。

机の上にりんごが置いてある。「リンゴ」と言っても目に映る林檎は色(フジかな?)とか蔕がついているとか、はたまた光が映す影を含めて「リンゴ」を見ている。「リンゴ」は物質であり、植物であり、フルーツであることに違いはないのですがね。この例のように言葉一つの中に内在する背景であったり、食感であったり、季節感であったり、甘酸っぱさであったり、そうした要素を含んでいて、生物学として議論するのでも複数の内在物が存在しているように思われるのです。

他の見方で「机の上のリンゴ」は物体であるけれども自分が見て判断するとき、置かれていることと影の存在を含めて見ている。「そのリンゴをみて」と言った時に日本語のミルには 見る(look at)だけでないのです。 観る、診る、視る、看る、鑑るなどの意味合いも含んでいます。この把握する行為は科学的思考により、表して(あるいは現わして)いるのですが、分離して統合した結果を「見る」と言っているではないかと思います。あるいは「見る」行為が観る、診る、視る、看る、鑑るなどの意味合いも含んでいるとするかが問題なのかもしれません。

これはある意味でそこのリンゴには複数の属性があることを意味してます。ですから,「物質として考えますよ」として見た場合にリンゴは物体として認識されるのではないでしょうか? この前提でリンゴはその場において把握される。ということです。このことは 弁証法を待たずとも 物事を考える元に前の例では「見る」の中に複数の「みる」が内在しているということや物体があるの認識するときそこには影ある。というようなこと。このような見方も重要である気がしています。仏教思想などにあるように 唯「みる」という捉え方です。

二項対立の考え方は実は突き止めると論理の構築自身は自分が客体的な立場で論理立てるという自身の主体的思考から発せられるという点で矛盾に行き当たるのです。定量的あるいは解析的な数値あるいは数式で記述できるもの以外は 元来このような矛盾を内在しているといっていいと思われます。ですから、行為としての分析・統合という科学的思考を実践したとしても検証過程が重要になるでしょう。

話はかわりますが、二項対立の過程を経て現代物理学は相対性理論と量子論に突入してやっと両眼でみるところまで物質の起源を解明してきています。素粒子物理に足跡を残した中谷宇吉郎や湯川秀樹ら多くの研究者が仏教思想や東洋思想に傾倒するのが必然のようにも感ぜられます。 物理や工学の分野では理解を深めるために科学的思考は重要なことであり、ある意味 社会科学や人文科学では情緒的な思想が多いので科学的思考は更に重要でしょう。

先に示した3つの前提にあるその部分の分析が必要だと思う。特に2つの前提の妥当性の検証が重点になると思われます。
1. 科学的思考には 対象がある。
2. 科学的思考には階層ということがある。
この「対象」と「階層」=群、ジャンル、、カテゴリーの妥当性が大事になると思います。これに対するアプローチの手法やその妥当性の判断についても今後考えてみたいと思う。


比較的抽象的な話に段々入って行ってしまったようにも思えます。異なる切り口で再度 哲創1-10までを見直してみようと思います。

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